artscapeレビュー
村田真のレビュー/プレビュー
サイレント・ナレーター──それぞれのものがたり
会期:2011/06/11~2011/10/02
東京都現代美術館常設展示室3F[東京都]
常設展示室3階では、新収蔵作品12点を含む計30点の展示。なにが新収蔵されたかというと、泉太郎、落合多武、加藤泉、小泉明郎、小金沢健人、森淳一という若手作家の映像系の作品をはじめ、絵画・彫刻など。なぜか名前に泉がつくのが3人もいる。もちろん偶然だろうけど、気になるなあ。で、この6作家12点を核にテーマ立てを考えたところ、「物語」が浮上したんでしょうね。勝手な憶測ですが。このなかでは泉太郎のビデオインスタレーションと森淳一の大理石彫刻が、知性においても群を抜いている。森と泉だ。
2011/06/25(土)(村田真)
吉野辰海 展
会期:2011/06/20~2011/07/02
ギャラリー58[東京都]
切断されたブタ(の剥製)の断面がハムになっていたり(吉村益信)、巨大な金属の耳ばかりつくったり(三木富雄)。ネオダダの連中には身体をモチーフにしたグロテスクな作品が多いが、なかでもひときわグロテスクで意味不明なのが吉野辰海の犬だ。今回ますます迷走度を高め、顔は犬だが後頭部はゾウ(反対にゾウが顔で後頭部が犬というのもある)、しかも皮が剥がれて濃いピンク色をして、身体は裸の少女というワケのわからないものをつくっている。これを「抑圧された動物的本能の側からの合理主義的思潮に対する意趣返し、もしくは肉体や情念の側からの主知主義的モダニズム美術に対する逆襲」(三田晴夫)と読む者もいて、なるほどなあと思う一方で、そんな深読みは逆に作品を矮小化するのではと思ったりもする。だってこんなにワケのわからないものをつくれるだけで尊敬しちゃうもん。ならば好きかと問われればノーといわざるをえないが。
2011/06/25(土)(村田真)
母袋俊也 展:Qf・SHOH《掌》90・Holz──現出の場─浮かぶ像─膜状性
会期:2011/06/13~2011/06/25
ギャラリーなつか[東京都]
ギャラリー内にもうひとつ展示室をつくって内壁を黒く塗り(ホワイトキューブならぬブラックボックス、あるいはカメラ・オブスクラ?)、正面に1点だけ絵を設置。絵は正方形で、画面にはルブリョフのイコンや阿弥陀如来の掌を組み合わせた図像が描かれている。絵に厚みが感じられないので近づいてみると、画面より底面が狭くなるように側面が斜めに削られている。つまり闇のなかに画像だけが浮かび上がる感じ。脇に回ると、絵の掛けられた壁の後ろあたりにのぞき穴があり、のぞいてみると光しか目に入らない。もしそこにヌードが見えたら喜ぶ人もいるだろうが、母袋はそんなサービスはしない。ただ光があるだけ。これって、先史時代の洞窟壁画を思い出させないか。洞窟の闇のなかに描かれた動物の絵は、岩壁の奥にいるであろう動物の神と交信するために描かれたとする説があり、そうだとすると視線は絵の描かれた壁を貫いてあちら側に向かい、逆に神(光)は壁の奥から絵というスクリーンを通ってこちら側へ現われるはずだ。そのとき、絵はこちら側とあちら側の界面に現出する幻像のようなものかもしれない。これは洞窟壁画だけでなく、洞窟を模したといわれるキリスト教会の聖画にも当てはまるだろう。絵をタブローという単体で考えるのではなく、「絵」が現出する場として提示すること。はたしてこれは「プレ絵画」なのか、それとも「ポスト絵画」なのか。
2011/06/25(土)(村田真)
路上 On the Road
会期:2011/05/17~2011/07/31
東京国立近代美術館ギャラリー4[東京都]
「路上」というからストリートアートでも紹介されるのかと思ったら、そんなはずもなく、岸田劉生の《道路と土手と塀(切通之写生)》や東山魁夷《道》など文字どおり道路を描いた絵から、ラウシェンバーグや荒川修作らどこが路上なんだかわからない作品まで多々そろえてあった。おもしろいのは、銀座の建物を道沿いに片っ端から撮った木村荘八の『アルバム・銀座八丁』(1954)と、同様のコンセプトによるエド・ルシェーの『サンセット・ストリップ沿いのすべての建物』(1966)が並べてあること。「どうだ、日本人のが早い(ものもある)ぞ」と自慢しているかのようであった。
2011/06/22(水)(村田真)
パウル・クレー──おわらないアトリエ
会期:2011/05/31~2011/07/31
東京国立近代美術館[東京都]
パウル・クレーというと、ぼくのなかでは嫌いになる理由はなにもないのに、なぜか好きにもなれないという微妙な位置にいたが、この展覧会を見てその理由が少しわかったような気がする。同展はただたんに作品を時代順に並べるのではなく、「クレーの作品は物理的にどのようにつくられたのか」という視点に立ち、さまざまな技法や形式ごとに作品を分類・展示してみせている。たとえば「写して/塗って/写して」では、鉛筆やインクで描いた素描を黒い油絵具を塗った紙の上に置き、針で描線をなぞって転写した上に水彩絵具で着色するという技法を紹介。また「切って/回して/貼って」では、いちど仕上げた作品を切り分けて独立した2点の作品に、あるいは左右を入れ替えて別の作品にしてしまう事例を展示。つまり、クレーの作品には終わりがなく、ある意味つねに生成過程にあるということだろう。そうしたある種のハンパさが、理由だったのかもしれない。ぼくの好みはともかく、こうした生成過程にある作品や「おわらないアトリエ」という考えは、これからますます発展の余地があるように思う。
2011/06/22(水)(村田真)