artscapeレビュー

2016年04月01日号のレビュー/プレビュー

生誕180年記念 富岡鉄斎─近代への架け橋─展

会期:2016/03/12~2016/05/08

兵庫県立美術館[兵庫県]

1985年に京都市美術館で行なわれた生誕150年を記念する回顧展以来、30年ぶりの大規模個展。鉄斎コレクションで知られる兵庫県宝塚市の清荒神清澄寺 鉄斎美術館との共催で、初期から晩年まで約200点の作品を前後期入れ替えで展示している。鉄斎は幼少期から幅広く学問を修め、89歳で亡くなるまで自分は学者だと自任していた。つまり彼にとって絵は余技という訳だが、そのポジションゆえの自由さか、あり余る知識の成せる業か、奔放な筆致、豊かな色彩、壮大なスケールは、いわゆる文人画の範疇を遥かに超えている。特に屏風画などの大作はスペクタクルあるいはファンタジーと形容すべき代物で、現代のゲーマーやオタクが見たら何と言うか聞いてみたいと思った。また、作品の発色も素晴らしく、最高級の墨と絵具を惜しげもなく使用していたことが窺える。やはり実物を見なければ物の良し悪しは分からない。次に大規模な鉄斎展が行なわれるのは没後200年となる20年後だろう。それまで待てない人は、この機会を見逃さないようにしてほしい。

2016/03/12(土)(小吹隆文)

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毛利そよ香展

会期:2016/03/12~2016/03/17

ギャラリー島田deux[兵庫県]

地面の下で根を伸ばす地下茎の姿を、鉛筆の細密な線と土、顔料などで描き出す毛利そよ香。地下茎は、目には見えぬが人間にとっては必須の要素、例えば無意識の世界を象徴しているのであろうか。本作でもそうした絵画作品が多数展示されたが、一部の作品にはこれまでになかったあざやかな色遣いが見られ、地上の風景が描かれていた。まるで彼女のなかで蓄積されてきたエネルギーが臨界点に達し、地上に解き放たれる寸前まで達しているかのようだ。次の個展で作風が一変するとまでは言わないが、何か大きな変化が起こるのではないか、そんな兆しをはっきり感じた。

2016/03/12(土)(小吹隆文)

福留麻里『多摩動物公園』(「Hino Koshiro plays prototype Virginal Variations」東京公演)

会期:2016/03/13

VACANT[東京都]

日野浩志郎の新プロジェクトによる演奏がメインアクトの公演で、福留麻里がオープニングアクトとして踊った。福留は10年以上前からほうほう堂で活躍してきた、日本のコンテンポラリーダンスの代表的なダンサー。一昨年から自作のソロ公演を行なうようになったのだが、どの作品にも共通するのは、どこかの土地(地域)に端を発しており、その土地のリサーチをベースにしているところである。『川に教わる』(STスポット、2014)は福留が親しんできた多摩川を調べた作品だし、『そこで眠る、これを起こす、ここに起こされる』(世田谷美術館、2015)は砧公園を含む世田谷美術館周辺に取材した作品である。今作も、その点は類似している。なんせタイトルには「多摩動物公園」とある。暗転したなか、福留はまず会場の印象的な階段のあたりに現われた。黒い服に白い豆電気がいくつか輝く、その手には小さなラジカセがあって、そこから動物の声が聞こえてくる。動物園で撮られたものだろう、その音声は原宿の会場をジャングルのような雰囲気に変えた。こうしたフィールド・レコーディングの素材を直に舞台空間に持ち込むことで得られる効果は大きい。あるいは、今回は用いられなかったが、映像の素材にも同様の力はあることだろう。さて、そうした素材とは異なり、今回のダンスに持ち込むのはダンサーだ。ダンサーはそこ(多摩動物公園)にあったかもしれないが、ここ(VACANT)にもあるという存在だ。ダンサーという媒体にもなにほどかが記録(記憶)されているかもしれないが、それを物理的に、客観的に、ここに置くこと(つまり、記録媒体のように、記録ないし記憶を踊りによって再生すること)はとても難しい。ダンサーはここで、音を持ち込み、音にあるものを気づかせる役を担う。ときには、奇妙な生き物と化して、観客の胸をかき混ぜる。それもひとつの方法だろう。けれども、ダンサーは別の役割もできないだろうか、フィールドを再生させるような役割が。もちろん、福留が目指したのがそれであるかは不明だが、先に述べたような難しさを無視せぬまま、その克服の可能性を求めても良いように思うのだ。

