artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

飛田英夫「静かな生活」

会期:2010/09/24~2010/10/18

EMON PHOTO GALLERY[東京都]

珍しく、伊賀美和子「悲しき玩具」に続いて人形(ミニチュア)を使った写真作品を見ることができた。飛田英夫は15年以上にわたり、人形や建物、植物などを配置したミニチュアの場面を制作し、それを大判カメラにセットしたインスタントフィルムで撮影するという仕事を続けてきた。今回の個展には「シネフィルと写真」「日々のサンプル─ミニチュアによる─」「In a Lonely Place」「静かな生活」の4シリーズが展示されている。
ミニチュアのディテールを精密につくり上げ、ライティングに工夫を凝らしてあえてややソフトフォーカス気味に撮影する技術は完璧で、小品だがなかなか見応えがある。基調になっているトーンは、古い映画を見る時に感じるようなノスタルジアであり、失われてしまった状況だからこそ、わざわざミニチュアで再現する意味があるのだろう。この種の作品には職人芸的なこだわりが大事だと思うが、その点においては文句のつけようがない。
ただ、このまま制作を続けていくと同工異曲のくり返しになってしまう怖れがある。もう少し作品相互の関連性、物語性を強め、それこそ伊賀美和子がかつて試みたような連作を制作してみるのも面白そうだ。ドゥエイン・マイケルズのように何枚かの作品がセットになったシークエンス(連続場面)というのもひとつのアイディアだろう。この手法には、まだいろいろな可能性が潜んでいそうだ。

2010/10/01(金)(飯沢耕太郎)

伊賀美和子「悲しき玩具」

会期:2010/10/01~2010/11/10

BASE GALLERY[東京都]

1999年の「写真新世紀」で優秀賞(南條史生選)を受賞した「マダムキューカンバ」以来、伊賀美和子は一貫して画面に人形やオブジェを配置して撮影する、「コンストラクテッド・フォト」を発表し続けてきた。どちらかというと日本の写真家たちは、演劇的、構築的な要素を写真に取り込むことを避けることが多い。「リアリズム」の伝統が、まだまだ彼らを縛りつけているともいえる。その意味では、伊賀の試みは貴重なものであり、もっと注目を集めてもよいのではないかと思う。
今回の「悲しき玩具」のシリーズは、以前の作品とはかなり趣が違ってきている。以前は、物語性を感じさせるシチュエーションが設定され、「家族」や「結婚」といった社会的な制度に対するシニカルな悪意が強調されていた。だが、今回はそういった側面は背後に退き、柔らかな光に包まれてクローズアップで撮影されたオブジェの作品は、一点一点が穏やかに自立している。どちらかといえば、人生の個々の場面から切り出された断片から、いやおうなしに滲み出てくる悲哀感に焦点が合わされているといえるだろう。デビューから10年以上を経て、人形たちの世界も少しずつ変質し、成熟の時を迎えつつあるといえそうだ。とはいえ、人形のつるりとした皮膚が醸し出す危ういエロティシズムは健在で、クローズアップが増えた分、その強度も増しているようにも感じられた。

2010/10/01(金)(飯沢耕太郎)

秦雅則「虹色とエロの破壊衝動的な」

会期:2010/09/28~2010/10/03

企画ギャラリー・明るい部屋[東京都]

1.白い部屋の窓の外には緑がある。中心の女性は笑っていない。
2.何かの会場のような場所で、浴衣姿の女性が案山子のように立っている。少しだけ笑っている?
3.水着姿の不細工がふりかえる。
4.変わった顔をしている少女。日差しの強いなか、何か言いたいかのような思わせぶり。
5.少女が裸になる意味はない。少しだけ笑っている。
…………
21.誰かの部屋で、誰も知らない少女を写真に撮った。
秦雅則の個展「虹色とエロの破壊衝動的な」に展示されていた21点の作品の、解説ペーパーの一部を抜粋してみた。笑っている、あるいは笑っていない女の子(おそらくエロ雑誌から切りぬかれた写真)が、「アイコラ」の手法で殺風景な部屋や戸外の光景に嵌め込まれている。眼の部分だけを、別の写真から移し替えたものもある。写真はフレームの下の方におさめられ、その上には二枚の色紙(虹の色?)が平行におかれている。色紙が入っていないフレームもある。
秦雅則がこのシリーズで観客に何を伝えようとしているのか、作品を見ても、解説を読んでもまったくといっていいほど理解できない。だが、このいじましい、こせこせした、卑屈とさえいえそうな光景が、いまの日本の若者たちを取りまいている性的な現実だということだけはわかる。彼の、地面に剥き出しの下腹部を擦り続けるような痛々しい営みは、何とも奇妙な場所にわれわれを連れていこうとしている。目をそむけたくても、なかなかそうはさせてくれない。

