artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
PGI Summer Show 2020 “Colors”
会期:2020/07/21~2020/08/22
PGI[東京都]
夏休みの時期にギャラリーのコレクションを公開する「PGI Summer Show」は、昨年の「monoとtone」(モノクローム)に続いて、今年は「Colors」(カラー)が企画された。出品作家はハリー・キャラハン、リチャード・ミズラック、ジャン・グルーバー、オリビア・パーカー、エリオット・ポーター、コール・ウェストン、オサム・ジェームズ・ナカガワ、石元泰博、川田喜久治、久保田博二、澤本玲子、圓井義典、濱田祐史の13人に、NASA(アメリカ航空宇宙局)所蔵の宇宙飛行士の写真が1点加わっている。ハリー・キャラハンの1940〜50年代の作品から、濱田祐史の2010年代の近作まで、多彩な作品を楽しむことができた。
カラー作品の歴史が浅いのは、どうしても褪色、変色の問題がつきまとうからである。モノクローム写真と比較して、安定した画像をキープするのがむずかしいので、写真家たちはさまざまなプリント技術を駆使して、カラー写真のクオリティを保とうとしてきた。それでも、リチャード・ミズラックの1980年代の風景写真のように、当時一般的に使われていたChromogenic Print(C-Print)の作品は、かなり褪色が進んでいる。今回の展示では、ハリー・キャラハンやエリオット・ポーターが使用していた、染料系の顔料によるDye Transfer Printは鮮やかな色味を残していた。だが同技法は、手間と費用の問題でいまはほとんど使われなくなっている。デジタル化以降のカラープリントがどの程度の耐久力を持つかは、これからの課題といえる。とはいえ、色、光、空気感をヴィヴィッドに定着できるカラー写真の豊かな表現力は、モノクローム写真では代替えが効かない。プリントの保存を含めた技術的な問題を、早急に解決していく必要があるだろう。
今回の収穫は、澤本玲子(1934〜2006)のカラー作品「東京 西落合」(1980)を見ることができたことだった。澤本玲子は、夫の澤本徳美とともに、長く日本大学芸術学部写真学科で教鞭をとっていた写真家である。PGIでも何度か個展を開催しているが、いまギャラリーに残っているのは本作一点だけだという。自宅の眺めに想を得て制作したシリーズだが、日常の事物に向ける視点が、どこかソール・ライターの作品のような趣がある。もう一度、きちんとふり返ってみるべき価値のある作家といえるだろう。
関連レビュー
PGI Summer Show 2019 “monoとtone”|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2019年08月01日号)
2020/07/28(火)(飯沢耕太郎)
日産アートアワード2020
会期:2020/08/01~2020/09/22
ニッサン パビリオン[神奈川県]
2013年より隔年で行なわれてきた「日産アートアワード」のファイナリストによる新作展。4回めの今回は1年遅れての開催となった。これまでの3回はBankARTが使ってきた日本郵船の海岸通倉庫を会場にしていたが、建物自体が再開発で消滅したため、場所探しに手間どったのかもしれない。今回の会場は、みなとみらいの一画に仮設されたニッサンパビリオン。もともと自動車のショールームとして建てられたらしく、展示は片隅の目立たない場所で行なわれた。
今年のファイナリストは風間サチコ、三原聡一郎、土屋信子、和田永、潘逸舟の5人。1回め8人、2回め7人、3回め5人と徐々に減っているが、日産の業績と関係あるんだろうか。風間は東京オリンピックに合わせて制作した超巨大作品《ディスリンピック2680》をはじめ、風刺を効かせた木版画を出品。三原は床と天井に設置した装置により水の三様態を可視化し、土屋はFRP、ビニールチューブ、金属板などを組み合わせたインスタレーションを見せている。和田は世界の人たちに中古の家電で楽器をつくってもらうプロジェクトを紹介し、潘は床に銀のシートに包まれた大きな消波ブロックを置き、整備員姿の本人が海の波を制止しようとする映像を流している。
