artscapeレビュー
大橋可也+フィリップ・シェエール『Transfauns/ トランスフォーン』
2013年11月01日号
会期:2013/10/23
BankART Studio NYK[神奈川県]
大野一雄フェスティバル2013は、ダンス史の遺産を取り上げ、舞台上でオマージュを捧げる上演が数多く行なわれて来た場である。今月本誌で筆者がレビューしたプロジェクト大山が石井漠をフィーチャーしたように、今作で大橋可也が取り上げたのはニジンスキーの代表作『牧神の午後』。これはたんに「名作」という以上に「20世紀バレエの最大のスキャンダル」と形容すべき問題作。舞踏にルーツをもつ大橋がどうこの作品と格闘するのか、期待満々で会場に足を運んだ。しかし、よくわからなかったというのが、正直な感想だ。横の幅が広い舞台。予想していたように、フィリップ・シェエールと皆木正純の2人は、この横長のスペースを活用して横向きの動作と横の移動を繰り返した。全体の構成は、(1)これまでの大橋らしい動作、(2)ドビュッシーの音楽とともに『牧神の午後』のオマージュ部分、(3)これまでの大橋らしい動作、(4)最後にわずかな時間、明確に『牧神の午後』から採った動作が表われ、男2人が体を崩して終幕。構成でわからなかったのは、(3)の部分で、なぜ(2)に展開したのに再び、(1)と大きく変わりがない場面に戻ってしまうのか? タイトルにある「トランス」も「フォーン」もぼくの目には舞台のどこにそれに該当する事柄が表われたのか、わからなかった。「フォーン(牧神)」のテーマは、性をめぐる問いを生むだろうし、「トランス」はなんらか「生成変化」に関連した出来事を期待させた。現代の「牧神」とは? 「牧神」に生じる「トランス」とは? このテーマ自体は、じつに潜在的な可能性を秘めたものであるはずだ。皆木が見せる、背後に気配を感じて振り返り退く動作など、おなじみの動きにはいつもの質があるものの、共演しているシェエールのダンサーとしての個性が掴めないので、場のテンションが上がらない。もう少し、シンプルで強烈なアイディアは盛り込めないものだろうか。そうでないと、微弱に伝わってくる動きの質だけでは、観客は茫漠とした感触だけを味わうほかなくなり、結果として審美的な判断しか下せなくなってしまう。
2013/10/23(水)(木村覚)