2010/09/30(木)(飯沢耕太郎)

滝口浩史「つづれおり─遺─」

会期:2010/09/28~2010/10/10

TAP Gallery[東京都]

滝口浩史は2001年に東京藝術大学デザイン科を卒業。2004年に「写真新世紀」に出品した「狭間」で準グランプリ(荒木経惟選)を受賞した。翌年開催された受賞記念展で展示されたのが「つづれおり」のシリーズで、今回のTAP Galleryでの個展の出品作はその続編にあたる。
2005年の展示では元気な姿で写っていた父方の祖父母と母方の祖母のうち、祖父は亡くなり、母方の祖母は寝たきりの状態になった。その現在の状況(祖父の葬儀の際の写真を含む)を撮影して大きく引き伸ばした10点のプリントのほかに、祖父が実際に使っていたという机と椅子を会場に運び込み、机の上と引き出しに彼らが写っている古い写真を無造作に積み上げるインスタレーションを試みている、ギャラリーはそれほど大きなスペースではないのだが、むしろその狭さを逆手にとって的確に写真を選択し、インスタレーションしていく手際がとてもうまいと思う。
闘病中の義母にカメラを向けた「狭間」もそうなのだが、滝口の語り口には、むしろテーマを絞り込み、それほど多くない枚数で出来事の芯になる場面をストレートに出していく方が向いているのではないだろうか。2009年に発表された「PEEP」のシリーズ(さまざまな職業の男女を、仕事、自宅、お気に入りの時間という3つの場面で撮影)では、コンセプトにこだわり過ぎて視点が拡散してしまい、彼のよさがうまく引き出されていなかった。「つづれおり」には、もっと大きなシリーズへと成長していきそうな手応えを感じる。

2010/09/29(水)(飯沢耕太郎)

笹岡啓子「CAPE」

会期:2010/09/21~2010/10/17

photographers’gallery[東京都]

photographers’galleryの創設メンバーのひとりである笹岡啓子は、同ギャラリーを中心に、広島・原爆記念公園とその周辺を撮影したモノクロームの「PARK CITY」とともに、カラーの6×6判による風景写真のシリーズを発表してきた。「限界」「観光」「水域」、あるいは今年6月にRat Hole Gallery Viewing Roomで開催された個展では「EQUIVALENT」といったタイトルで発表(同ギャラリーから同名の写真集も刊行)されてきたこれらの写真群には、ほぼ共通した特徴がある。
被写体になっているのは、海辺、森、岩場といった境界、あるいは周縁の空間で、自然と人工物が混じり合っているような場所が多い。さらにその多くに、さりげなく「ヒト」の姿が写り込んでいるのが気になる。ということは、これらの写真は被写体となる場所を純粋に「風景」として自立させることをめざしているのではなく、むしろもっと曖昧に生活、観光、宗教といった「ヒト」の営みを含み込むように設定されているといえるだろう。それは、今回の「CAPE」の展示でも同じで、何枚かの写真では、海に突き出た「岬」という象徴的な空間性は後ろに退き、浜辺で潮干狩りをする人びとのなんとも散文的な場面が前面に出てくる。「ヒト」の姿はむろん確信的に選択されているのだが、シリーズの中に純粋な、人気のない「風景」もまた組みこまれていることで、作品全体の構造がややわかりにくくなっている気もする。中間距離で撮影された、所在なげにたたずむ「ヒト」のあり方をもっと強く押し出してくることで、このシリーズの骨格がきっちりと定まってくるのではないだろうか。

2010/09/26(日)(飯沢耕太郎)