2016/03/13(日)(木村覚)

笹岡敬展 TIMES2016

会期:2016/03/12~2016/03/26

CAS[大阪府]

笹岡敬の作品といえば、光を駆使したインスタレーションが思い浮かぶ。しかし本展の作品は映像だ。疾走する自動車から撮影した風景がパノラマサイズで上映され、景色が次々に移り変わっていく。上映には2台の映写機が用いられていたが、それは画面が極端に横長なためだろうと勝手に思い込んでいた。あとで本人に、「じつは同一映像を時間差をつけて横並びで流している」と聞き、とても驚いた。あらためて作品を見直すと、確かに同じ映像だ。そこには二つのずれた時間があり、我々が普段感じているのとは違う時間認識が顔を覗かせていた。笹岡は2015年に「timelake─時間の湖─」という企画展に参加し、時間を一直線の流れではなく、過去と未来を行きつ戻りつして認識するものと思うようになった。本作はその考えに基づくものである。習作的なラフさもあるが、今後の展開次第では笹岡の新たな起点と見なされるかもしれない。

2016/03/16(水)(小吹隆文)

時間をめぐる、めぐる時間の展覧会

会期:2016/03/05~2016/03/21

世田谷文化生活情報センター:生活工房[東京都]

私たちを取りまく世界にはいくつかの「時間」がある。世界一正確に運行する日本の鉄道。ジャスト・イン・タイムに見られるような時間と資材の管理。タイムカードによって賃金に換算される労働は、どの1分1秒も均質なビジネスの時間だ。他方で、家庭での生活、折々の行事、移ろう季節の楽しみ、食卓に上る食材の変化など、そのときどきで価値や単位が異なる暮らしの時間がある。時間に追われ、時間に支配される生活は近代的な現象で、それ以前から長きにわたって親しんできた時間の流れは、いまでも私たちの生活のさまざまな場面に残されている。この展覧会を見て体感したことは、なかば忘れかけていた多様な時間、均質ではない日々の存在だ。
 4階展示室第1部は「律動の星に生きる」。地球と太陽、月など天体の関係性から生まれる周期と律動について示されている。地球の自転によって決まる1日、月の満ち欠けによって生じる1カ月、地球の公転による1年という時間と季節の流れ、そして太陽と月の位置関係による重力の変化が、人間を含む地球上の生物のリズムを司っているさまを見せる。第2部「人間たちの時」は、人々が「時」を畏れ、克服してきた歴史だ。見どころは《時の精霊》と題した絵。ラウル・デュフィ「電気の精」に倣って、ここには古代から産業革命を経て現在まで、人間と時間との関わりの歴史が描かれている。第3部は「わたしたちの時」。トルコのラマダンや、ティティカカ湖の生活、カトマンドゥのバザールなど、さまざまな地域の暮らしと時間の関係を、国立民族学博物館が制作した映像で見る。そして最後のパートは、《時の大河》と名付けられた大きな円環で、地球上における1年の変化と人々のくらしを立体的なダイアグラムで示すたいへんな労作。世田谷で南天が実を付けるころに鹿児島ではナベヅルが飛来するなど、円の内側には私たちに身近な地域(世田谷)の、外側になるほど遠くの地域の出来事が書かれている。天井から吊り下げられた棒には、円環と呼応してその季節における人々のくらし・行事が示され、周囲を囲むバナーにはさらに詳細な季節の営みが書かれている。3階ギャラリーは「時の採集箱」。樹木の年輪、川を流れるあいだに丸くなった石ころ、貝殻に刻まれた成長の跡、地中に埋もれた植物の化石である石炭等々、時間の流れが刻み込まれたモノと写真が展示されている。企画、会場デザインは2012年に同所で「I'm so sleepy──どうにも眠くなる展覧会」を手がけた生活工房の竹田由美さん、セセンシトカの佐々木光さん、佐々木真由子さん。展示と映像を見終わって、人とくらしと時間にまつわる1冊のエッセイ集を読み終えたような印象が残った。[新川徳彦]


《律動の星に生きる》


《時の精霊》


《時の大河》(すべて会場風景)

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2016/03/17(木)(SYNK)

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