artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
ニューミューテーション#3 菊池和晃・黒川岳・柳瀬安里
会期:2020/07/11~2020/08/30
京都芸術センター[京都府]
活動歴5年未満の若手作家を紹介する本企画。3回目の今回は、自身の身体的なパフォーマンスによって制作する3名が選出された。特に菊池和晃と柳瀬安里は、「身体の酷使をとおした美術史の再現・引用」が共通する点で興味深い。菊池作品の特徴は、「トレーニングマシン」兼「描画装置」を自作し、筋肉やメンタルの強さを鍛える行為に従事することで、美術史上の「抽象絵画」(ただしすべて男性作家)を模倣的に生産する点にある。メインの出品作「円を描く」シリーズは、直近に開催された「京芸 transmit program 2020」展のレビューでも取り上げたので、本評での詳述は省く。
柳瀬安里もまた、自身の身体的パフォーマンスによる、美術史的作品や上演テクストの「再演」を、しばしば政治的緊張をはらんだ場において行なうことで、「今ここ」と歴史的記憶との衝突や輻輳を発生させ、見る者に突きつけてきた。《線を引く(複雑かつ曖昧な世界と出会うための実践)》は、2015年夏、国会議事堂周辺の安保反対デモのなかを歩きながら、道路にチョークや指で「線を引いていく」パフォーマンスの記録映像である。路上に歩行の痕跡を刻み付けていくパフォーマンスとして、例えば、氷の塊が解けるまで押して歩くフランシス・アリス《実践のパラドクス1(ときには何にもならないこともする)》(1997)や、ブーツの靴紐を足首にくくりつけて足枷のように引きずって歩くモナ・ハトゥム《ロードワークス》(1985)が想起される。柳瀬作品は、そうした美術史的過去を想起させつつ、デモに集った群衆を攪拌/分断し、地震の断層、「原発20km圏内」、警察の規制線、当事者/非当事者の境界線など複数の意味を胚胎させる。また、沖縄の高江のヘリパッド建設工事のゲート前を、エルフリーデ・イェリネクの戯曲『光のない。』を暗唱しながら歩く《光のない。》では、「私/あなた/私たち」の座を占める主体が、柳瀬の歩行とともに、日本/沖縄/アメリカ、あるいは柳瀬自身/機動隊員/鑑賞者と絶えず揺れ動き、書き換えられ、多重的に立ち上がる。戯曲の言葉が「声」として発話されることで初めて受肉化されることを示すとともに、「私/あなた/私たち」の境界画定が、分断と排除の論理が支配するあらゆる周縁化された場所で起こっていることを可視化していた。また、ウーライ/マリーナ・アブラモヴィッチのパフォーマンス《Breathing In/Breathing Out》(1977)を「再演」した《息の交換》では、柳瀬と協力者の男性が、一見キスに見える「互いの呼気を吸い合う」行為に挑み、「失敗」を繰り返す。
本展出品作《そこに、なにが映っていても目に見えない》で参照されたのは、ヨッヘン・ゲルツによる不可視のモニュメント《2146個の石―ザールブリュッケン反人種差別警告碑》(1990-93)である。これは、ドイツの都市ザールブリュッケンで、ゲシュタポの支部が置かれていた旧領主の城館の前の広場の敷石を剥がし、その裏面に、ナチ時代に破壊されたユダヤ人墓地の名前を刻んだプロジェクトだ。今年3月に現地を訪れた柳瀬は、石畳の長さを歩幅から割り出し、ビデオカメラで撮影した石畳の映像から一つひとつの敷石を取り出すように静止画に置き換え、繋ぎ合わせて布に転写し、広場の石畳の一部を「再現」した。薄暗い展示会場では、横幅約3m×縦幅20mの「石畳」の道が床に伸び、歩数を数える柳瀬の音声が聴こえてくる。本作が過去作品と大きく異なるのは、柳瀬自身の身体がそこに現前しないことだ。この不在性は、「敷石の裏に刻まれたユダヤ人墓地名が見えない」こととも呼応し、一見「模範回答」に見える。
だが、ゲルツ作品の要は、「忘却と抹消、不在」それ自体を体現する「不可視性」「表象の禁止」に加え、「どの敷石の裏にどんな名前が刻まれているのか」わからないまま、「その上を踏みつけて歩かねばならない」点にある。私たちは、踏みつけられた者たちの姿も見えず、その痛みもまったく感じることなく、歩くことができる。敷石の上を歩くという身体的接触/徹底した断絶というアンビバレンスがゲルツ作品の賭け金である。それは、鑑賞者を、文字通り「踏みつける」暴力を一方的に行使する抑圧者の立場に強制的に転位させてしまうのだ。
