2019年06月15日号
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artscapeレビュー

村川拓也『エヴェレットゴーストラインズ』Ver. A「赤紙」

2015年08月15日号

会期:2015/07/10

京都芸術センター[京都府]

「出演者未定の演劇作品」である『エヴェレットゴーストラインズ』の基本コンセプトは、「演出家が出演者候補に前もって手紙を送る」「手紙には、劇場を訪れる時間と観客の前で行なう行為が指示されている」「当日劇場に来るかどうかは受け取った人が決める」というもの。ある一定の上演時間と舞台空間を設定し、入退場時のハケ方と舞台上で行なう行為を指定すること。村川は、演劇の構造的原理を「時空間の共有と行為の指示」へと還元し、裸形にして差し出しつつも、「手紙」という間接的な伝達手段やコントロールの放棄によって、再現(再演)不可能な一回性の出来事へと近づけていく。
舞台装置も指示内容もいたってシンプルだ。何もない舞台上には、背後に字幕が投影され、「分刻みの出演時間」「出演者の名前(居住地、職業、年齢)」「指示された行為」を観客に告げる。指示された行為は基本的に、誰でもできるような簡単なもので(「誰かの名前を呼ぶ」「傘にまつわる思い出話をする」「壁づたいに移動する」など)、行為同士の関連性も見いだせない。しかし、要請に応じた出演者たちが舞台上に現われる時間と現われない不在の時間が交錯するさまはスリリングであり、「ルールの設定」の厳格さは、上演ごとに揺らぎを伴った不確定性へと開かれていく。とりわけ、出演者が「不在」の空白の時間が、見る者の想像を刺激する。現実には現われなかった出演者候補が「もし現われていたら、どんな風貌でどう振る舞ったのだろうか?」。タイトルの「エヴェレット」は、量子力学において「量子は、観測者の存在によって状態が確定されるまでは、可能性が重なり合った状態にある」とするエヴェレットの多世界解釈を指す。また「ゴースト」とは、出演者候補が不在の時空間を埋めていく観客の想像力の中で、「こうだったかもしれない」可能性の世界を徘徊する幽霊のような存在を指すのだろう。
『エヴェレットゴーストラインズ』は2013年の初演と、KYOTO EXPERIMENT 2014 での再演が行なわれているが、今回は、基本コンセプトを引き継ぎつつ、新たにつくられた4つのバージョンが連続上演された。Ver. A「赤紙」は、初演時の出演者が手紙を別の人に渡し、受け取った人はさらに別の人に渡すというもので、より不確定性の増幅が企図されている。
だが今回の公演で気になったのは、本作が構造的にはらむ微妙な政治性である。「出演」に応じるか応じないか、さらに指示通りに振る舞うかどうかは、出演者候補の判断に委ねられている。彼らはプロの俳優ではなく(舞台芸術関係者も一部いるようだが、大半は「会社員」「学生」「介護職」「画家」など様々だ)、金銭の受領による契約関係に基づかない点で、性善説的な「善意」・「協力」を前提としている。ただし、本作の仕掛けの巧みさは、出演者候補を必ず指示通りに「集わせること」に賭け金を置いていない点にある。出演者候補が現われなかったこと=「失敗」ではなく、それさえも「不確定性」の振れ幅のうちに回収されてしまうのだ。だが、そうした「不確定性」を前景化・主題化することで、「手紙」という迂回路をとった「依頼」という形式がはらむ微妙な強制力は曖昧化されてしまう。
もう一つ気になった政治性は、終盤で指示される「服を脱いでください」という指示内容と、その指示が向けられる対象についてである。私が観た2013年の初演、2014年の再演、今回のVer. Aの3回とも全て、この指示が「女性」の出演者候補に向けられていた。基本的には誰でも遂行可能な指示が淡々と続く中で、終盤のこの箇所だけが異様にハードルが高く、ある種の「ハイライト」的な役割を担っていることは明らかだ。そして性別の選定も意図的なものだろう。男性よりも女性が「脱ぐ」方が「より舞台上でのインパクトが大きい」と演出家が考えているならば、そこには出演依頼がはらむ政治性に加えて、演出家(男性)から出演者候補(女性)へのジェンダー的な権力関係も二重にはらまれているのではないか。

2015/07/10(金)(高嶋慈)

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