2020年07月01日号
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artscapeレビュー

生西康典『おかえりなさい、うた』

2014年01月15日号

会期:2013/11/30~2013/12/04

UPLINK[東京都]

「音の映画」という言葉が作品タイトルの脇に添えられている。それで勘ぐって「ああ、画面に何も映らないで音だけ流れるってことね」と早合点してしまったら、大変なことになった。ぼくだったら代わりにこの映画を「映画館の映画」と形容するだろう。あれでも、それじゃあ、あたり前か。ならば「映画館的闇の映画」ではどうか。「音の映画」というけど、たんに音だけならばCDを聴けばいいし、上演するならば、明るいところで(日中の野外でも)スピーカーがあればそれでいい。でも、この作品はそんな単純な「音」の映画ではない。上演は必ず映画館がなければならない。いや、正確には、映画館の「闇」こそが、この映画にとって、必要不可欠のパートナーなのである。声でカウントダウンが始まる。その後、映画館はいつものように闇になる。だが普通ならば、闇になった直後に映写機が稼働し、スクリーンに光が当たり、観客の視覚能力も稼働を始めるものだ。それが、この作品では光が最後まで与えられない。音は聞こえてくる。ときに、演奏だったり、誰かのインタビューだったり、お話だったり、宇宙に関する詩的な言葉だったりが、耳に入ってくる。もちろん、その音たちを構成した生西康典の、音に体するデリケートな探査能力や選択能力にもワクワクさせられるのだけれど、それは夜の闇に浮かんでいる星々のようなもので、この作品を彩っているものには違いないが、しかし、この作品のもっている甚だしさの一部に過ぎない。音たちに囲まれながら、何度も目をぱちくりしてみた。もちろん、なにも見えない。この「見えない」状態が長く続くとどうなるか。ぼくは対象を求めた。ぼくの感覚は対象を求めて反り返る。その結果ぼくは「対象を求める自分」を感じるところへと至った。自分の身体を感じる、その呼吸とか、見えない目の動きとか、音に遭遇され続ける耳の感じとか。それはほぼ同じことなのだが、闇を感じることでもある。闇が膨らんでそれ自体が実体を持つような感じになって、自分を囲む。この感じは、ただ目が見えないという事態が生じるだけで起きることであるならば、自分のすぐ近くにいた隣人のはずだ。しかし、その隣人をぼくはほとんど知らずにいた。そんなことに心底驚く。映画館という人工的に闇を出現させる場の本領が映画(映像=光)がないことで立ち上がってきた。ちょうどこの数日前に、ぼくは水戸芸術館で行なわれた視覚障害者と展覧会を見るイベントに参加したばかりだった(「ダレンアーモンド──追考」関連イベントで、タイトルは「視覚に障害がある人との鑑賞ツアー『セッション!』」)。視覚障害者も、触覚的な要素なしでも展示を楽しむことができる。彼らは、見えるひとと一緒に展示室に入り、見えるひとから作品の説明をしてもらったり、作品に抱いた感想を聞くことで、鑑賞を行なう。見えるひとの多くが孤独な作業だと思っているのとは異なり、彼らにとって鑑賞は社交し、おしゃべりを交わすことなのだ。視覚障害者がこの作品を鑑賞すると、どう感じるのだろうと思った。あるいはぼくらはどんな言葉を交わすのだろうと想像した。この作品の真骨頂が「闇」の体験になるのだとして、闇との付き合いが長い「玄人」な彼らは、この作品にどんな感想を持つのか知りたいと思った。そんな未知の隣人に気づくことが、この作品の唯一無二な力なのだ。生西の映像作品には、ほかにも『演劇』『ダンス』と呼ばれるものがあり、今回ぼくは『ダンス』(「星の行方 Where Did the Stars Go…」「既に光は 暗い土のなかに」の二作の舞台公演を映像化したもの)も見た。とくに「星の行方」の映像と踊る生身とのコラボレーションには、新鮮な感触が強くあって、「映像」と「身体」の関係可能性について深く考えさせられるところがあった。

2013/12/04(水)(木村覚)

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