2020年07月01日号
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artscapeレビュー

メルラン・ニヤカム『タカセの夢』

2011年09月01日号

会期:2011/08/10~2011/08/11

シアタートラム[東京都]

「スカパンファン」(SPAC[Shizuoka Performing Arts Center]の子どもたちの意)と名づけられた静岡の中高生が、フランスのコンテンポラリー・ダンスの振付家による作品を踊るというのが本作の趣向。SPAC(現在、宮城聰が芸術総監督を務める静岡県舞台芸術センター)の同様の企画として、飴屋法水演出『転校生』(2009)が記憶に新しい。『転校生』に感じたのは、本物の女子高生が女子高生を演じることの迫力と、女子高生の身体が眼の前で生きて演じることの生々しさであり、そこにしっかりと思い生命の感触をえたのだった。
 本作の場合、テーマとして掲げられているのは、子どもたちが「未来の希望を取り戻す」ことだという。このテーマに沿ってのことか、舞台上のダンスは躍動的であり、生き生きとして明るい。ただし、そこに溢れているのは『転校生』で感じた生命の感触とは似て非なる「ベタ」(キャラ的)な「子どもらしさ」に相違ない。それとともに「躍動的で生き生きとして明るい」と形容した子どもたちの振る舞いからは、カメルーン出身のフランスで活躍する振付家メルラン・ニヤカムによるところも多いのだろう、ややステレオタイプな「アフリカらしさ」も香ってくる。また、舞台演出のさまざまな批評性に富むアイディア(映像と生身のダンサーとが重なり混ざり合う試みや、音についての繊細なアプローチなど)から「現在のフランスのコンテンポラリー・ダンス」の「らしさ」が察知でき、それもベタといえばベタだ。ただし、その「ベタ」と「ベタ」を重ね合わせ、混ぜ合わせようとす試みは「メタ」的に映りもする。子どもたちの躍動性が「日本らしく」というより「アフリカらしく」見えたのは、その一例。とはいえ、そうした反省的な混ぜ合わせは、最終的に混沌と化し、渾然一体となっていった。中心的人物である男の子が舞台冒頭である少年に委ねられ、ずっと預かっていたトランクを開けると、中からドラムスティックが出てくる。ラストシーンは、そのスティックで子どもたちが床を叩き、リズムによって皆がひとつになってゆく。こうして最後に演出家は「ベタ」な「つながり」志向をあらわにした。とくに、カーテンコールの後に沖縄民謡が鳴りだし、観客を客席から舞台に連れ込むと、しばらくのあいだ、観客と出演者と演出家がカチャーシーの状態になって踊ったところで、それは極まった。
 たんにベタでもたんにメタでもない、メタ的な批評の高みに立つのでは満たされず、いわばメタな振る舞いをさらに批評するように、いまここにいる者同士の直接的な「つながり」へと演出家は舞台を開こうとしたわけだ。「ベタ」も「メタ」も「メタのメタとしてのベタ」も提示した本作は、きわめて批評的であり、ハイクオリティな舞台と言うべきかもしれない。けれども最後の「つながり」の熱が、諸々の出会い(重なり合い)によって生じたはずの出来事の細部(その矛盾や軋轢など)をうやむやにしているように見えたのも事実。だからただの「ベタ」にも思えてしまう。そんなところに「つながり」の開放感のみならず、「つながり」の袋小路状態も感じてしまった。

2011/08/11(木)(木村覚)

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