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ロドルフ・ガシェ『脱構築の力──来日講演と論文』

2020年02月15日号

編訳者:宮﨑裕助

発行所:月曜社

発行日:2020/01/31

2014年11月、ニューヨーク州立大学バッファロー校の哲学者ロドルフ・ガシェ(1938-)が来日し、国内の複数の大学で講演を行なった。評者もそのいくつかに参加したが、ハイデガーやアーレントの精読を通じて一見ささやかな、しかし内実としては大胆かつスリリングなテーゼを打ち出していくその講演スタイルは、昨今の学術的な催事においてすっかり失われた光景であるように思われた。

その来日講演の原稿を再録し、関連するいくつかの論文を収めたものが本書『脱構築の力』である。本書は大きく前・後半に分かれ、第Ⅰ部「デリダ以後の脱構築」にはデリダとアメリカ合衆国におけるその受容を論じた「脱構築の力」「批評としての脱構築」「タイトルなしで」の3篇が、そして第Ⅱ部「判断と省察」にはアーレント論「思考の風」とハイデガー論「〈なおも来たるべきもの〉を見張ること」の2篇が収められている。「批評としての脱構築」(1979)と「タイトルなしで」(2007)をのぞく3本の日本講演は、来日後に上梓された英語の著書にそれぞれ組み込まれているようだが、それでもこれらが日本語オリジナル論集として1冊にまとめられたことの意味は小さくない。それはなぜか。

本書の「はじめに」から、ガシェが脱構築について述べた印象的な一節を引いてみよう。それによれば、主著『鏡の裏箔──デリダと反省哲学』(1986[未訳])や本書所収の「批評としての脱構築」をはじめとする「これらの著作のすべてにおいて」論じられているのは、脱構築とは「どんなテクストにも無差別に適用できるような文芸批評の方法」ではなく、「テクストの自己反照性や自己言及性を論証するというよりも、反照作用の可能性と不可能性の条件として当の反照作用から逃れるものへの探究に存している、紛れもなく哲学的なアジェンダを伴ったアプローチなのだということである」(9-10頁)。

この一節に端的に示されているように、ガシェは脱構築をたんなる「文芸批評の方法」として受容する──とりわけアメリカを中心に広まった──趨勢に抗い、あくまでそれを「哲学的なアジェンダを伴った」アプローチであることを訴える。そして、デリダその人の思想を(俗流の)「脱構築」と同一視することに明確に反対する著者の関心は、デリダにおける「思考」の特異なステータスへとむかう。それをひとつの問いのかたちで練り上げるとすれば、デリダにとって「思考するとはどういうことなのかを浮き彫りにすること」(11頁)こそが、ここでのもっとも重要な課題となるだろう。先にふれたアーレントの「判断」やハイデガーの「省察」をめぐる論文もまた、こうした「思考」の問題の延長線上にある。むろん、ガシェがデリダと二者の議論を同一視しているわけではないが、著者が「批判的警戒」と呼ぶもの(デリダ)と、アーレントおよびハイデガーの議論(「判断」および「省察」)は、その問題意識においてたしかに通底している。

対象とするテクストの綿密きわまりない解読に支えられた各論文は、読者にもそれなりの粘り強さを要求する。ホメロスやカントの言葉にあるように(第4章「思考の風」)、たしかに思考は「風」に擬えられるほど「迅速」で「非物質的な」ものである。しかしその──アーレントによれば「破壊的な」(187頁)──思考を伝達可能なものとしてくれるのは、「迂遠」で「物質的な」テクスト以外にあるまい。いずれにせよ、そうしたことへの連想をうながすガシェの日本講演が、5年あまりの時を越えて書物のかたちで刊行されたことを喜びたい。

2020/02/11(火)(星野太)

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