artscapeレビュー

プロトテアトル『レディカンヴァセイション(リライト)』

2022年07月15日号

会期:2022/06/11~2022/06/12

アイホール(伊丹市立演劇ホール)[兵庫県]

関西小劇場シーンの拠点のひとつのアイホールだが、昨年、税金負担や老朽化、市民の利用率の低さなどを理由に、伊丹市の意向で存続の危機に立たされた。演劇界の署名運動や市民からの声を受け、今後3年間は存続が決定したものの、主催・共催事業は縮小される。10年間続いた若手支援企画「break a leg」も今回が最終。同企画にはこれまで、冨士山アネット、劇団子供鉅人、FUKAIPRODUCE羽衣、コトリ会議などが参加してきた。その掉尾を飾るのが、FOペレイラ宏一朗が主宰する「プロトテアトル」。2015年の短編、2019年の長編化を経てリライトした作品が、凹状に一段下げた舞台、むき出しの壁、天井の高さなど劇場の空間性を活かして上演された。

大きな地震で崩れた、山奥の廃墟ビルが舞台。そこに生き埋めになった3つのグループ──2人の警備員、好奇心で訪れたアウトドアサークルの大学生たち、ネットの自殺スレッドに集った自殺志願者たち──計11人による群像劇だ。瓦礫に埋もれて身動きも取れず、携帯は落としたり圏外で助けも呼べず、暗闇のなか、相手と顔も見えないまま「会話」を続けるしかない。そうした極限状況が、身体を硬直させた俳優たちによって演じられる。構成は明快で、①警備員、サークル、自殺スレッドのメンバーという既存のコミュニティ内部での会話、②余震で床が崩落して落下し、それぞれのコミュニティに「外部からの闖入者」が混ざる、③さらに大きな揺れにより、全員が「最下層の地下駐車場」に集合する、という3パートからなる。建物の階層構造が物語レベルとメタ的にリンクする展開である。冒頭と各パート間に起こる「地震の揺れ」を示す、暗闇に響く激しいドラムの音が鮮烈だ。



[写真撮影:河西沙織(劇団壱劇屋)]



人物・設定紹介の①を経て、「部外者」がコミュニティに混ざる②の局面では、「普段言えなかった本音」が口に出されて人間関係の修復や和解が生まれ、自殺願望者も死の恐怖に直面した者たちも、状況は何ひとつ変わらないにもかかわらず、最終的に「生きたい」という希望へ向かい、ラストシーンでは頭上から一筋の光が差し込む。物語はひとまずそのように要約できる。そこにはいくつもの二重性が書き込まれている。「顔の見えない相手とのコミュニケーション」は文字通りの暗闇/ネット空間の匿名性であり、誰かの声が聴こえるたびに反復される「救助隊の人ですか?」という台詞は、自殺スレッドのメンバーにとっては、その名も「ホーリー」と名乗るスレッド主が「死による救済」をもたらしてくれる期待でもある。



[写真撮影:河西沙織(劇団壱劇屋)]


ただ、人物造形やエピソードはステレオタイプで平板に感じた。特に気になるのが、「死から生への転化」の鍵を握る、女性キャラクターの描かれ方の偏向である。「通帳ごと消えた」元彼(=警備員)と再会した自殺志願者の女性は、あっさり彼を許し「もう離さない」と抱きしめる。一方的な思い込みで互いに「相手の理想の恋人」を演じて疲れていた大学生の男女は、本音をぶつけ合い、関係を修復する。いじめが原因で「死にたい」と思っていた女子高校生は、自殺スレッドで知り合い、話を聞いてくれた男性「ホーリー」に「会いたい」気持ちが生きる原動力に転化する。だから彼女は、やっと会えた「ホーリー」が差し出す薬の瓶を、「私が欲しかったのはこんなものじゃない」と床に投げつけるのだ。3人とも、「男性への恋愛感情」のベクトルが、「死から生へと転じる(唯一の)原動力」である。彼女たちは実際には「ただ一人」なのだ。「何が好きで、何に興味があって、どんな人なのか、もっと知りたいから話すんだよ」という台詞が、女子大学生と女子高校生の双方で反復されることが、その証左である。

こうしたステレオタイプ的な描写は過去作品『X X』でも感じたが、ここで、『X X』と本作を空間構造から比較すると、プロトテアトルの志向性がより明確に見えてくるのではないか。『X X』では、四方を座席が囲むフラットな舞台空間上に、両親と娘の家庭、高校生たちが登下校で立ち寄る商店、交番、ホームレスのいる公園などが点在し、架空の田舎町の中で、孤島のように浮かぶコミュニティの生態が描かれる。水平的なコミュニティの住人が次第に交錯することで、人違いの撲殺事件という「悲劇」が最終的に起こる。一方、本作は「垂直性」に貫かれている。リアリズムベースの会話劇に基づくプロトテアトルだが、むしろ描こうとしているものの本質は、構造の方にあるのではないか。

本作では、まず、「既存のコミュニティ」が前提にあり、各成員はその基盤の上に乗っている「安定」状態が示される。廃墟ビル=(すでに綻びを抱えた)社会全体とすると、各階=各コミュニティのメタファーだ。だが、「地震」という外在的要因によって、その基盤が崩壊し、「普段は交わらないコミュニティ」と否応なしに「接触」させられてしまう。従ってここでは、「生き埋めになり救助を待つ人々の心理劇」の背後で、「地震」すなわち社会基盤を揺るがす大事件によって、異質なコミュニティと強制的に「接触・交差」させられる物語が語られているのだ。彼らは、「力を合わせて」脱出しようと奮闘するわけではない。ただ、「話し続ける」だけだ。暗闇のなかで相手を知ろうとするために。終盤、「まずは自己紹介から始めよう」と、各自が「(本当の)名前」を名乗ることは示唆的だ。閉塞感とともに匿名的な集団に飲み込まれていくのではなく、手探りでも「個人」として存在し始めようとすること。その声に傾聴すること。そこに、ラストシーンの「頭上からの光」が照らし出す希望がある。



[写真撮影:河西沙織(劇団壱劇屋)]

2022/06/12(日)(高嶋慈)

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