artscapeレビュー
映像に関するレビュー/プレビュー
山村幸則 個展「Thirdhand Clothing 2014 Spring」
会期:2014/05/03~2014/05/25
1,000着の古着と映像によるインスタレーション。壁に投影された映像には、作家本人が1,000着のなかから9着を身につけて、ただまっすぐに歩く姿111パターンが映し出されている。着方は出鱈目。前後、左右、上下、袖、裾、襟、ズボンもジャケットもお構いなしにとにかく身に纏う。ある時は服が片方の肩にこんもりと積み重なり、ある時は首回りから幾重にも垂れ下がる。これでは、たとえ一点一点は服の形状をしていてもその機能は本来の服のものとはいえない。それでもその全身姿は、民族衣装で着飾ったどこか見知らぬ国の人のようで、静かな落ち着きと美しい調和が感じられる。その要因は、組み合わせる古着の色合いがある程度統一されていること以上に、それを着る人物の風貌にあるように思う。
山村は、現代美術家としてのおよそ20年間のキャリアのほとんどを滞在制作に費やしてきた。近年、アーティスト・イン・レジデンスはさほど珍しくはないが、彼の場合、実施した数と地域が尋常ではない。日本国内にはじまり、ノルウェー、アメリカ合衆国、タイ、イラン、ケニア、ドイツ、ポーランド、中国等、世界を股にかけてきた。その場所にふさわしい作品を現地の人々とのふれあいのなかで制作するのが彼のスタイルだ。山村は、美術家であり、旅人なのである。
今回の個展では神戸の老舗古着屋「古着ルネッサンス楽園」から古着を借用したという。古着といっても、業者の扱うものは店頭に並ぶ前にひととおりの処理を終えていて、以前にそれを着用した人の名残はほとんど感じられない。古着として、今、神戸で売られていることも、かつての持ち主の知るところではないだろう。主人をなくし、あちこちを巡り、海を渡って、それでも衣服として生きながらえて次の持ち主に着られるのを待っているのである。作家だけではなく、服もまた旅路にある。古着「Secondhand Clothing」を、山村は自らが袖を通すことによって「Thirdhand」にするという。旅人、山村と、旅する服の一時の出会い。会場では、誰でも展示された古着を購入して「第四の着手」になることができる。[平光睦子]
2014/05/18(日)(SYNK)
映画をめぐる美術──マルセル・ブロータースから始める
会期:2014/04/22~2014/06/01
東京国立近代美術館[東京都]
ベルギー出身のアーティスト、マルセル・ブロータースを中心に国内外のアーティストによる映像作品を展示した展覧会。興味深かったのは、展覧会のコンセプトと展示構成が照応していたこと。会場中央のブロータースの部屋から四方に向かって暗幕の小道がいくつも伸び、その先にそれぞれの参加作家の作品が展示された。暗闇の道を歩いて映像を訪ね歩く鑑賞方法が面白い。
とりわけ注目したのが、エリック・ボードレールとピエール・ユイグ。前者はパレスティナの風景やさまざまなイメージを映しながら、パレスティナ解放戦線に身を投じた重信房子の娘メイと、重信に合流した映画監督の足立正生による語りを聞かせる作品だ。映像化されていない27年間という時間について足立とメイが口にする言葉と、それらにあわせて映し出される映像は直接には対応していない。けれどもその音声と映像が脳内でまろやかに溶け合うとき、眼前の映像とはまったく別の映像を見ているような気がしてならない。映像を見ていながら、実はもうひとつ別の映像を見ているのだ。もちろん、それは単なる眼の錯覚なのかもしれないが、しかしそれこそが紛れもない映像詩と言うべきだろう。言葉の奥にイメージを見通すのが詩であるとすれば、エリック・ボードレールの映像作品は確かに映像の向こうを垣間見させたからだ。1時間ほどの尺がまったく苦にならないほど濃密で洗練された詩情性が実にすばらしい。
