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魅惑のコスチューム:バレエ・リュス展

2014年07月01日号

会期:2014/06/18~2014/09/01

国立新美術館[東京都]

ロシア出身の貴族セルゲイ・ディアギレフが主宰したバレエ団「バレエ・リュス(ロシア・バレエ)」。舞踏、音楽、そして美術において卓越した才能を見出し、1909年からディアギレフが亡くなる1929年までの20年間にバレエを革新し、総合芸術にまで高めた伝説のバレエ団。本展はいまから100年ほど前に演じられたバレエ・リュスの舞台衣裳を集めた展覧会だ。会場は四つのパートに分けられている。第1は1909年から1913年までの初期の活動。アレクサンドル・ブノワ、レオン・バクストらによる美術・装置は東洋的、あるいはロシア的なエキゾティシズムに溢れ、西欧の観客に大きなインパクトを与えた。第2は1914年から1921年。第一次世界大戦が勃発した後、ディアギレフはそれまでの東洋趣味から離れ、ピカソやコクトーなどパリで活躍していた芸術家たちと共同し、同時代のモダニスムを取り入れてゆく。第3は1921年から1929年で、モダンで洗練された作品が生み出された時代。マリー・ローランサンやガブリエル・シャネルなどが美術を手がけている。第4はバレエ・リュスの解散後。ディアギレフの没後にその活動に触発されたバレエ団がいくつか現われるが、そのなかでも1932年に結成されたバレエ・リュス・ド・モンテカルロの活動に焦点を当てる。あくまでも衣裳を中心とした展示ではあるが、いくつかの映像によって総合芸術としてのその舞台の新しさを垣間見ることができよう。
 ディアギレフの時代に限定すればわずか20年の活動期間ではあるが、関わった人々はダンサー、音楽家、美術家のいずれも多彩で、バレエ・リュスはつねに変化し、新しい舞台を生み出し続けていた。それは、バレエ・リュスが他のバレエ団と異なり、固定の劇場を持たなかったこと。プロモーターとしてのディアギレフは才能を見出す能力に長けており、成功したダンサーがバレエ団を離れても、新しい才能を見つけ出し、バレエ団に新風を送り続けることができたことなどの理由があげられよう。またパリでの成功(それは必ずしも経済的な成功を意味しないが)は西ヨーロッパの芸術家やそのパトロンたちとの交流をもたらし、脚本、音楽、美術を変化させていった。
 本展に出品されている舞台衣裳はみなオーストラリア国立美術館の所蔵品。ディアギレフの没後、バレエ・リュス・ド・モンテカルロに引き継がれた舞台衣裳が、1973年の競売でモダンアートの作品蒐集を目指していたオーストラリア・ナショナル・ギャラリー(現オーストラリア国立美術館)によって落札されたのだ。その後も蒐集は続き、バレエ・リュスの衣裳と関連資料は同館の重要な位置を占めるコレクションとなっている。ヨーロッパのバレエ団の衣裳が蒐集対象とされたのは、バレエ・リュス・ド・モンテカルロがオーストラリアで3回にわたって公演を行ない、同バレエ団で活躍したダンサーたちがオーストラリアのバレエの基礎を築いた存在であったからだという。豪華で色鮮やかな衣裳は100年前につくられたものと思えないほどよい状態に見えるが、それは同美術館の修復部門の仕事の賜物である。本展図録に詳説された資料獲得の経緯やその修復のプロセスはとても興味深い。
 1909年から1929年はすなわち明治42年から昭和4年。バレエ・リュスは日本にはやってこなかったが、ヨーロッパに訪問、留学していた日本人でその舞台を見た人たちがいる。本橋弥生・国立新美術館学芸員の論考「日本におけるバレエ・リュスの受容──1910-20年代を中心に」(本展図録、181-193頁)には、パリやロンドンでバレエ・リュスの舞台を鑑賞した日本人として、石井柏亭、山田耕作、小山内薫、島崎藤村、大田黒元雄、二代目市川猿之助らの名前が挙げられている。またバクストらが手がけた舞台美術は、はやくから日本で紹介されていたという。オーストラリアと日本。20世紀初頭の極東の地にまで影響を与えたバレエ・リュスの舞台が、当時いかにセンセーショナルなものであったかがうかがわれる。[新川徳彦]

2014/06/25(金)(SYNK)

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