artscapeレビュー
ジェン・ボー「Dao is in Weeds 道在稊稗/道(タオ)は雑草に在り」
2019年07月15日号
会期:2019/06/01~2019/07/15
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]
北京出身で、香港を拠点に活動し、ソーシャリー・エンゲージド・アートにおいて世界的に注目を集める作家、ジェン・ボーの個展。「植物、雑草」を基軸に、被差別部落、性的マイノリティ、植民地支配といった周縁化された事象に光を当てる作品群が展開された。
ジェンは本展に先立ち、京都市立芸術大学の移転予定地である崇仁地域で滞在調査を行なった。1階の展示室は寺子屋風の設えがなされ、かつて被差別部落であった崇仁地域の「歴史を学ぶ場」として、水路による「境界線」が描かれた古地図、文献資料、街歩きの写真などが閲覧できる。また、建築家、生態学者、文化人類学者、歴史学者、活動家、美術家などさまざまな専門分野の人々が参加したワークショップの成果物として、「水平社宣言」を「植物も含む全ての種の平等」に拡張して書き換えた宣言文も展示された(鑑賞者も「新たな宣言文の起草案」を書いて参加でき、「開かれた学びの場」が仮設されている)。
一方、2階に展示された映像作品のシリーズ《Pteridophilia》(2016-)では、「植物」が、人間以外の生物種も含めて政治的意志決定の主体とみなす「生態熟議民主主義」の構成要員から、「性愛」のパートナーへと拡張される。作品タイトルは、「シダ」を意味する接頭辞「pterido-」と、「あるものに対する愛情または嗜好性」を意味する接尾辞「-philia」を組み合わせた造語。深い森のなかで、全裸の若い男性が、シダの葉を舌で愛撫し、葉の先端で自らの胸や性器を刺激し、激しい情交を交わす。シダが選ばれた理由は、受粉による受精やオス/メスの区別がなく、胞子による無性生殖を行なう「胞子体」が主体であるという特殊な生殖形態にある。《Pteridophilia》は、こうした「クィア」なシダ植物と「クィア」な人々との性愛を描くことで、ヘテロセクシャルという規範や人間/植物といった「種」の区別すら越境した、「新たな性愛のかたち」を提示した。
だが、本作は、同じくシダを扱った《Survival Manual》(2015-16)と関連づけて見るならば、単にユートピア的なビジョンの提示に留まらない、別のさらなる政治性を帯びてくる。《Survival Manual》は、太平洋戦争末期の1945年3月に台湾で発行された日本語の本『台湾野生食用植物図譜』を、ジェンが手描きで模写した作品である。台湾でシダは、原住民に重要視された植物である一方、戦時中は日本軍が、終戦後には中国本土からの国民党が、食糧難に備えてシダを食用植物として用いた。こうした歴史を念頭において《Pteridophilia》を見るとき、オーガズムの高まりとともに口に含んだシダの葉を食いちぎり、噛みくだき、飲み込んで体内に取り込もうとする男性の姿は、植民地支配がまさにカニバリズム的な欲望の表出やレイプに他ならないこと、欲望のままに相手を食らい尽くす行為であることを突きつける。それはまた、植物、とりわけ無性生殖の胞子体であるシダを用いることで、支配者=男性/被支配者=女性という、単純化されたジェンダーの支配図式からも逃れることに成功している。
だが、極めて残念なことに、《Pteridophilia》の展示にあたっては、「日本の性表現規制に基づき」という文言とともに、映像の一部が暗転され、音声のみで展示されていた。近年国内で相次ぐ表現の規制や炎上を考慮し、「リスク回避」を優先させた処置だと思われる。背景にはホモフォビアもあるのではないか。問題は、「誰がその判断を下したのか」「作家側から異議や抗議はなかったのか」といった経緯や責任主体の所在が不透明化され、ブラックボックス化し、暗黙のうちに「決定事項」となっていることだ。「開かれた」作品を見せる(見せて民主主義的な場を演出する)ことよりも、表現規制があったことについての情報やプロセスの開示と「議論の場を開く」ことこそが問われているのではないか。
2019/06/02(日)(高嶋慈)