artscapeレビュー
書籍・Webサイトに関するレビュー/プレビュー
田村尚子『ソローニュの森』
発行所:医学書院
発行日:2012年8月1日
タイトルの「ソローニュの森」というのはパリから車で2時間あまりの場所にあり、そこにはラ・ボルド精神科病院がある。その道の専門家には有名な病院のようで、思想家のフェリックス・ガタリが精神科医として勤務していたことでも知られている。田村尚子は、2005年にこの病院の院長であるジャン・ウリと京都で出会ったのをきっかけにして、ラ・ボルドを自由に撮影することを許された。今回まとまったのは、その後の6回にわたったという滞在の記録である。
精神病者の写真というと、ある種のステロタイプな画像がすぐに頭に浮かぶ。だが、田村の写真は、患者たちの歪み、ねじれ、悲惨さなどを強調したそれらの写真とは、まったく一線を画するものだ。たしかに一見して「普通ではない」人たちの姿も写っているのだが、そのたたずまいは柔らかく、穏やかな雰囲気に包み込まれている。それはいうまでもなく、ラ・ボルドが他の精神病院とは違って、患者と病院のスタッフとの、そして外部の世界との境界線をなるべくなくすような、開放性の高いシステムを導入しているからだろう。田村はその空間を「もう一つの国」として受け容れ、パリに戻った時に逆に「社会の檻の中に戻ってしまった」と感じるようになる。
とはいえ、ラ・ボルドに日本人の女性がカメラを持って入り込み、撮影することは、田村にとっても患者たちにとっても、相当に負荷のかかることだったようだ。「カメラは凶器にもなる」ことに田村は思い悩み、一度はラ・ボルドから「脱走」するに至る。だが、もう一度戻ってきて、患者たちの前で自作の写真の「上映会」を行なうことで、ようやくその存在を認めてもらうことができるようになった。一見穏やかな写真群の裏に潜む、心の震え、感情の揺らぎ。それらもまた彼女の写真は鋭敏に写しとっているように見える。
本書は医学書院の「シリーズ ケアをひらく」の一冊として刊行された。同シリーズでは写真集は初めてである。だが、「医療と生活の境界を大胆に横断し、日常を再定義する」という「シリーズ ケアをひらく」の企画趣旨にふさわしい本といえるのではないだろうか。祖父江慎+小川あずさ(cozfish)による装丁・造本が素晴らしい。薄紙を重ね、折り畳んでいくような繊細なレイアウトが、すっと目に馴染んでいく。
2012/09/05(水)(飯沢耕太郎)
林ナツミ『本日の浮遊』
発行所:青幻舎
発行日:2012年6月1日
大ヒットの予感がする写真集だ。林ナツミは2011年1月1日から自分のブログ「よわよわカメラウーマン日記」(http://yowayowacamera.com/)に「本日の浮遊」シリーズをアップしはじめた。そこでは彼女自身がさまざまな場所で飛び上がり、空中を漂っているような瞬間を撮影した写真を見ることができる。最初の頃は、セルフタイマーを使っていたが、タイミングをとるのがむずかしく(最大で300回以上も飛び上がるのだそうだ)、彼女のパートナーで「バルテュス絵画への考察」シリーズで知られる写真家の原久路がシャッターを切るようになった。
このシリーズの魅力は、まずは意表をついた場面設定だろう。彼女の家の周辺や公園など日常的な場面もあるが、駅の改札口やホーム、レストランの中、バスルームなど、思いがけない場所でもジャンプしている。台湾で撮影したシリーズもあるし、最近はステレオカメラで撮影して、立体感を出すために2枚の写真を並べることもある。だがそれよりも、空中を漂っている彼女の姿がいつでも凛としていて美しく、見ていて解放感があるのが人気の秘密だと思う。鳥のように空を自由に飛ぶというのは、人間の見果てぬ夢だったわけだが、それがこのシリーズのなかで完璧に実現しているように感じるのだ。
誰でも疑問に思うのは、林がこの作品を制作するときに、コンピュータによる合成を使っているかどうかだろう。明るさやコントラストを調整する場合はあるが、基本的には画像の合成はしていない。つまり、彼女は100%自分の体を張って「浮遊」しているわけで、そのことが画像から生々しい恍惚と不安と緊張とが伝わってくる理由であることは間違いない。当初は1日1枚の「日記」の形式でアップしていた「本日の浮遊」は、あまりにも手間がかかり過ぎるのでペースが落ちて、現在はまだ6月までしか進んでいない(写真集では3月31日まで)。このシリーズが1年分たまったとき、どんな眺めが見えてくるのかがとても楽しみだ。
