artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
ロバート・フランク写真展 PART1 THE LINES OF MY HAND
会期:2013/04/02~2013/04/27
gallery Bauhaus[東京都]
ロバート・フランクの写真を見ていると、スナップショットの面白さにあらためて目を開かれる思いがする。「日常の瞬間をさっとかすめ取るように掴まえてくる写真」という具合に言葉にしてみれば、単純で明快な手法に思えなくもないが、ちょっとでも撮影の経験があれば、それがどれほどの困難をともなうのかはよくわかるはずだ。むろん、フランク自身も規範にしたはずのアンリ・カルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」の写真のように、目のまえの出来事を完璧な構図の中におさめることは、たしかに優れた視力とカメラの操作力は必要だが、多少の努力をすれば到達可能かもしれない。だが、フランクのスナップショットに見られる微妙な間合い──むしろその瞬間の前後の場面を空気感ごと捉える能力は、これは天性の才能としか言いようがない。
今回展示された42点は、1972年の写真集『私の手の詩』(邑元舎、英語版のタイトルはTHE LINES OF MY HAND)に収録された写真から選択されている。元村和彦の編集によるこの写真集は、まさにフランクのそれまでの生涯を辿るように構成されているので、1948年撮影の「PERU」から、70年代の作品まで年代的な幅がかなり広い。そのため、彼の眼差しのあり方が、逆にくっきりと浮かび上がってくると言えそうだ。また、トリミングのために貼られた紙テープ、フィルムを巻き上げるための穴の痕がそのまま周辺に残ったプリントなど、元村の手元に残されていたヴィンテージ・プリントならではの生々しさがある。写真家の息づかいがそのまま感じられる、稀有な視覚的体験と言えるだろう。
なお、5月1日~6月1日には「PART2」として、フランクがカナダ・ノヴァスコシアに居を移した1970年代以降の写真47点による「QUIET DAYS」が開催される。
2013/04/09(火)(飯沢耕太郎)
五十嵐英之 Live with Drawing~多角的な視点から~
会期:2013/04/06~2013/05/02
自閉症の少年との間で20年にわたって続けられたドローイングによるコミュニケーションの作品と資料、中西夏之とのコラボレーション、そして自身の新作絵画を出品。点数と展示面積から言えば、自閉症の少年との作品・資料がメインを占めていた。五十嵐の個展はこれまでに何度か見たことがあるが、これほど多様な活動を行なっていたとは。日頃ギャラリーや美術館で見ているアーティストの仕事が、実はその人の一部にすぎないという事実を改めて思い知った。
2013/04/09(火)(小吹隆文)
游谷 上出惠悟
会期:2013/04/08~2013/05/05
Yoshimi Arts[大阪府]
130年以上の歴史がある九谷焼の窯元の六代目であり、個人でも活動している上出惠悟。その作品は、九谷焼の伝統に現代の感性を融合させたものだ。彼はディレクター的立場で制作を行なっており、実制作は主に工房の職人が行なっている。ただし、本人が絵付けをした作品もあるので、臨機応変な制作スタイルと考えるべきだろう。本展では、皿、茶碗、盃、蓋物、壺など20点以上が出品された。映画のカメラワークのように一連のシークエンスを描いた長皿の連作、高蒔絵のように盛り上がった金色の梅文様で埋め尽くされた髑髏の菓子壺、金継で富士の模様を描いた花詰の大皿……。どの作品にも遊び心に満ちた歴史と現代の対話が感じられるのが興味深い。シミュレーショニズムのようにすかした態度ではなく、ごく自然に過去を参照できるのがこの人の強みだ。
2013/04/08(月)(小吹隆文)
マリオ・ジャコメッリ写真展
会期:2013/03/23~2013/05/12
東京都写真美術館 B1展示室[東京都]
