artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
リアス・アーク美術館開館20周年記念特別展 震災と表現
会期:2014/09/17~2014/11/03
リアス・アーク美術館[宮城県]
前回は荒天で往生したが、今回は晴天なので運転を見合わせることはないだろうと安心していたら、反対方向の電車にカモシカが衝突し、大船渡線が単線のために到着が遅れた。展示は参加者が多いため、BOX ART形式をとり、サイズを制限しつつ、さまざまなアーティストのほか、美術系や建築系の研究室から震災に関連した作品が並ぶ。各自の感じた311への長いテキストも寄せられ、資料的な価値をもっている。
関連シンポジウム「震災と表現 美術の社会的役割について」では、椹木野衣、槻橋修らと登壇した。福島/原発を軸にゲリラ的な活動を展開する前者と、宮城・岩手/津波被災地において記憶を喚起する失われた街の白模型による支援型のワークショップを行なう後者が対照的である。おそらく、これはたまたまというよりは、アートと建築のジャンルの違い、あるいは異なる被災地における時間の流れの違いを反映していると思う。
2014/10/19(日)(五十嵐太郎)
美少女の美術史
会期:2014/09/20~2014/11/16
静岡県立美術館[静岡県]
展示のハイライトは、展示最後に配置された、谷口真人の鏡を使った少女のイラストのインスタレーション(と感じた)。この作品の構造、あり方は少し説明っぽいけれど、清々しくて、腑に落ちる。それまでに展示されていた全ての作品を資料のように、いわば前菜として味わい、さて、最後に主菜をいただきましょう、というような趣向で楽しんだ。その楽しみ方だと、谷口真人作品の展示の仕方は少し雑に見えた。スペースの都合上、最後の部屋の壁に寄せとこう、といった感じで余韻もあまりない。さりげないといえばさりげないのかもしれないけど。
2014/10/19(日)(松永大地)
種村季弘の眼 迷宮の美術家たち
会期:2014/09/06~2014/10/19
板橋区立美術館[東京都]
何とか会期に間に合って、最終日に「種村季弘の眼 迷宮の美術家たち」展を見ることができた。イメージの迷宮に遊ぶ「怪人タネムラ」の世界を堪能することができたのだが、あらためて強く感じたのは、種村は写真表現に対して強いシンパシーを抱いていたのではないかということだ。実際に展覧会に出品されていた写真作品は、ポスターやチラシにも使われていた今道子の「種村季弘氏+鰯+帽子」(2000年)をはじめとして、ハンス・ベルメール、鬼海弘雄、細江英公、さらに種村自身が蒐集した作品を並べた「奇想の展覧会──種村コレクション」のパートに展示された石内都、渡辺兼人のプリントなど、それほど多くない。とはいえ、彼の偏愛の触手が写真にも伸びていたことは間違いないと思う。
といっても、種村は現実世界をそのまま再現・描写するドキュメンタリー系の写真の仕事にはまったく興味がなかったのではないだろうか。柿沼裕朋が同展のカタログを兼ねた『種村季弘の眼 迷宮の美術家たち』(平凡社)で、「その好みは、はっきりしている。抽象よりも形のはっきりした硬質な画面とリアリズム、べたべたした情念よりも恐怖や不安を笑いに転化したような作品である」と述べているように、種村の「好み」は、まさに今や鬼海の写真がそうであるように、現実世界をくっきりとした白昼夢に変換してしまうような「硬質な画面」の作品に傾いていた。それは彼の著作でいえば『魔術的リアリズム メランコリーの芸術』(PARCO出版、1988年/ちくま学芸文庫、2010年)で扱われているドイツの「ノイエ・ザハリヒカイト」の画家たちの作品と共通する、細部までリアルに描写すればするほど魔術的、幻想的に見えてしまうような世界への志向ともいえるだろう。
残念なのは、種村が本格的な写真論を最後まで書くことなく亡くなってしまったことだ。「魔術的リアリズム」の系譜に連なる写真家たち、たとえばフレデリック・ソマーやマニュエル・アルバレス=ブラボについての論考を、ぜひ読んでみたかった。
2014/10/19(日)(飯沢耕太郎)
鳥取藝住祭2014
会期:2014/09/05~2014/11/30
米子市、倉吉市、鳥取市、境港市、大山町、岩美町各地[鳥取県]
鳥取県内の各所で催された芸術祭。「芸住」とは芸術が日常生活のなかに住む理想的な状態を指した造語で、アーティスト・イン・レジデンスを通してその実現を図るという趣向だ。国内外から20組あまりのアーティストが県内の随所に滞在しながら作品を制作した。
ただ、こうしたAIR事業を的確に評価することは甚だ困難を極める。滞在が長期にわたる場合、その進行過程を逐一観察することは事実上不可能であるし、たとえその過程に伴走することができたとしても、批評的な営みに最低限必要とされる客観性を担保することは至難の技だ。しかもこの芸術祭の開催場所は県内の全域に及んでおり、東西に長い同県を移動するだけでかなりの時間と労力を必要とする。事実、短期間の鑑賞では、実見できる作品も限られており、この芸術祭の全体像を把握できたとは到底言い難い。
