artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

hanayo「colpoesne」

会期:2010/08/06~2010/08/15

UTRECHT/NOW IDeA[東京都]

そういえばhanayo(花代)のデビュー写真集が『うめめ』ならぬ『ハナヨメ』(新潮社, 1996)だったことを思い出した。梅佳代もそうだったのだが、hanayoの「女の子写真」をさらに崩し字で書いたような「ボケボケ」のスタイルも、当時は写真界の評価は最悪だった。その後、ドイツに渡り、ドイツ人と結婚して女の子を産みといった経歴を積み重ねるなかで、イラストや音楽も含むマルチアーティストぶりには磨きがかかり、現在ではベルリンと東京を往復してコンスタントに作品を発表するようになっている。
今回はUtrechtから刊行された写真集『colpoesne』にあわせた展示。写真集はモノクロ・ページとカラー・ページが交互に並ぶ構成で、アンカット(フランス装)の造本になっており、ペーパーナイフでページを切り取りながら写真を見る仕掛けが施されている(装丁はRupert Smyth)。その凝った造りは写真の内容にも即していて、モノクロのページはかっちりと構造的に組み上げられた写真、カラーのページはどちらかといえばゆるい開放的な写真を中心に構成される。タイトルが謎めいていて、最初は意味がわからなかったのだが、表紙の文字を見ているうちに謎が解けた。「close」と「open」という言葉の綴りが交互に並んでいるのだ。ということは、モノクロ部分は「close」に、カラー部分は「open」に対応しているということなのだろうか。
このような複雑なコンセプトをきちんと形にできるというのは、かつてのhanayoの作品を知る者から見ると驚きとしかいいようがない。アーティストとしての成長の跡が作品にきちんと刻みつけられているということだろう。なお、展示もかなり複雑なインスタレーションで、部屋の中央に壁で囲まれた仮設の小屋のようなものがあり、その中は真っ暗で、床にちらばった写真をヘッドランプで照らして見るようになっている。小屋のまわりには、モノクロームの室内の写真が、やはり無造作にちらばっていた。イノセントな眼差しはそのままだが、表現力が格段に違ってきているのがよくわかった。

2010/08/11(水)(飯沢耕太郎)

梅佳代「ウメップ」

会期:2010/08/07~2010/08/22

表参道ヒルズ スペース オー[東京都]

梅佳代の5冊目の写真集『ウメップ』(リトルモア)の刊行にあわせた「シャッターチャンス祭りin うめかよひるず」。夏休み中ということもあって、家族連れ、若い観客で大賑わいだった。ポピュラリティという点からいえば、彼女の存在感は若手写真家たちの中でも際立っているといえるだろう。
等身大の切り抜き写真が乱立し、「毎日撮った写真の壁」(会期中にもどんどん増えていく)、「TVの部屋」(ビデオ作品の上映)、記念写真のコーナーなどもあって、会場全体の雰囲気が村の夏祭りと化していた。作品の内容からいえば、デビュー作の第32回木村伊兵衛写真賞受賞作『うめめ』(リトルモア, 2006)の延長上で、まったく新味はない。ただ、笑いのツボをピンポイントでヒットする確率はより上がっている。
梅佳代のようなやり方を、携帯電話の写真の時代にふさわしいスナップの現在形として評価するか、俗悪な退化として否定するのかというのは微妙な分かれ道だろう。僕はどちらも不毛のような気がする。このような写真を撮り─撮られることの歓び、できあがった写真を前にして、いろいろ言い合って反応を愉しむようなあり方は、写真が発明されてからずっと続いてきた伝統的な行為ともいえる。梅佳代の写真の「語り部」としての能力は群を抜いており、まだしばらくは「シャッターチャンス祭り」を盛り上げていけそうだ。

2010/08/11(水)(飯沢耕太郎)

瀧浦秀雄「東京物産」

会期:2010/07/31~2010/08/10

コニカミノルタプラザ ギャラリーC[東京都]

10年あまりの時間をかけて、東京23区内を隈なく歩きまわり、目についた「物」を6×6判の二眼レフカメラで丁寧に採集していく。東京で見つけた「物」だから「東京物産」というわけで、2007年に発表された人物スナップのシリーズ「東京体」と対になる作品である。なお、既に写真集『東京体』(ギャラリーバルコ)が刊行されており、今回の展示にあわせて刊行された写真集『東京物産』(同)とともに、ダンボールのケースに2冊組でおさめられるように造本されている。写真撮影、プリントのプロセスと同様に、本作りにおいても瀧浦の仕事は実に丁寧で用意周到だ。
さて、今回のシリーズに関していえば、赤瀬川原平らの「トマソン」=路上観察学の成果とどこが違っているのかということになる。基本的には両者にそれほどの違いはないのだが、瀧浦の作業の方が方法論的に厳密で、その採集の基準がクリアーであるといえるかもしれない。展示されている写真のクオリティが見事にそろっていて、まったく揺るぎがないのだ。おそらく膨大な量の写真が切り捨てられているのだろうが、そのことによってある時代区分における「東京物産」のスタンダードが、きちんと確立しているように見える。
やや個人的な感想ではあるが、瀧浦の写真を見ていると「きのこ狩り」によく似ているのではないかと思った。「きのこ狩り」も経験を積んで「きのこ目」ができてこないと、なかなか大物は見つからない。カメラを手にした禁欲的な歩行の積み重ねによって、普通の人なら何気なく見過ごしてしまう光景の中から「東京物産」がすっと浮かび上がって見えてくるのだろう。そういえば、ある特定の「物」が増殖して、そこら中に生え広がっているような写真がけっこうたくさんある。そのあたりも、どこかきのこに似ているようだ。