2012/09/05(水)(飯沢耕太郎)
斉と公平太『CHOJAMACHI 第一巻』
発行日:2012年7月
アートラボあいちにて、あいちトリエンナーレ2010の出品作家、斉と公平太さんのゆるキャラ、長者町くんの漫画『CHOJYAMACHI』を購入する。小難しいアート漫画ではなく、ロボット、看守、不幸の手紙支配人も登場し、けっこう笑える内容だ。Facebookでも読めるが、紙媒体の方がゆるさを強く感じることができる(http://t.co/zP3m1Nd2
2012/08/20(月)(五十嵐太郎)
カタログ&ブックス│2012年8月
展覧会カタログ、アートにまつわる近刊書籍をアートスケープ編集部が紹介します。
3.11/After 記憶と再生へのプロセス
2012年3月仙台と、フランス・パリで開催された建築展「3.11──東日本大震災の直後、建築家はどう対応したか」の展覧会採録と、東北大学せんだいスクール・オブ・デザイン特別講義「復興へのリデザイン」でのレクチャーを基にまとめられた。巻頭対談として隈研吾と五十嵐太郎「After 3.11 を生きるということ。」、巻末「[ブックレビュー]震災を読む25冊」など。
インタラクションデザイン/RCAデザイン教育の現在 神戸芸術工科大学レクチャーシリーズII……5
イギリスのロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)で行われている最先端の「インタラクション・デザイン」の研究と教育メソッドを紹介する。RCAのアンソニー・ダン教授へのインタビューやRCAのデザイン・インタラクション学科で学んだスプツニ子! の大学特別講義を収める。他に学生などによるプロジェクト作品を紹介。[新宿書房サイトより]
パリの運命
ル・コルビュジエがパリの運命を託したのは、人と生が輝く都市であり、すまいだった。ル・コルビュジエの《輝く都市》の入門書にして、その核心『パリの運命』。[彰国社サイトより]
NAOSHIMA NOTE 2012.6 建築でみるベネッセアートサイト直島
1992年のベネッセハウス以来のそれぞれの建築家の思想を反映しつつ、場の特性を深く読み込んだ空間をもち得た、周囲の環境、自然、そしてアート作品と一体になっている建築が建設されてきた。ベネッセアートサイト直島のアートや自然と同様に、建築の重要性を常に考え、島の風土や歴史を尊重し、瀬戸内海の光や空気、海や木々に溶け込んだ建築を建築家と共に目指してきた直島、豊島、犬島の建築を通して、これまでのベネッセアートサイト直島を振り返る。「ベネッセアートサイト直島20年建築史」、五十嵐太郎による「建築と美術と風景が融合し、世界のどこにもない場所をつくる」掲載。
インタラクションデザイン KDU, RCA, MAU, IAMASジョイントワークショップ2012報告
神戸芸術工科大学にて2011年度共同研究「情報化社会における大学のデザイン導入教育に関する研究」の研究教育プログラムの一環として、ロンドンRCAからデザイナーのフィオナ・レイビイ氏を招聘、武蔵野美術大学情報科学芸術大学院大学、神戸芸術工科大学の三大学ジョイントによるデザインワークショップの記録。1日のうちのコアタイムはすべて英語でコミュニケーションを行なうなかでの、学生らのアイデアあふれるプロジェクト提案、プレゼンテーションでの活発な討議が行なわれた。
ねもは003
東北大学大学院有志が制作する建築雑誌。今号の特集は「建築のメタリアル」と題し、現代の情報と物質の関係を明らかにすることで、ジャンルの対立を越えたこれからの建築の「現実」の有り様をかたどる。早稲田大学芸術学校校長である鈴木了二氏や、慶應義塾大学環境情報学部准教授である田中浩也氏のインタビューを掲載。
http://nemoha.blog.fc2.com/
2012/08/15(水)(artscape編集部)
山中俊治『カーボン・アスリート──美しい義足に描く夢』