一方、ピエール・ユイグの作品の主題は、銀行強盗。1970年代にニューヨークで起きた銀行強盗事件の犯人に、当時の現場を再現したセットで証言させた。行員や警備員、警察官役のエキストラに指示を出しながら事件の経緯と内情をカメラに向かって話す犯人の男の口調はなめらかで意気揚々としている。だが、時折差し込まれる同事件に着想を得た映画『狼たちの午後』からの引用映像や、当時の現場を報じるテレビのニュース映像は、基本的には犯人の証言に沿いながらも、正確にはわずかにずれており、犯人が詳らかに語れば語るほど、その微妙な差異が逆説的に増幅していくのだ。おそらくピエール・ユイグのねらいは事件の真相を解明することにあるのではない。さまざまな視点による複数の映像を縫合することなく、あえて鑑賞者の眼前にそのまま投げ出すことによって、私たちの視線を映像と映像の狭間に導くことにあったのではなかったか。映像を見る快楽とは、視線がその裂け目にゆっくりと沈んでいくことに由来しているのかもしれない。
両者は、方法論こそ異なるとはいえ、ひとつの共通項を分有していた。それは、視線の焦点が映像そのものにあるのではなく、その先に合わせられているということだ。そこに、映像表現を楽しむための手がかりがある。
2014/05/17(土)(福住廉)
収容病棟
ワン・ビン監督のドキュメンタリー映画『収容病棟』を見る。中国の精神病院の「日常」を撮影したものだが、この題材で許可をとれたことに感心する。そして被写体との絶妙な距離感も興味深い。前編・後編あわせて4時間という長尺だが、この長さだからこそ、閉ざされた空間で、日々繰り返される生活への没入と想像に導く。『収容病棟』の建物では、相部屋以外だと、ほとんどの時間をテレビのある談話室か、中庭を囲む、格子のある回廊を歩くしかない。3階が男性、2階が女性、1階は食事(ただし、みな立ち食いしていた)。食事、排泄、睡眠という基本行為だけを満たす、機能主義/モダニズムを突き詰めたシンプルな空間である。しかしながら、『収容病棟』の建物では、制限された区域内の自由が保証され、会話、ケンカ、いたわりあい、恋愛さえ(3階と2階のあいだで)起きている。フィクションで描かれる精神病院のイメージとは違い、人間としての生活があり、人生の装飾を剥いで、シンプルにした分、塀の外の社会の生涯をより濃縮したようにも見える。
2014/05/07(水)(五十嵐太郎)
レイルウェイ 運命の旅路
『レイルウェイ 運命の旅路』は、いま日本で上映される価値のある作品だった(邦題がダサいので損をしているが)。戦時中に日本軍の捕虜となり、虐待されたイギリス兵の強制労働による鉄道建設は、『戦場にかける橋』でも有名だが、その半世紀後の史実を描く。負の記憶に向きあうこと、敵と罪への赦し、そしてダークツーリズムをめぐる本作のテーマは重厚である。ただし、拷問された英兵と、当時の日本人通訳が戦後に再会するこの映画を、原作の書籍と比較すると、物語や場面を脚色したシーンも少なくないようだ。映画なりのドラマを演出しているが、実話の映画向けではない部分も、別の意味での凄みがある。現実はもっと複雑で数奇なのだ。ところで、『戦場にかける橋』の原作者ピエール・ブールは、戦時中日本軍に捕まった経験をもち、『猿の惑星』も書いている。そうなると、人間を支配する猿とは、西洋人を虐げた日本人のことを意味していたのではないか。
2014/05/01(木)(五十嵐太郎)
『アナと雪の女王』『ミッキーのミニー救出大作戦』
『アナと雪の女王』を見る。もちろん、大ヒットしているように、歌は良いのだが、氷や雪のアニメ表現で、ここまで描くことができることを示したマイルストーンだ。女王の戴冠式が、木造のゴシック空間になっているのは、ちゃんと北方的な建築のテイストである。そしてエルサがつくる氷の城は、表現主義のタウトやシェーアバルトらが構想したクリスタルのユートピアに通じるだろう。美術表現も楽しめる映画だった。今回、いつも期待を裏切らないディズニーの短編は、『ミッキーのミニー救出大作戦』だが、画面を飛び出し、3Dでカラーになったミッキーよりも、2Dのまま白黒で動くミッキーの方が魅力的なキャラに見えるのは興味深い。もっとも、日本のアニメのように目が大きいアナやエルサは、3Dでもキャラに感情移入させている。
2014/05/01(木)(五十嵐太郎)