2010/08/05(木)(飯沢耕太郎)

瀬戸正人「Good-bye, Silver Grain さらば、銀の粒」

会期:2010/08/02~2010/08/08

Place M[東京都]

写真家たちにとって、デジタル化により銀塩印画紙の多くが製造中止になりつつある状況は他人事ではない大きな問題だ。これまでの作品制作システムが、根本から変わってしまうのだから、現場の混乱がおさまらないのは当然だろう。Place Mを主宰する瀬戸正人も、まさにそのような事態に直面しており、「写真を撮りはじめた30年前に立ち返って自分を検証する」という意味をこめて、今回の展覧会を企画した。すべて全紙サイズの銀塩印画紙によるプリントをずらりと並べており、特に1996年の第21回木村伊兵衛写真賞受賞作「サイレント・モード」のシリーズをひさしぶりに見ることができたのは嬉しかった。電車の車内の女性をスナップしたこのシリーズは、たしかモデルのプライヴァシーの問題があって発表を控えていたはずだが、瀬戸も覚悟をきめて出してきたということなのだろう。
展示を見ながら思ったのだが、銀塩印画紙の魅力は必ずしも最終的なプリントの出来栄えということだけではないのではないか。デジタル・プリンターの進化によって、現在ではクオリティ的にはむしろデジタルのプリントの方がよくなっている場合もある。それよりは、印画紙を引伸し機で露光して現像液につけ、停止、定着の処理をするそのプロセスそのものが、他に得がたい経験を与えてくれるのではないかと思う。瀬戸は展示の解説文で、印画紙の銀の粒子に「リュウ子」という女性の名前で呼びかける。そして、その現像のプロセスを「精液に似たタルタルした液の中で、キミが悶えながら姿を見せた」と描写している。たしかに、印画紙にイメージが少しずつ、ぼんやりと浮かび上がってくる様は、どこか性的な行為を思わせるところがある。暗室の赤い灯りと、現像液や停止液の饐えた匂いが、そのエロティシズムをより増大させているようにも感じる。
銀塩印画紙がなくなるということは、そういう代替不能なエロス的な体験も消えてしまうということだ。その方がむしろ大事なことなのだ。

2010/08/04(水)(飯沢耕太郎)

Summer Open 2010 BankART AIR Program

会期:2010/07/30~2010/08/05

BankART Studio NYK[神奈川県]

前回の「Spring Open」がなかなか面白かったので、横浜のBankART Studio NYKのアーティスト・イン・レジデンスの作家たちのオープン・スタジオにまた出かけてきた。6~7月にBankARTに滞在、あるいは通って作品を制作していたアーティスト、45組の成果発表の催しである。学園祭的な乗りの作品もないわけではないが、相当にレベルの高い展示もあって、逆にその落差が普通の展覧会にはない活気を生み出している。
写真を使った作品ということでいえば、東京藝術大学美術学部先端芸術表現科の鈴木理策研究室による「私にも隠すものなど何もない」展に出品されていた、金川晋吾の「father」が気になった。「蒸発をくり返している」父親をモデルにする連作のひとつ。今回は家で何をすることもなく暮らしている父親にコンパクトカメラを渡し、セルフポートレートを撮影させている。生そのものに不可避的にまつわりつく澱のようのものが、じわじわと滲み出てきている彼の顔つきがかなり怖い。有坂亜由夢「風景家」も日常の恐怖をテーマとする映像作品。部屋の中の物が生きもののように少しずつ移動しつつ、その配置を変えていく様子をコマ撮りの画像で淡々と見せる。カフカが描き出す日常と悪夢との境界の世界の感触を思い出した。
別なのブースで展示されていた藤村豪、内野清香、市川秀之のコラボ作品「迷いの森」は夢を物語化して再演する試み。フランスパンを持った男女の儀式のような写真(「誰かの夢」を演じたもの)を見せて、その夢がどんなものだったかを想像して「誰かが見た夢の話」の物語を書いてもらうというプロジェクトだ。まだ、あらかじめ設定された枠組みを超えて、物語が野方図に拡大していくような面白さにまでは達していないが、写真、テキスト、パフォーマンスを組み合わせていく手法はかなり洗練されている。今後の展開の可能性を感じさせる作品だった。

2010/08/01(日)(飯沢耕太郎)