しかし、柳瀬作品において鑑賞者は、凹凸のない滑らかな布の表面に転写された石畳の画像に対して、その上を踏みつけて歩くのではなく、ただ厳かに眺めるだけだ。「身体を媒介したトレース」による「今ここ」への召喚だが、鑑賞体験のコアにある「身体性」とそれがはらむ真の暴力性への反省的自覚はむしろ損なわれ、零れ落ちてしまうのではないか。
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2020/08/01(土)(高嶋慈)
有元伸也「Tokyo Debugger 2019」
会期:2020/07/21~2020/08/02
「Tokyo Debugger」というタイトルは、かなりインパクトがある。Debugger(デバッガ)というのは、コンピュータのバグ(虫=エラー)を取り除く作業を支援するプログラムのことだが、有元の今回の展示には本物の「虫」たちが登場してくる。有元は主に東京郊外の高尾山や奥多摩地域で、マクロレンズをつけた6×6判レンズを使って昆虫、菌類などを撮影した。その精度の高いモノクローム・プリントを見ていると、彼の本気度が伝わってくる。
有元のこれまでのメイン・テーマは、『TOKYO CIRCULATION』(Zen Foto Gallery、2016)や『TIBET』(同、2019)のような、新宿・歌舞伎町界隈やチベットなどで出会った人物たちを、腰を据えて撮影したポートレートである。では、それらと今回の「虫」の写真に、まったくかかわりがないのかといえばそうではないだろう。人間たちも距離を置いて俯瞰してみれば、「虫」たちと同様に、宇宙や自然の営みのごく小さな歯車にすぎない。むしろ、有元が高尾山などでよく出会ったという昆虫採集に夢中になっている少年のほうが、そのあたりの機微はよく承知しているのではないだろうか。いわば、マクロとミクロとを往還する視点を持つことによって、有元が人間世界に向ける眼差しにも、より深みが加わってきているのではないかと思う。
なお、有元は「Tokyo Debugger」シリーズを、すでに2015年9月に銀座ニコンサロンで発表している。そのときと今回の写真をあわせて、10月にはZen Foto Galleryから同名の写真集が刊行される予定である。そちらも楽しみにしたい。
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2020/08/01(土)(飯沢耕太郎)
山崎弘義写真展「Around LAKE TOWN 7 —social distance—」
会期:2020/08/01~2020/08/11
ギャラリーヨクト[東京都]
越谷市の南東部に広がる越谷レイクタウンは、2008年から造成が開始されたニュータウンである。総面積225.6ヘクタール、最終的には22,400人が住む街になる。山崎弘義は「かつては田んぼだった」というレイクタウンの光景とその住人たちを、2014年から撮影し始めた。すでにギャラリーヨクトなどで、6回の個展を開催している。会場には2冊の写真ファイルが置いてあったが、その厚みもかなりのものになってきた。
だが、今回の展示はこれまでとはやや趣が違う。いうまでもなく、新型コロナウイルス感染症の影響で、撮影していた時期の空気感が一変してしまったからだ。山崎自身もそうだが、それを見るわれわれも、「ウイルスの影がどう写り込んでいるか」に関心が集中するのは仕方がないことだろう。とはいえ、レイクタウンの日常の光景を、過度の感情移入を抑えて、カラー写真で淡々と撮影していく山崎の姿勢には、大きな変化がないように見える。たしかにマスクやフェイスシールドをつけた人物の姿は目立つが、際立った違いは感じられない。逆にいえば、そこに「コロナ時代」を写真で表現することのむずかしさがある。ウイルスへの不安やその影響力は、目に見える形ではあらわれてこないので、写真からはそれをなかなか読みとることができないのだ。
