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美術に関するレビュー/プレビュー

二年後。自然と芸術、そしてレクイエム

会期:2013/02/05~2013/03/20

茨城県近代美術館[茨城県]

茨城県近代美術館の「二年後。自然と芸術、そしてレクイエム」の展覧会はとてもよかった。3.11の影響を受けた作品よりも、阪神・淡路大震災と3.11の両方を経験した絵や、その日偶然、被災を逃れた絵など、むしろ否応なく震災と関係を持ってしまった作品の数奇な運命などにも焦点を置く視点が興味深い。また美術館のアートフォーラムでは、「3.11 ユニセフ 東日本大震災報告写真展」を開催し、いわゆる報道写真が切り取った被災地のその瞬間やその後の経過などを紹介する。いろいろ訪れた結果、背後に街の風景の一部が見えるだけで、キャプションを読まなくても、どこの街が大体わかるようになっていた。

2013/03/08(金)(五十嵐太郎)

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ルーベンス──栄光のアントワープ工房と原点のイタリア

会期:2013/03/09~2013/04/021

Bunkamuraザ・ミュージアム[東京都]

待望のルーベンス展。といっても2、3千点もの作品を残したといわれるルーベンスだけに、工房作品や版画も含めて80余点、しかもその大半が小品というのはちょっとさびしい。でもじつは捨てたもんでもない。油絵の大作だったら必ずといっていいほどアシスタントの筆が入っているが、小品のなかでも下絵や習作はほぼ間違いなくルーベンスの真筆と認められるからだ。トレ・デ・ラ・パラーダのための連作の油彩スケッチ6点はその好例で、一辺30センチにも満たないくらいの小品ばかりだが、それゆえにルーベンスの的確なデッサン力と軽快な筆運びが伝わってくる。いかにも肉々しい大作に辟易したムキには、こうした小品のほうがよっぽどうれしい。

2013/03/08(金)(村田真)

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ミュシャ展──パリの夢 モラヴィアの祈り

会期:2013/03/09~2013/05/019

森アーツセンターギャラリー[東京都]

ミュシャというと、19世紀末のパリの街角を飾ったアールヌーヴォー様式のポスターで知られるイラストレーター、程度の認識しかなかったが、それはサブタイトルの前半「パリの夢」の部分。後半生は故国モラヴィア(チェコ)に戻り、壮大な絵画連作「スラヴ叙事詩」をはじめスラヴ民族のための芸術に身を捧げていく。これが後半の「モラヴィアの祈り」だ。知らなかったなあ、美術史に載ってないから無理もないが、帰郷後の活動が美術史に出てこないのはローカルな民族主義芸術にしか見られなかったからだろう。そこが東欧出身のツラさであり、同じ世紀末を彩ったウィーンっ子のクリムトとの違いかもしれない。出品作品は、ポスターやグラフィックデザインが大半を占める前半に対し、後半は油絵もたくさんあって、超絶的といっていいほどのテクニシャンぶりを見せつけているが、すでに前衛芸術華やかなりし20世紀前半にあって、職人技を駆使したミュシャの油絵は社会主義リアリズムと紙一重に映ってしまう。そこがクリムトとの最大の違いかも。余談だが、ミュシャは秘密結社フリーメイソンのメンバーであり、チェコではグランドマスター(最高大総監)も務めたという。そういわれれば、とくに後半は神秘主義のニオイがしないでもない。ともあれ、知られざるミュシャの一面を知ることができた点では有意義な展覧会だった。ところで、知られざるミュシャといえば、同展とは別に、その名もズバリ「知られざるミュシャ展」が日本各地を巡回している。こちらはチェコの個人コレクションを中心とする展示だが、サブタイトルが「故国モラヴィアと栄光のパリ」となっていて、内容的にはほぼ似たようなもの。ふたつ合わせて見るといい、つーより、なんでふたつ同時にやるんだ? なんで合体してくれないんだ?

2013/03/08(金)(村田真)

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吉原芸術大サービス

会期:2013/03/03~2013/03/10

吉原会館ほか[東京都]

かつては遊郭、現在はソープランドの街として知られている吉原で開催された展覧会。公民館や喫茶店、神社、公園などを会場に、20組あまりのアーティストが作品を展示し、パフォーマンスを披露した。
地図を片手に作品を探し歩くなかで、ソープランド街に迷い込んで呼び込みに眼をつけられたり、関東大震災で亡くなった遊女たちを供養するために建立された吉原観音像のキッチュな迫力に圧倒されたり、街歩きと美術鑑賞を一体化させた手法は、今日では決して珍しくはないとはいえ、おもしろいことにちがいはない。ただ、展示された作品の多くは、この街独特の雰囲気や建物に埋没しがちだった印象は否めない。
そうしたなか、ひとり気を吐いていたのが、高田冬彦である。吉原神社の倉庫の一室を暗室にして映像インスタレーション《偉い石プロジェクト》を発表した。何の変哲もない石がガラスケースのなかに展示され、その前の壁面には、その石をモチーフにした映像が投影された。映像には、チンドン屋とともに石が商店街を練り歩いたり、生肉を巻いて山中に放置された石に蛆虫がわく様子を執拗にとらえたり、目隠しのうえ両手を後ろで縛られた高田自身が衆人環視のなか路上で石とともに悶絶したりする様子が映っている。
映像の中心には、必ず石があった。つまりあらゆる表現は石を伴っていたが、見方によっては石が表現の主体であるかのようにも見えた。高田がさまざまなアプローチから迫ったのは、自己表現の内核にはそうした主客の転倒がありうるということではなかったか。

2013/03/08(金)(福住廉)

フランシス・ベーコン展

会期:2013/03/08~2013/05/026

東京国立近代美術館[東京都]

ベーコンといえば10代のころ「ファブリ世界名画集」で初めて知って衝撃を受けたものだが、その後ミニマル・コンセプチュアルに突き進むモダニズム路線を追いかけてしまい、ベーコンは忘却の彼方に置き忘れてきた。近ごろ再びベーコンの名が聞こえてくるようになったのは、オークションで作品が高額で落札されたとか、夜の街をさまよう同性愛者だったとか、どうでもいいような話ばかり。まあそういう話のほうがおもしろいのは事実だが。出品は第2次大戦直後から最晩年まで、半世紀近くにおよぶ33点。ほぼ例外なくどれも歪んだ身体や顔を描いた人間像だ。画業が半世紀近くにおよぶのに、その間イギリスも世界情勢もアートも大きく変わったはずなのに、モチーフもスタイルもほとんど変化がない。変化があったとすれば3幅対が増え、筆触が穏やかになったことくらい。ブレがないというか、頑固なまでにモダニズムに背を向けた画家だったようだ。まあ「現代美術」より「人間」に興味があったんでしょうね。ところで、ベーコンはしばしばマイブリッジをはじめとする写真を参照し、その写真の視覚特性や動きを強調するため縦方向の筆触でモデルをぼかすのだが、これがゲルハルト・リヒターの手法とよく似ている。でもベーコンは主題を際立たせるために筆触を用いたけれど、リヒターは筆触の妙にとりつかれて主題を変えていったようにも見える。同様に、ベーコンもリヒターも絵の前のガラスに興味を寄せるが、リヒターはガラスそのものを絵画として作品化したのに、ベーコンはあくまで絵を見るためのガラスでしかなかった。ここがモダニズムの分かれ目のような気がする。

2013/03/07(木)(村田真)

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