artscapeレビュー

鳥取藝住祭2014

2014年12月01日号

会期:2014/09/05~2014/11/30

米子市、倉吉市、鳥取市、境港市、大山町、岩美町各地[鳥取県]

鳥取県内の各所で催された芸術祭。「芸住」とは芸術が日常生活のなかに住む理想的な状態を指した造語で、アーティスト・イン・レジデンスを通してその実現を図るという趣向だ。国内外から20組あまりのアーティストが県内の随所に滞在しながら作品を制作した。
ただ、こうしたAIR事業を的確に評価することは甚だ困難を極める。滞在が長期にわたる場合、その進行過程を逐一観察することは事実上不可能であるし、たとえその過程に伴走することができたとしても、批評的な営みに最低限必要とされる客観性を担保することは至難の技だ。しかもこの芸術祭の開催場所は県内の全域に及んでおり、東西に長い同県を移動するだけでかなりの時間と労力を必要とする。事実、短期間の鑑賞では、実見できる作品も限られており、この芸術祭の全体像を把握できたとは到底言い難い。
とはいえ個別の作品から今日的な問題を引き出すことができないわけではない。全国のアートプロジェクトに参加している中島佑太は、地元住民や子どもを対象としたワークショップを手がけるアーティストとして知られているが、今回倉吉市関金町に滞在した中島はこれまでと同様住民や子どもに開かれた作品を発表した一方、逆にあえて閉じる傾向も作品に仕掛けていた。
たとえば《家族のルールをつくる》というワークショップは、当該家族と相談しながら家族独自のルールを設定するもの。おしりを振りながら歯みがきをしなければならないとか、頭に赤い風船を乗せてパスタを食べなければならないとか、微笑ましいルールが地域内の家庭に徐々に広がっていったようだ。
だが、そのような開放的な志向性とは裏腹に、中島は制作の拠点としていたスタジオに地元住民に背を向ける意味合いを込めていた。オープンスタジオに訪れた観客はガラス張りの入口からではなく、裏口から入るように促されるのだ。外から中の様子が伺えるようにしておきながら、そこからは入ることを絶対に許さない。この意固地とも言える姿勢は、彼なりのユーモアを込めた「ルール」と言えなくもないが、しかし、中島がこれまで実践を繰り返してきたワークショップや交流型の作品の総括から導き出された批判的な戦術ではなかったか。
一般論で言えば、市民や子どもを対象としたワークショップや交流型の作品は性善説に基づいていることが多い。観客参加型のアートであろうと、リレーショナル・アートであろうと、アートによって彼らとの関係性を一時的とはいえ構築することは、彼らにとってもよきものに違いないという揺るぎない確信を、それらの基底に隠している。それゆえ積極的に彼らに心を開き、そのことで彼らの心を開放することは、ほぼ無条件に是認される。裏返していえば、それらのアートが彼らにとって迷惑かつ不愉快極まりないものになりうる潜在的な可能性はあらかじめ抑圧されているわけだ。
ところが、改めて確認するまでもなく、こうした開放的な性善説はフィクション以外の何物でもない。あまりにも自明の理でありながら、このことを公言しにくいのは、それがワークショップはおろか、街おこしを主要な目的とした芸術祭やアートプロジェクトの大半が信奉している、ある種の神話だからだ。神話とは、それが現実的な裏づけを欠いているにもかかわらず、そのことがまったく意識されないほど十全に自然化された物語のことである。
本人が言明したわけではないが、おそらく中島は数多くのワークショップやアートプロジェクトに参加した経験から、この神話を直観した。そして、アーティストである以上、それを視覚化しようとした。どのような手法によって? 自己言及的な身ぶりによって。すなわち、開放性の慣習をなぞることで、ある程度その神話を引き受けつつ、その一方、閉鎖性の構えを堅持することで、それを相対化してみせたのだ。中島が体現した、開いているのに閉じているという両義性のなかに、来場者は神話の構造を見出すのである。
とりわけ注記しておきたいのは、中島による以上のような芸術祭やアートプロジェクトへの根本的な批評は、まさしくそのようなワークショップを手がけてきた自らへの自己批判も含まれているという点である。現在進行形のアートプロジェクトや芸術祭に焦点を絞りきれない美術批評を尻目に、当のアーティストが優れて批評性の高い作品を提示したことに、焦燥感を感じずにはいられない。

2014/10/18(土)(福住廉)

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