artscapeレビュー

太田順一「父の日記」

2009年04月15日号

会期:2009/03/18~2009/03/31

銀座ニコンサロン[東京都]

これはすごい写真展である。会場にはノートのページを克明に複写したプリントがずらりと並んでいる。つまり手書きの文字だけが目に入ってきて、他には何もない。ノートに記されているのは「父の日記」である。写真家の太田順一の父、中野政次郎は1920年の生まれ。妻に先立たれた1987年頃から87歳で亡くなるまでの20年間、「毎日欠かさずきちょうめんに」日記をつけ続けた。昔気質の、あまり趣味もないまじめな人柄なので、記されているのは朝起きて、食事をおいしく食べたといった類の、身のまわりの出来事だけである。あまり波風も立たないその記述が、死の2年前、認知症の症状が出て老人施設に入所する頃から大きく変わってくる。「ボケてしまった」、「毎日がつらい」というような同じ言葉が何度も綴られ、字は錯乱し、殴り書きに近くなってくる。それはまさに「父の脳を襲った困惑の嵐のその痕跡」としかいいようのないものだ。
それらの写真を見て、書かれている文字を辿っていくうちに、凡庸なドキュメンタリー写真では決して味わうことができない異様な感動を覚え始める。太田が記しているように、誰もが「遠からず訪れる自分自身の生」に対する思いを巡らさないわけにはいかなくなるのだ。ぼく自身、つい先日父親を亡くしたばかりだったので、写真を見ながら深い感慨に捉えられてしまった。それにしても、太田順一という写真家はただ者ではない。ノートのページを複写して展示するという、単純だがこれしかないアイディアを衒いなく実行してしまうところに、ドキュメンタリストとしての底力を感じる。彼には『日記・藍(らん)』(長征社、1988)という、本作と対になる素晴らしい写真集もある。こちらは自分の幼い娘の生と死をぎりぎりまで凝視し続けた写真日記。この二つの作品を見比べると、より彼の仕事の凄みが増してくるだろう。

2009/03/26(木)(飯沢耕太郎)

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