2020年07月01日号
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artscapeレビュー

マームとジプシー『モモノパノラマ』

2014年01月15日号

会期:2013/11/21~2013/12/01

神奈川芸術劇場[神奈川県]

今月のレビューで取り上げたQ『いのちのちQ II』を見た直後、横浜に移動して観劇したのが本作。同日に見たのはたまたまなのだが、両者には強い相関性があって、ひとつはどちらにおいても主役級の活躍をしている俳優・吉田聡子のこと。Qの2月公演『いのちのちQ』では重要な役を演じていた吉田は、上演日程が重なっている今回、Qではなくマームとジプシーの作品に登場していた。小さくて、被虐的で、凛としてもいる、今日の演劇を代表する顔のひとつだとぼくは思っているけれど、そのことは同時に、二つの劇団の今日性を映し出してもいる気がする。もうひとつは、どの作品も「ペット」をテーマにしていること。しかし異なるのは、Qがペットたちを主人公にしていたのに対して、マームとジプシーで舞台に現われるのは飼い主の人間たちであることだ。この違いは両者の作品性に決定的な違いを生んでいた(とはいえ、こんな風に両者を比較するなんて誰も思いつかないだろうし、ぼくの場合、たまたま同じ日に見たことで、両者の相関性に言及せざるを得なくなったというのが正直なところだ)。作・演出の藤田貴大は、今作に限らず、「ロス」に直面したときの「やりきれなさ」「悲しみ」へと観客を引きずり込もうとする作家だが、今作はそれが徹底していた。「モモ」と名づけた生後6カ月のネコがいなくなった。どこでどうしているのか。迷いネコを案じるのはこれまた社会において弱々しい存在の女の子たち(小学生? 中学生?)。男性俳優たちは木製のフレームを大小の形に組み合わせて、そうしてできた構造体をつくっては壊し、女の子たちは不安やいらだちや悲しみを抱きつつ、家や扉に見える構造体のなかで周りで躍動した。そう、その様はダンスと呼びたくなるほど躍動的だ。前半はそれでもゆるゆるとした体の運びも目立ったが、後半になると様子は一変、大縄跳びを行なったり、男性陣は1列になって前転を繰り返すなど、物語とは直接関係ない、けれども俳優たちの身体性に直接の変化を与える激しい運動が舞台を覆った。それにともない、物語の焦点が「死」に集中しはじめた。「モモ」の陰で川に流されていた5匹の兄弟たち、また友人の自殺、恋人の死と、立て続けに描かれる「ロス」の場面。正直、観客が登場人物に感情を移す十分な準備なしに、「悲しい」瞬間が訪れてしまうので、音楽があおり、役者の丁寧な演技がさらにいっそう「悲しみ」をあおるのだけれど、それが狙うほどには感情がかき立てられない。それともうひとつは、ペット(モモ)への思いは、飼い主のある意味一方的なものであって、Qが描くようなペット側の思いにひとが心を傾けた途端に相対化されてしまうところがある。その相対化を避けることでしか、この「悲しみ」は絶対化されないのかもしれず、ペットという他者の実存を見ないことによってしか、藤田の狙う感動は観客に訪れないのかも知れない。だからダメなのだと批判するのは簡単なので、この絶対的な「悲しみ」を描く必然的条件を考えてみるべきかも知れないと思う。前作の『cocoon』で描いた第二次世界大戦も、今作のペットという主題も、ぼくにとっては相対化できる悲しみだった。ぼくらにとって絶対的なのは、身体とともに生き死ぬことだ。この生と死の場である身体が、今作では物語とは切り離されて躍動していたが、物語と身体とが離れがたく絡まることがあれば、そこで表象される「悲しみ」は絶対的な質を帯びるのかも知れない。

2013/11/30(土)(木村覚)

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