むしろ、この「Around LAKE TOWN」のような息の長いシリーズの場合、10年単位の時間の流れのなかで、2020年春〜初夏というこの時期を捉え直すべきなのだろう。将来、この作品の全体をもう一度見渡す機会があれば、「コロナ時代」のあり方も、よりくっきりと見えてくるのではないだろうか。
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2020/08/01(土)(飯沢耕太郎)
鈴木理策写真展「海と山のあいだ 目とこころ」
会期:2020/07/21~2020/08/08
鈴木理策は1963年、和歌山県新宮市の生まれだから、今回の出品作のテーマである熊野という土地は、慣れ親しんだ原風景ということになる。これまでも「海と山のあいだ」というタイトルで何度か発表してきた。それでも、滝、樹木、草むら、海辺など、大判のプリントに引き伸ばしてゆったりと会場に並んだ作品18点(3枚組のシークエンスもあり)を見ていると、まるで初めて目にした風景を撮影しているような、新鮮な「こころ」の動きが伝わってくる。
それはひとつには、彼が8×10インチ判の大判カメラという、構図やシャッタースピードなど、撮影時のコントロールがむずかしい機材を使っているためではないだろうか。技術的な困難を克服するために、つねに緊張を強いられるということだ。もうひとつは、写真を「撮る」だけでなく、ネガやプリントを見てそれを「選ぶ」ことを重視しているからだろう。会場に掲げたコメントに、熊野で「撮ったものを見ると必ず新たな発見がある」と書いているが、大判カメラには、写真家の主観的な思惑を超えて、そこにある事物を客観的に写し込み、「あるがままの世界」を出現させる力が備わっている。その「純粋なカメラの目」を尊重しつつ、いかに使いこなしていくかというところに、鈴木が長年にわたって実践してきた写真行為の真骨頂がある。それはまさに「目とこころ」の共同作業というべきだろう。
「海と山のあいだ」シリーズは、風景写真の新たな枠組みを構築する作業としての厚みを備えつつある。すでに2015年にamana saltoから写真集として刊行されているが、続編も含めた新編集版を見てみたい。
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2020/07/30(木)(飯沢耕太郎)
STARS展:現代美術のスターたち―日本から世界へ
会期:2020/07/31~2021/01/03
森美術館[東京都]
「STARS」ってタイトルがスゴイ。「SARS」や「STAR WARS」じゃあるまいし。おまけにサブタイトルにも「スター」がダメ押しのように出てくる。現代美術のオールスターか? 出品作家を見ると、草間彌生、李禹煥、杉本博司、宮島達男、奈良美智、村上隆の面々。なかには人物的にも作品的にも「スター」と呼ぶにはいささか華々しさに欠ける人もいるけど、彼らがいまの日本で最高峰のアーティストたちであることは間違いない。
トップは村上隆。会場に入ると、まず《Ko²ちゃん(プロジェクトKo²)》が出迎えてくれるのだが、その背後からとんでもないものが顔をのぞかせる。高さ5メートル、幅20メートルを超す巨大絵画《チェリーブロッサム フジヤマ JAPAN》だ。画面中央に目と口のある富士山がデーンと居座り、両側に満開の桜、空にも桜花が舞っている。日本の象徴であり、ゆえに日本画の最重要モチーフでもある富士と桜を、ここまであからさまにポップ化してしまうとは! その対面には花だらけの巨大絵画《ポップアップフラワー》、床には2体の「阿吽像」、奥には約16億円で落札されて話題になった等身大フィギュア《マイ・ロンサム・カウボーイ》と《ヒロポン》、手前には拍子抜けするほど軽快な映像《原発を見にいくよ》を展示している。村上は見る者を裏切らない。いつも期待以上のものを見せて楽しませてくれる。
