artscapeレビュー

きものモダニズム

2015年12月01日号

会期:2015/09/26~2015/12/06

住友コレクション 泉屋博古館[東京都]

須坂クラシック美術館(長野県)の開館20周年を記念して、所蔵する岡信孝コレクションのモダンな意匠の銘仙が前後期合わせて100点が紹介されている。大正から昭和30年代にかけてつくられた銘仙の図案は、矢絣など比較的シンプルなものから花鳥を大胆にあしらったもの、同時代のアール・ヌーヴォーやアール・デコの影響を受けたもの、幾何学的な文様から伝統文様をアレンジしたもの、時局を反映しているのか落下傘をモチーフにしたデザインまで多種多様で、色彩もじつに鮮やかである。チラシデザインのモチーフもまた昭和初期につくられた銘仙からとったもので、その新しさに驚かされる。
 銘仙は明治末から昭和にかけて、絹物でありながら廉価な日常のきものとして流行した。価格が安かった理由のひとつは使用された絹糸にある。明治政府が殖産興業政策の一環として富岡製糸場に代表されるように生糸生産が発展した一方で、輸出に不適合な繭や屑糸を加工した絹紡績糸が安価な織物用に用いられるようになった。染織技術にも明治末期にコストを削減できる革新が導入される。銘仙は絣の一種であるが、手間の掛かる括りで染めるのではなく、仮織りした布に型紙を用いて染色糊をのせて糸を染め、緯糸を抜いたあとの経糸を改めて機にかけて織る「解し織」という技法が開発されたのだ。他に緯糸にも絣糸を用いる「併用絣」「半併用絣」があるが、それには手機が必要だったので、動力織機を用いることができる解し織がいちばんコストが安かったようだ。同時期には鮮やかな色の化学染料が用いられるようになり、色彩や意匠の自由度が高まっていった。当初は旧来の絣の代用であった銘仙の意匠には、次第に大きく、大胆な文様が用いられるようになる。
 意匠の変化には、社会や市場の変化が如実に反映している。銘仙の産地は関東地方──伊勢崎・足利・秩父・桐生・八王子──であるが、市場が関西に拡大するにつれて次第に柄が派手になっていったという。流通もまた市場の拡大と変化をもたらした。三越のデパートメントストア宣言は1904(明治37)年。その後関東大震災を経て、百貨店各社が急速に大衆化していくなかで、絹織物としては安価な銘仙は特売会の目玉商品となっていったのだ。同時にこの時期は印刷技術の進歩により大衆向けの印刷メディアが発達した時代でもある。流行を発信する百貨店とそれを伝えるメディアの存在が、安価で求めやすくデザインが豊富で色彩豊かな銘仙を生みだし、ヒットさせたのである。山内雄気氏によれば、それゆえに「1920年代に、国内織物市場の大半が停滞するなか、銘仙市場だけが拡大した」。今和次郎の観察では、1925年に東京・銀座を行き交う女性のうち50.5%、1928年に日本橋三越前では84%が銘仙を身につけていたという★1。産地もまた流行創出に力を入れていた。銘仙のデザインを工夫、改良するだけではなく、足利では日本画家に依頼して銘仙を宣伝するポスターを描かせており、本展には足利美術館が所蔵するポスターやその原画も出品されている。
 展示されている数々の銘仙を見ていくと、たしかに安手の日常着と感じられるものがある一方で、緯糸にも絣を用い、デザインが緻密で多数の色を刷り分け、非常に手間が掛かっていると思われるものがあることに気づく。デザインや色を単純にして安価で大衆にも手が届きやすい価格の銘仙があった一方で、おしゃれ着としてより凝ったデザインへの需要も存在していたことが想像される。
 今回の展覧会は、染織研究で知られる長崎巌・共立女子大学教授の監修のもと、須坂クラシック美術館と泉屋博古館分館、そして東京文化財研究所による共同研究の成果であるという。図録では銘仙の技術や文化、流行について触れられているほか、会場では秩父銘仙の制作工程を記録した映像が上映されており、その技法についても学ぶことができる。[新川徳彦]

★1──山内雄気「1920年代の銘仙市場の拡大と流行伝達の仕組み」(『経営史学』第44巻第1号、2009年6月、3~30頁)。

2015/11/13(金)(SYNK)

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