artscapeレビュー
鴻池朋子 展 根源的暴力
2015年12月01日号
会期:2015/10/24~2015/11/28
神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]
鴻池朋子の新作展。東京では2009年に東京オペラシティアートギャラリーが催した「インタートラベラー」展以来、6年ぶりとなる大規模な個展である。しかも展示されたのは、すべて東日本大震災以後に制作された新作で、新たな出発点を刻む展観だった。
「根源的暴力」と「インタートラベラー」は好対照である。後者の中軸がエンターテイメント施設のような動的な外向性にあったとすれば、前者のそれは博物館のような静的な内向性にあったように見受けられるからだ。事実、抑制された照明のもとで整然と陳列された作品の数々は、鑑賞者の視線をそれらと正面から対峙するように働きかけていた。後者の作品がある種の全体的な流動性のなかに位置づけられていたとすれば、前者のそれはそれぞれの個別性によって細かく分節されていたと言ってもいい。
むろんその視線は、「インタートラベラー」での視覚体験がそうだったように、きわめて濃厚な触覚性を帯びていた。鉛筆のドローイングがざらついた感触を醸し出しているだけではない。粘土をこねた立体作品は何かをまさぐり出そうとする鴻池自身の手の運動性を如実に物語っていたし、牛革の表面に描かれた動植物のイメージも、獣の皮膚の生々しさと相俟ったせいだろうか、まるで新たに変身した別の生物のように私たちの眼前にその姿を露わにしていた。思い返せば「インタートラベラー」では狼の毛皮によって触覚性を直接的に体感させていたから、鴻池の関心はこれまで以上に視線の触覚性に集中しているのかもしれない。
だが重要なのは、その触覚的な視線の質である。20メートルにも及ぶ《皮緞帳》は、火山や臓器、動植物など、この地球上の生きとし生けるもののイメージを凝縮させた大作だが、いくつもの牛革を縫合して支持体を形成しているせいか、それらのイメージが有機的に連結しながら全体を構成しているように見える。飛翔する鳥のイメージを見せた《着物 鳥》にしても、着物の外形を保ちながらも、背景を本物の鳥の羽で埋め尽くしているため、地と図が反転しうる自他同一の地平を垣間見たような気がしてならない。美術にかぎらず、人類の知的な営みの根底に「分ける」ことと「つなぐ」ことがあるとすれば、鴻池の手は明らかに後者をまさぐり出そうとしていたのではなかったか。
しかし、本展の重心が「接合」あるいは「縫合」に置かれていたことは事実だとしても、結果として逆説的に強調されたのは、むしろ「分節」や「断絶」であったように思う。そこに、本展の複雑かつ豊穣な魅力がある。
鴻池は言う。「もはや同じものではいられない」。この言葉が意味する広がりは大きい。全国の美術館を渡り歩きながら庶民とはかけ離れた「現代美術」を再生産するアーティストのありようが打ち棄てられているのか。あるいは、震災によって決定的な断絶を経験したにもかかわらず、その裂け目を直視することから逃避し続けている私たち自身の自己保身が撃たれているのか。いずれにせよ、この世界を構成する生命体が有機的に接合したイメージを全身で体感すればするほど、ある種の大きな切断面が心の奥底に広がるのである。「根源的暴力」とは、鴻池が言うように、美術に代表されるものづくりが自然からの収奪や自然への背馳を宿命的に抱え込んでいることを意味しているだけではない。それは、そのような決定的な断絶を容易には受け入れがたい私たちを、有無を言わさず、その裂け目に直面させるように仕向ける力のことでもあるのではないか。
その冷徹で加虐的な働きかけに耐えられない者は、視線を覆い隠して逃散するほかない。だがあらゆる危機が新たな局面を切り開く契機でもあるように、決定的な断絶は新たな運動の萌芽でもある。そのような断絶からの再生を鮮やかに示していたのが、会場の随所に展示された牛革をポンチョや着物に仕立て上げた作品である。それらの大半が空虚なマネキンに被せられていたことから、これらは本体がどこかへ脱皮した後に残された抜け殻として見ることもできよう。けれども、そもそも衣服が「第二の皮膚」であることを思い返せば、鴻池によって縫合された獣の革は、もしかしたら「第三の皮膚」ではないのか。「おまえのその身体は、果たしてこの皮膚にふさわしいのか?」。会場の随所で出会うたびに、そう問いかけられているような気がした。私たちが「もはや同じではいられない」のだとしたら、みずからの身体を第三の皮膚に収めるべく新たな身体につくりかえるのは、ほかならぬ私たち自身である。
2015/10/24(土)(福住廉)