歓ばしいことに、マリオ・ジャコメッリ(1925~2000年)が20世紀イタリアを代表するだけでなく、写真表現の歴史にその名を刻する偉大な写真家であることが、日本の観客にもようやく認められてきたようだ。2008年に東京都写真美術館で開催された回顧展の規模をさらに拡大し、215点あまりを展示した今回の展覧会では、「スカンノ」(1957、59年)、「ルルド」(同)、「私にはこの顔を撫でてくれる手がない」(1961~63年)「風景」(1960年代~2000年)といった代表作だけでなく、日本では未公開のシリーズも多数出品されていた。
だが、なんといっても最初のパートに展示された「死がやって来ておまえの目を奪うだろう」の衝撃力が際立っている。母親が洗濯婦として働いていたという、彼の故郷の街、セニガッリアのホスピスで撮影されたという、死に瀕した老人たちの顔、顔、顔。それらにカメラを向けながら、ジャコメッリは次のような認識に至る。
「ホスピスで目にするのは、我々自身、我々の息子、我々の肖像であり、これらの写真の一枚一枚が私の肖像だ」。
たしかに、死の翼に覆い尽くされたこの場所では、老人たちの顔は互いに似通って来て、「我々の肖像」であるとともに「私の肖像」でもあるような、顔の元型とでも言うべき相がまざまざと浮かび上がってくる。ジャコメッリがいつでも死者の領域にカメラを差し出すようにして撮影を続けていたことが、これらの写真を見ているとよくわかる。
だが、ジャコメッリは同時に「男、女、愛」(1960~61年)や「シルヴィアへ」(1987年)のような、生=エロスの領域にもまた強い関心を抱いていた。生と死、現実と幻影の往還は、多くの優れた写真家の作品に見られるものだが、彼の場合その極端に引き裂かれたダイナミズムに凄みを感じてしまう。今回展示された力強いハイ・コントラストのモノクローム・プリントは、ジャコメッリ自身の手によるものという。深い場所まで届く洞察力と職人的な技巧の見事な結合だ。
2013/04/07(日)(飯沢耕太郎)
記念講演会「本物? 偽物? ファン・ゴッホ作品の真贋鑑定史」
会期:2013/04/07
京都市美術館講演室[京都府]
ゴッホ研究の第一人者、圀府寺司氏の講演会。展覧会の取材だけでなく、ゴッホ作品の真贋を巡るこの講演を聴くのも京都に来た理由のひとつ。なぜなら圀府寺氏はかつて倉敷の大原美術館で僕とまったく同じ経験をしているからだ。それは18歳のとき(70年代)大原美術館を訪れ、ナマのゴッホ作品《アルピーユの道》に初対面して感動し、隣の喫茶店エル・グレコで余韻に浸ったものの、後にそれが贋作であることを知り、あの「感動」はなんだったんだろうと考えてしまったことだ。違うのは、訪れたのがおそらく3年違いの春か夏かということと、エル・グレコで飲んだのがコーヒーかアイスティーかということくらいで、恐ろしく似た経験をしていたのだ(しかしもっとも異なるのは思慮深さで、それが約40年後に講演する側と拝聴する側にわかれることになる)。もちろんそれだけでなく、贋作そのものにも興味があっての聴講だ。話はおもにゴッホの贋作を売りさばいたオットー・ヴァッカーの手口と、美術史家ラ・ファイユらの鑑定の曖昧さを巡るものだった。考えてみれば贋作というのはニセモノと判明した作品のことだから、バレないかぎり贋作ではなく「真作」として扱われ、いまでも多くの美術館に飾られているかもしれないのだ。たとえばコローは約700点の絵を残したといわれるが、アメリカはかつて10万点を超えるコロー作品を輸入したというジョークもある。圀府寺氏いわく「すべての作品は灰色」と見るべきだと。そんな真贋鑑定の難しさを体験すべく、プロジェクターで2、3点のゴッホ作品を見せ、受講者にどれがホンモノかを当てさせる実験もした。ぼくは5問中4問正解したが、さすがゴッホ好き、贋作好き(?)が集まったせいか、4問正解は珍しくなく、全問正解もひとりいたらしい。たぶんこのなかにはぼくと同じように、かつて《アルピーユの道》に感動して裏切られた人も何人かいるに違いない。
2013/04/07(日)(村田真)