打って変わって静寂な空気が漂うのは、大先輩の李禹煥の部屋。砂利を敷いた床と壁を白く統一したなかに、立体2点と絵画2点のみの展示。ガラス板の上に大きな石を置いて割った《関係項》は、もの派全盛期の代表作のひとつで、スケールアップしての再登場だ。初期から現在まで半世紀以上一貫した制作を続けながら、それを最小限の作品で簡潔に見せている。その李以上に一貫した制作を続けているのが草間彌生だ。李とは反対に絵画、オブジェ、ミラールームなど10点以上をつぎ込んでにぎやかだが、あれもこれもと欲ばりすぎて焦点が定まらない。70年におよぶ草間の多彩な創作活動を見せるには今回のスペースは狭すぎた。
次の宮島達男は、再び静寂の世界。なるほど、一部屋ごとに静と動、明と暗を入れ替えているのがわかる。宮島は、浅く水を張ったプールの水面下に、無数の青と緑の光を点滅させた。東日本大震災の犠牲者の鎮魂と、震災の記憶の継承を願うインスタレーション《「時の海―東北」プロジェクト(2020 東京)》だ。水面下に輝く光は、生命を暗示するデジタルカウンターの数字で、カウントの速さは被災地の人たちに決めてもらったという。いわゆる住民参加型のソーシャリー・エンゲイジド・アートだが、これほど真剣に生と死に向き合うアートもないだろう。同展のなかでは異色の作品。
レコードジャケットやCD、マンガ、雑誌、人形などを並べたのは奈良美智。これらは奈良の少年時代を形成したものたちだ。次の部屋では、屋根に月の顔を載せた小さな小屋、少女を描いたドローイングやペインティングなど、メルヘンチックともいえそうな奈良ワールドが展開する。肩肘張らない自然体の姿勢だ。と思ったら、再び静かなモノクロームの作品が目に入ってくる。杉本博司の「ジオラマ」シリーズからの1点と、「海景」シリーズから派生した3点は、日常から乖離した別世界を開示する。そして最後の部屋で、杉本のライフワーク「江之浦測候所」を写した映像が流される。どんな壮大な宇宙論が展開されるのかと思ったら、趣味の作庭についてウンチクを垂れるオヤジみたいな語り口で、肩透かしを食らう。意外というより、むしろ杉本らしい巧みなプレゼンテーションというべきだ。
こうして見てくると、「現代美術のスター」といっても6人6様、作品の違いはもちろん、アートに対する考え方も展覧会に対する姿勢も異なっていることがわかる。そもそも、なんでこの6人なのか? だいたい「スター」の前に「往年の」とつけたくなるほど年齢層が高い。90代の草間を筆頭に、李80代、杉本70代、宮島と奈良が60代、いちばん若い村上も50代後半だからね。もっと若くてフレッシュなアーティストはいないのか。おそらく作家の選択基準は、サブタイトルの最後の「日本から世界へ」にあるだろう。つまり国内だけでなく、海外でも評価されているアーティストであることだ。じつはこれが明治以来の日本の美術にとって最大の関門だったのだ。
その前に、李と草間の展示室に挟まれた「アーカイブ展示」というコーナーについて触れたい。「その1」は、6作家それぞれの画集やカタログ、掲載誌などを展示し、「その2」では、1950年以降に海外で開かれた日本の現代美術展をまとめている。「その1」を見ると、さすがに6人とも予想以上にたくさんの展覧会を開いていることがわかる。しかもその半分くらいは海外のもの。これを目にすれば、なぜ彼らが「スター」と呼ばれるのかが納得できる(でも森村泰昌、川俣正、大竹伸朗あたりも同じくらいやってるけど)。
「その2」はさらに興味深い。ざっと数えたところ、海外での日本の現代美術展は、50年代が2本、60年代が3本、70年代が4本しかないのに、80年代には一気に11本に増え、うち89年と90年の2年間に7本と集中しているのだ。以後90年代8本、00年代13本、10年代9本とほぼ安定している。1989-90年はいうまでもなくバブル絶頂期で、世界を席巻する日本経済に引っ張られるように現代美術にも注目が集まった時期。これにより世界へのハードルは少し低くなり、宮島以降の世代はこの時流に乗ることができた(村上は自ら時流をつくることもした)。しかし草間、李、杉本はそれ以前にデビューしていたため、世界的評価を得るまでにタイムラグがあり、そのあいだに逆風が吹いたり、不遇な時代もあったのだ。なんとなく彼らにルサンチマンを感じるのはそのせいかもしれない。芸能界と違って、現代美術のスターは1日にしてならず、なのだ。
2020/07/30(木)(村田真)