いや、みんな悪くはないんだけど、昨年わざわざヴェネツィアで国際審査員が選出したファイナリストがこれかよ……との思いがなくもない。なんか華がないというか、色気がないというか。実際、作品に色味がほとんどないし、見ているうちに暗くなってくる作品が多い。ほかにもっと華々しいアーティストはいなかったんだろうか。強いて華があるといえば、土屋のインスタレーションと風間の木版画くらい。特に風間はモノクロームだけど、うわべだけの華やかさを批判するストレートな絵柄が実に華やか。《ディスリンピック2680》もいいが、原発批判の《PAVILION―白い巨象(もんじゅ)館》と、クルマ社会批判の《PAVILION―地球のおなら館》が秀逸だ。よくニッサンパビリオンで展示させてくれたもんだと感心する。
2020/07/28(火)(村田真)
内藤礼『空を見てよかった』
発行所:新潮社
発行日:2020/03/25
本書は、美術家・内藤礼による「ほぼ」言葉のみの作品集である。過去の展覧会で発表されたステートメント、文芸誌や新聞に寄せた折々の短文、それから本書のための書き下ろしや未発表の私記が、時系列順にではなく、全体でひとつの流れをつくるように配されている。「ほぼ」と言ったのは、表紙と本書の中ほどに計二点、《color beginning》という絵画作品がひそかに印刷されているからである。
何も知らずに本書を手に取った読者は、これをどのように読めばいいのか、少なからず戸惑うにちがいない。これは美術家の手による詩集ではない。まして、その作品の背後にある思想を明快な言葉で綴ったエッセイでもない。ここにあるのは「言葉」である。そして、言葉がこのように言葉として差し出されるというのは、今日において驚くべきことである。
これは詩集ではないと言ったが、それはもちろん、ここにある言葉の連なりがポエジーを欠いているという意味ではない。むしろ、行分けをふんだんに用いた本書の端々から受ける第一印象は「詩」以外の何ものでもあるまい。げんに、本書をめくり始めて数頁のうちに、「ただそこにじかにふるえ/すべてそのちからふるわし」(8頁)といった一定のリズムをもつ詩的なセンテンスが、次々と目に飛び込んでくる。ゆえに形式的に言えば、これらの言葉を詩とみなすことこそ、もっとも穏当な選択肢ではないかと思える。
他方、ここに書かれていることを、作家その人の制作論として読むことも可能だろう。たとえばこんな一節がある──「ここにはもうすでに空間があるというのに、なぜそれに触れようとしているのだろう。なぜものを置こうとしているのか。なぜものをなのか。変化をなのか。そうではない。この世界に人の力を加えることがものをつくるという意味だと言うのなら、私はつくらない」(26頁)。「作るという考えは傲慢だといつしか思うようになっていた。長い間、作ると言うことも書くこともしなかった。モノはそれ自体で生まれてくるのに、人が作るとはどうしたことだろう」(140頁)。
しかし以上のどちらなのか、と問われれば、そのどちらでもあり、どちらでもないというべきだろう。第一に、ひとつひとつのテクストにはそれらしきタイトルが一切ない。巻末の初出一覧を見ても、その書き出しが並べられているだけで、どれひとつとして「タイトル」を与えられた文字列はない。だとすると、やはり本書は丸ごとひとつの言葉の集合だと考えるべきなのだろう。
本書ではひらがなが多用されている。はじめ、それに対してわざとらしい印象を抱く読者もいるかもしれない。だが、わたしが繰り返し本書をめくるなかで感じたのは、いささか独特な漢字かな開きと、余白の取り方によって誘導された、あまり経験したことのない視線と思考の運動であった。それによって、ここにある言葉との距離がふと近くなったり、遠くなったりする。とはいえ、おそらくこれは読み手に対しても一定の調性を求めるプロセスであるため、誰もがそのような感慨を持てるものかどうか、正直なところ評者にもわからない。ただひとつ言えることがあるとすれば、この感覚は内藤礼の作品が空間中に立ち上げる独特な磁場と、きわめて類似しているということである。
