artscapeレビュー
内藤礼『空を見てよかった』
2020年08月01日号
発行所:新潮社
発行日:2020/03/25
本書は、美術家・内藤礼による「ほぼ」言葉のみの作品集である。過去の展覧会で発表されたステートメント、文芸誌や新聞に寄せた折々の短文、それから本書のための書き下ろしや未発表の私記が、時系列順にではなく、全体でひとつの流れをつくるように配されている。「ほぼ」と言ったのは、表紙と本書の中ほどに計二点、《color beginning》という絵画作品がひそかに印刷されているからである。
何も知らずに本書を手に取った読者は、これをどのように読めばいいのか、少なからず戸惑うにちがいない。これは美術家の手による詩集ではない。まして、その作品の背後にある思想を明快な言葉で綴ったエッセイでもない。ここにあるのは「言葉」である。そして、言葉がこのように言葉として差し出されるというのは、今日において驚くべきことである。
これは詩集ではないと言ったが、それはもちろん、ここにある言葉の連なりがポエジーを欠いているという意味ではない。むしろ、行分けをふんだんに用いた本書の端々から受ける第一印象は「詩」以外の何ものでもあるまい。げんに、本書をめくり始めて数頁のうちに、「ただそこにじかにふるえ/すべてそのちからふるわし」(8頁)といった一定のリズムをもつ詩的なセンテンスが、次々と目に飛び込んでくる。ゆえに形式的に言えば、これらの言葉を詩とみなすことこそ、もっとも穏当な選択肢ではないかと思える。
他方、ここに書かれていることを、作家その人の制作論として読むことも可能だろう。たとえばこんな一節がある──「ここにはもうすでに空間があるというのに、なぜそれに触れようとしているのだろう。なぜものを置こうとしているのか。なぜものをなのか。変化をなのか。そうではない。この世界に人の力を加えることがものをつくるという意味だと言うのなら、私はつくらない」(26頁)。「作るという考えは傲慢だといつしか思うようになっていた。長い間、作ると言うことも書くこともしなかった。モノはそれ自体で生まれてくるのに、人が作るとはどうしたことだろう」(140頁)。
しかし以上のどちらなのか、と問われれば、そのどちらでもあり、どちらでもないというべきだろう。第一に、ひとつひとつのテクストにはそれらしきタイトルが一切ない。巻末の初出一覧を見ても、その書き出しが並べられているだけで、どれひとつとして「タイトル」を与えられた文字列はない。だとすると、やはり本書は丸ごとひとつの言葉の集合だと考えるべきなのだろう。
本書ではひらがなが多用されている。はじめ、それに対してわざとらしい印象を抱く読者もいるかもしれない。だが、わたしが繰り返し本書をめくるなかで感じたのは、いささか独特な漢字かな開きと、余白の取り方によって誘導された、あまり経験したことのない視線と思考の運動であった。それによって、ここにある言葉との距離がふと近くなったり、遠くなったりする。とはいえ、おそらくこれは読み手に対しても一定の調性を求めるプロセスであるため、誰もがそのような感慨を持てるものかどうか、正直なところ評者にもわからない。ただひとつ言えることがあるとすれば、この感覚は内藤礼の作品が空間中に立ち上げる独特な磁場と、きわめて類似しているということである。
現在、石川県の金沢21世紀美術館では、内藤礼の2年ぶりの個展「うつしあう創造」が開催されている(8月23日まで)。会期終了後に刊行されるそのカタログのなかで、評者はまずその作品がもたらす「驚き」について論じようと思った。そこで書いたことと、この場で本書について書いてきたことは、ほとんど同じことを言っていると思う。その驚きとは、こちらの意表を突くような暴力性をともなった驚きではなくて、長時間そこに身を浸すことにより徐々に湧き上がってくる、いわば遅効性の驚きなのである。
2020/07/27(月)(星野太)