本書はプロダクト・デザイナーで慶應義塾大学教授の山中俊治氏が、競技用義足のデザイン開発プロジェクトに臨んだ3年間の記録である。ロンドン・オリンピックでの活躍で話題を呼んだオスカー・ピストリウスの義足のように、カーボンファイバーの板バネを使用したスポーツ用義足は機能的にすでに高い水準が達成されている。日本でも同様の義足を使用するアスリートたちがいる。しかし、それらの義足の多くはデザインが不在であったと山中氏はいう。では、そこにデザインを持ち込むことの意義はなんだろうか。なぜ一般用の義足ではなく、スポーツ用義足なのだろうか。
戦争、事故、病気、先天性……なんらかの理由で身体の一部が失われてしまった人々を補助する道具のひとつとして、義手や義足には欠損した部位がはたしていた機能の代替が求められると同時に、動きや見た目などの外観的な要素を補うことも求められる。なかでも見かけの再現を主眼にした義手・義足を装飾用(コスメチック)義肢と呼ぶという。残念なことに現在の技術では使用者が求める機能と外観とは十分に両立できない。機能に不自由があったとしても「健常者」のような見た目を求めるか、それとも見た目に「違和感」があったとしてもより機能的な補助具を求めるかという選択が必要になる。その点、スポーツ用義足に第一に求められるのは、速く走るための機能である。カーボンファイバーでつくられた義足の形状は人の足とはまったく異なる。使用者もそれを当然のこととして受けとめている。それゆえデザインに求められる課題は装飾用義肢とは異なる。「すぐれたデザインは、どんな場面でも、人の気持ちを少し明るくするものだ」と山中氏はデザインの意義を述べる。「素敵なデザインの義足は、きっと切断者たちを少し前向きにすることができる」(45頁)。
デザインすることの意義はそればかりではない。アスリートたちの多くが日常用の義足とスポーツ用義足を履き分けているが、義足アスリートたちは日常的にも義足であることを隠さなくなる傾向にあるという(34頁)。機能的にも視覚的にも優れたデザインの義足を身につけたアスリートたちが、その実績によって自信を持ち、人々の好奇の目を気にしないで生活できるようになれば、義足であることを隠さずに済むばかりか、履き分ける必要がなくなるかもしれない。そのことは使用者の精神的ストレスや、もうひとつの義足を持つための費用負担をも軽減する可能性がある。さらに、アスリートたちの活躍がテレビや新聞でニュースが取り上げられることは製品にとっても、その使用者にとっても計り知れない効果を持つ。スポーツ用品メーカーがこぞって第一級の選手たちのためにコストを度外視し、逆にスポンサー料を払ってでも製品を開発するのは、莫大な宣伝効果が期待できるからである。一流選手が手にすることで、そのスポーツと関わりのない者までもが、必要もないのにバスケットシューズやランニングシューズを履くことになる。同様に、優れたデザインの義足を履いたアスリートたちが話題になり、その姿を目にする機会が増えれば、障碍やその補助具に対する人々の意識が変わる可能性がある。そしてその効果は選手にとどまらない。これこそが、なぜスポーツ用義足のデザインなのか、という疑問に対する答えであろう。このプロジェクトの最初の段階で、山中氏はすでにこのような価値観の変化の可能性と新しいノーマライゼーションの萌芽について記している(104頁)。山中氏が基本デザインを手がけたICカード改札機は、それまではなじみの薄かった非接触型ICカードという技術を人々の生活にとってあたりまえの存在に変えた。スポーツ用義足のデザインもきっと次の「あたりまえ」を生み出すに違いない。
これから始まるパラリンピックとともに、本書はさらに話題となるだろう。しかし本書の主題は障碍とスポーツとデザインとの関わりににとどまらない。3年間余という長期にわたって技術者と使用者とデザイナーの協業によって展開され、いまだ発展の途上にあるプロジェクトを記録しているという点で本書は類を見ない。さらに本書はデザインの新たなフィールドが生まれる瞬間を目撃するドキュメンタリーであり、学生がデザインを学び巣立つまでの物語であり、ひとりの優れたデザイナーが優れた指導者になるまでを描いた自伝でもあるのだ。[新川徳彦]
2012/08/10(金)(SYNK)