現在、石川県の金沢21世紀美術館では、内藤礼の2年ぶりの個展「うつしあう創造」が開催されている(8月23日まで)。会期終了後に刊行されるそのカタログのなかで、評者はまずその作品がもたらす「驚き」について論じようと思った。そこで書いたことと、この場で本書について書いてきたことは、ほとんど同じことを言っていると思う。その驚きとは、こちらの意表を突くような暴力性をともなった驚きではなくて、長時間そこに身を浸すことにより徐々に湧き上がってくる、いわば遅効性の驚きなのである。
2020/07/27(月)(星野太)
古典×現代2020―時空を超える日本のアート
会期:2020/06/24~2020/08/24
国立新美術館[東京都]
古典美術と現代美術を対置させる手法は、雑誌や画集ではよくあるが、実際に展覧会で見たことは意外に少ない。海外ではたまに見かけるけど、日本ではほとんどない。それは、どっちがイニシアチブをとるかという問題があるからではないか。つまり、古典に軸足を置く企画者なら、例えば東博に現代美術を持ち込むことになるし、現代を軸に考える企画者なら、例えば都現美に古美術を展示しなくてはならない。どちらもリスクが高そうだ。そこで今回、古典も現代もない空っぽの新美術館が名乗りを上げたってわけか。今年はオリパラ関連の「日本博」キャンペーンもやってるし、金もたんまり出そうだみたいな。
古典と現代の組み合わせは、仙厓×菅木志雄、花鳥画×川内倫子、円空×棚田康司、刀剣×鴻池朋子、仏像×田根剛、北斎×しりあがり寿、乾山×皆川明、蕭白×横尾忠則の8組。このうち仙厓×菅、円空×棚田、乾山×皆川、蕭白×横尾あたりはよくも悪くも予想がつくし、実際よくも悪くも予想にたがわぬ展示だった。際立ったのは、刀剣×鴻池と仏像×田根の2組。鴻池は刀剣を陳列ケースに入れ、その上に獣皮を縫い合わせた上に神話的イメージを描いた巨大な《皮緞帳》を掲げ、中央に人形の首を振り子のように飛ばしてる。首が飛ぶのも壮観だし、《皮緞帳》そのものも見事だが、なにより刀剣との対比が鮮烈だ。
田根は鎌倉時代の《日光菩薩立像》と《月光菩薩立像》の2体を並べ、両側に配した照明を上下に動かした。両菩薩像は上から徐々に闇に包まれ、最後は暗闇になる。今度は下から徐々に明るくなり、最後は黄金の全身をあらわにするという仕掛け。つまり、ほかのアーティストと違って本人はなにもつくらず、ただ光を操作するだけ。それでいていちばん刺激的で、もっとも説得力があった。
2020/07/26(日)(村田真)
坂上行男『水のにおい』
発行所:蒼穹舎
発行日:2020年6月29日
本欄で以前、同じ蒼穹舎から刊行された松谷友美の写真集『山の光』を取りあげたとき、同社の出版物のクオリティの高さは認めるものの、やや引き気味に距離をとって、淡々と目の前の風景や人物をカメラにおさめていくスナップショットのスタイルが、「居心地のよい場所」に安住しているのではないかと述べたことがある。1951年生まれの坂上行男が、生まれ育った群馬県邑楽郡明和町の風物を撮影した写真集『水のにおい』も、やはりそんな蒼穹舎の出版物の範疇にぴったりとおさまる。とはいえ、前に書いたことと矛盾するようではあるが、坂上の写真集をめくっていくと、これはこれである意味必然的な、日本の風土と写真家たちとの関係のあり方に即した営みなのではないかと思えてきた。
明和町は「鶴舞う形の群馬県」とうたわれた群馬県の、くちばしの部分に位置する「利根川と谷田川にはさまれる田園の町」である。いわば典型的な日本の田舎町なのだが、その季節ごとに姿を変える景色を細やかに写しとった写真群を目で追ううちに、何とも言いようのない懐かしさと切なさが込みあげてくる。そんな感情を呼び起こす要因となるのは、「水のにおい」ではないだろうか。坂上の写真には、大小の川や用水堀だけでなく、雨上がりの道、濡れそぼった植物などがよく写り込んでいる。湿り気のある大気の感触は、誰でも身に覚えのあるものだろう。蒼穹舎風のつつましやかで受容的なスナップショットのスタイルが、カラープリントに「水のにおい」を封じ込むやり方として、とてもうまくいっていることを認めないわけにはいかないだろう。
2020/07/23(木)(飯沢耕太郎)