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artscapeレビュー

古屋誠一「メモワール.」

2010年06月15日号

会期:2010/05/15~2010/07/19

東京都写真美術館 2階展示室[東京都]

古屋誠一の「メモワ─ル」は、二重の意味で不幸な写真シリーズだと思う。このシリーズの主題になっているのは、1985年に東ベルリンで自殺した古屋の妻、クリスティーネとの関係の綾であり、彼女の「記憶」はその不幸な出来事によって枠づけられ、強烈なバイアスがかかっている。そして、われわれもまた、「自殺した妻と残された夫」という情報を抜きにしてはそれらの写真を見ることができないがゆえに、いやおうなしにその不幸に感染してしまう。写真そのものは、衒いなく、柔らかな視線で写しとられた純度の高いスナップショットであり、目を喜ばせ、心を和ませるものも少なくないのだが、彼らの不幸が二重映しに被いかぶさっているので、どうしても身動きの取れない、がんじがらめの気分に追い込まれてしまうのだ。
もちろん、まったくの先入観や予備知識なしに、これらの写真を見ることができたならと、想像してみることはできる。だが、作者の古屋自身が執拗に二人の「記憶」にこだわり続け、瘡蓋をはがすような作業を営々と続けている以上、それは不可能な望みというしかない。要するに、これはある意味写真の宿命とでもいうべきものなのだが、観客はその写真が撮影された状況を写真家とともに分かち持つことを余儀なくされるのだ。しかもそれは、「この不幸な写真を見続けなければならない」という義務感や罪障感にわれわれを強く導く。正直な話、特に古屋とクリスティーネのような重い物語を、これ以上背負わされるのはたまらないという思いが僕には強くあった。会場に足を運んだ時にも、そんな重苦しい気分を引きずっていた。
ところが、会場で写真を見終えたとき、少し違った感触が芽生えてきた。解放感にはまだ遠いが、見慣れた写真の多い「メモワール」のシリーズが、少し違った方向に伸び広がっていこうとしているように感じたのだ。その理由のひとつは、会場構成にある。今回の展覧会の写真は「光明」「円環」「境界」「グラビテーション」「クリスティーネ」「エピファニー」「記憶の復讐」という小さな章に区分されながらつながっていく。もちろん「東ベルリン 1985」から年代をさかのぼって「グラーツ 1978」に至るポートレートを中心とした「クリスティーネ」や、彼女の死の前後のカットを含むコンタクトプリントで構成された「記憶の復讐」の章など、「メモワール」シリーズの中心部分は変わっていない。だがそれらの拘束力の強いイメージを取り囲むように、息子の光明クラウスの成長を追う「光明」や、彼女の死の事後の作品を多く含む「エピファニー」の章が配置されることで、見る者を不幸に感染させていくような力がだいぶ薄まり、弱まっているのだ。そのことによって、「メモワール」の作家ということに限定されがちだった写真家・古屋誠一が本来備えている、のびやかな画面の構成力、被写体をしなやかにつかみ取っていく視線の動きなどが、よりくっきりと見えるようになっていた。
しかも、展覧会のタイトルが「メモワール.」になっていることに注目すべきだろう。このタイトルの末尾に付されたピリオドが意味するのは、本展を「最後のメモワールにしたい」という古屋の意志である。つまり、1989年に刊行された『Mémoires』(Edition Camera Austria and Neue Galerie am Landesmuseum Joanneum)以来、ずっと続けられてきた「記憶」の検証作業に終止符を撃つという宣言なのだ。これは古屋にとっても、彼の写真を見続けてきた僕のような観客にとっても、よいことだと心から思う。単純に「安心したい」「安らぎを得たい」ということではない。また発表しないことで、あの「記憶」が幸福なものに変わると思っているわけでもない。だが「メモワール」を編み続ける過程で、古屋が苦闘しつつ見出そうとしてきた何ものかは、この断念によって失われるどころか、より豊饒な輝きを増し、「発酵」していくのではないか。そんなふうに信じたいと思うのだ。

2010/05/19(水)(飯沢耕太郎)

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