とはいえ個別の作品から今日的な問題を引き出すことができないわけではない。全国のアートプロジェクトに参加している中島佑太は、地元住民や子どもを対象としたワークショップを手がけるアーティストとして知られているが、今回倉吉市関金町に滞在した中島はこれまでと同様住民や子どもに開かれた作品を発表した一方、逆にあえて閉じる傾向も作品に仕掛けていた。
たとえば《家族のルールをつくる》というワークショップは、当該家族と相談しながら家族独自のルールを設定するもの。おしりを振りながら歯みがきをしなければならないとか、頭に赤い風船を乗せてパスタを食べなければならないとか、微笑ましいルールが地域内の家庭に徐々に広がっていったようだ。
だが、そのような開放的な志向性とは裏腹に、中島は制作の拠点としていたスタジオに地元住民に背を向ける意味合いを込めていた。オープンスタジオに訪れた観客はガラス張りの入口からではなく、裏口から入るように促されるのだ。外から中の様子が伺えるようにしておきながら、そこからは入ることを絶対に許さない。この意固地とも言える姿勢は、彼なりのユーモアを込めた「ルール」と言えなくもないが、しかし、中島がこれまで実践を繰り返してきたワークショップや交流型の作品の総括から導き出された批判的な戦術ではなかったか。
一般論で言えば、市民や子どもを対象としたワークショップや交流型の作品は性善説に基づいていることが多い。観客参加型のアートであろうと、リレーショナル・アートであろうと、アートによって彼らとの関係性を一時的とはいえ構築することは、彼らにとってもよきものに違いないという揺るぎない確信を、それらの基底に隠している。それゆえ積極的に彼らに心を開き、そのことで彼らの心を開放することは、ほぼ無条件に是認される。裏返していえば、それらのアートが彼らにとって迷惑かつ不愉快極まりないものになりうる潜在的な可能性はあらかじめ抑圧されているわけだ。
ところが、改めて確認するまでもなく、こうした開放的な性善説はフィクション以外の何物でもない。あまりにも自明の理でありながら、このことを公言しにくいのは、それがワークショップはおろか、街おこしを主要な目的とした芸術祭やアートプロジェクトの大半が信奉している、ある種の神話だからだ。神話とは、それが現実的な裏づけを欠いているにもかかわらず、そのことがまったく意識されないほど十全に自然化された物語のことである。
本人が言明したわけではないが、おそらく中島は数多くのワークショップやアートプロジェクトに参加した経験から、この神話を直観した。そして、アーティストである以上、それを視覚化しようとした。どのような手法によって? 自己言及的な身ぶりによって。すなわち、開放性の慣習をなぞることで、ある程度その神話を引き受けつつ、その一方、閉鎖性の構えを堅持することで、それを相対化してみせたのだ。中島が体現した、開いているのに閉じているという両義性のなかに、来場者は神話の構造を見出すのである。
とりわけ注記しておきたいのは、中島による以上のような芸術祭やアートプロジェクトへの根本的な批評は、まさしくそのようなワークショップを手がけてきた自らへの自己批判も含まれているという点である。現在進行形のアートプロジェクトや芸術祭に焦点を絞りきれない美術批評を尻目に、当のアーティストが優れて批評性の高い作品を提示したことに、焦燥感を感じずにはいられない。
2014/10/18(土)(福住廉)
林忠彦「日本の作家109人の顔」
会期:2014/09/26~2014/11/25
日比谷図書文化館1階特別展示室[東京都]
林忠彦の「文士」シリーズはなぜこれだけ人気があるのだろうか。太宰治や坂口安吾や織田作之助といえば、林が撮影したポートレート以外の顔を思い浮かべるのはむずかしい。単純な記録写真というあり方をはるかに超えて、いまや彼らの肖像は時代のイコンとしての役割を果たしているように思える。現代において、ある一人の写真家が撮影した作家のポートレートが、これほど絶対的なイメージとして固定することはまずないのではないだろうか。
なぜ、そうなっているのかといえば、一つには作家と読者との関係のあり方が、林が「文士」シリーズを撮影した1940~50年代と現在ではまったく違っているからだろう。当時の作家とその作品の愛読者は、まさに一心同体であり、読者は小説や詩を読むことを通じて作家たちと対話しようと願っていた。その時の手がかりとして必要だったのが、作家の人間性をいきいきと表現したポートレートであり、林の「文士」シリーズはまさにその欲求に応えるものだったのだ。ひるがえって、現代の作家たちと読者との間に、そのような切実な関係が成り立つとはとても思えない。
それにしても、何度見直しても、読者の欲求にきちんと対応しながらも、細やかな人間観察力を発揮して、モデルの「これしかない」という表情や仕草を定着していく、林の写真家としての能力の高さには感嘆してしまう。林忠彦はプロ中のプロであり、そのような「職人的」といえそうな技巧の冴えも、デジタル化以降の現代写真の状況では発揮しにくくなっているのも確かだ。今回の日比谷図書文化館の林忠彦展には、新装版で刊行された写真集『日本の作家』(小学館)におさめられた作品の他に、コンタクトプリント、モデルとなった作家たちの初版本なども展示され、時代の雰囲気を立体的に浮かび上がらせていた。これから先も、図書館という場所にふさわしい、文学と連動した写真展の企画を期待したいものだ。
2014/10/18(土)(飯沢耕太郎)