artscapeレビュー
吾妻橋ダンスクロッシング2011
2011年09月01日号
会期:2011/08/19~2011/08/21
アサヒ・アートスクエア[東京都]
11組が出演した今回の〈吾妻橋〉。一番盛り上がったのは間違いなくcore of bellsだった。パンク独特の一分弱の曲を数曲、ハイスピードで演奏した後、何気なく始まった「ゲス番長のテーマ」。前の数曲とさして変わらぬパンキッシュな演奏が終わり、ボーカルが「次は最後の曲です」と告げる。すると彼らは、まったく同じ「ゲス番長のテーマ」の演奏を始めた。まだこの時点では、これがなにを意味するものかは観客の誰もわかっていない。「あれ?」と思う間もなく、再度同曲の演奏。3回目? よく見ると、曲のみならず演奏するミュージシャンのジェスチャーもほぼ一緒であることに気づく。「ロックのジェスチャーって、あらためて見るとなんて過剰でシアトリカルなんだ」なんて感じさせられ、「記号化されたロック」のジェスチャーが執拗に反復されるそのシンプルな光景が次第に痛快に思えてくる。しかも、目の前に演奏としての演劇とでも言えるなにかが立ち上がっている気さえしだした。無意味な反復は、昨今の日本の演劇でもしばしば見られるアイディア。だがそもそもはミニマル・アートの文脈に端を発する。そう思い出すと、今度は美術文脈から読み込みたくもなってくる。そんなこと思いめぐらしているうちに何度反復されただろう、機械のごとくリプレイされる度に、観客の熱狂が増してゆく。いつか電気が切られ、さらに舞台が真っ暗になってもなお演奏が続行されたあたりで、盛り上がりはピークに達した。
COB恐るべし。こうした無意味さへ向けた熱狂こそ吾妻橋ダンスクロッシングにふさわしい。そう思っているぼくにとって「東日本大震災+原発事故以後」の匂いのする諸作品には正直強い違和感を覚えた。舞台上にどんなものが置かれてあっても「東日本大震災+原発事故以後」のメタファーを読み込んでしまう、そんな一種のヒステリーを抱えてぼくたちが生きているのは事実だ。とはいえそのヒステリーに表現が汚染されてしまってはならない。それによって表現の質が鈍ってしまってはならない。少なくとも、一過性の表現になってしまってはならない。そういう表現というのは、本人たちにそうした意思がないとしても、震災や節電を売りにした見苦しい商売とさほど変わらないと評すべき類いものではないだろうか。
2011/08/21(日)(木村覚)