2022年12月01日号
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artscapeレビュー

2011年07月01日号のレビュー/プレビュー

宮崎学 となりのツキノワグマ

会期:2011/05/25~2011/06/07

銀座ニコンサロン[東京都]

定点観測によってツキノワグマの生態をとらえた写真展。山道の傍らに設置したカメラは、その道をゆく登山客や犬、猫、そして数多くの熊を映し出したが、ツキノワグマの生態が人間のそれと近しいことに驚きを禁じえない。それは動物を擬人化して撮影する写真家の作為にもとづくというより、むしろツキノワグマと人間の行動原理が根本的にはどこかで通底していることに由来しているように思われる。カメラを収めた木箱を覗きこむ熊の顔は、好奇心にかられるあまりドッキリカメラに易々とひっかかる私たち自身と重なって見えた。私たちが思っている以上に、じつは「立つ」ことができる哺乳類が少なくないように、人間と動物の境界はそれほど明確ではないのかもしれない。

2011/05/26(木)(福住廉)

石川雷太 展 ノイズ・テロル・サブリミナル

会期:2011/05/20~2011/05/30

parabolica-bis[パラボリカ・ビス][東京都]

少なくとも東日本の人間にとって、いまもっとも注目している数字が放射線の線量であることは間違いない。「シーベルト」という単位はすっかり社会に定着してしまった。石川雷太は、いくつかの放射性鉱石を並べ、ガイガーカウンターでそれらの線量を計測させる作品などを展示した。暗闇の中で鈍く輝く鉱石そのものは美しいが、ガイガーカウンターを近づけると計測針がゆるやかに振れ動き、目に見えない放射線の存在を目の当たりにさせられる。試しに自分の身体に向けてみても針はわずかに振れたから、東京に暮らす者であっても、多かれ少なかれ放射線を浴びているということなのだろう。容易には知覚しがたい放射線を知覚させるだけであれば、ガイガーカウンターというテクノロジーで十分事足りる。けれども、それが紛れもなく「自然」の一部であり、しかも「美」の背後に潜んでいることを知覚するにはアートという技術を動員するほかない。得体の知れない「アートの力」を社会にむけて無闇に喧伝するのではなく、あくまでも美学の内側から現実を突き抜けようとする石川雷太の作品は、現代アートの正統である。

2011/05/26(木)(福住廉)

佐藤晃一ポスター

会期:2011/05/09~2011/05/31

ギンザ・グラフィック・ギャラリー[東京都]

グラフィック・デザイナーの佐藤晃一のポスターを紹介する展覧会。ふたつのフロアは青いグラデーションで包まれ、壁には代表的なポスター約100点、中央に置かれた台にはポスターのための印刷指定原稿が並べられている。トレーシングペーパーに書き込まれた指示の数々に「印刷のメカニズムを最大限に引き出した鮮明な色彩とグラデーションを駆使したポスター作品(展覧会サイトの解説より引用)」が生まれたプロセスを、完成作品とともにみることができる仕掛けだ。
佐藤晃一の作品は「超東洋的」と評されるという。ここで「超」がどのような意味で用いられているのか私は知らないのだが、作品を見て感じたのは、日本的、あるいは錦絵的ということである。作品とともに展示されていた指定原稿からは、錦絵同様、技術を知り、技術を使いこなし、それを独自の表現様式に高めてゆくありようを感じる。もうひとつの特徴は光の表現である。佐藤の表現には光がある。光とはいっても、光源の存在を感じさせる光ではない。たとえば夜が明ける直前、あるいは陽が沈んだ直後の、空全体に拡がるほのかな明るさとグラデーションであり、モノ自体から滲み出るアウラでもある。そして、光はあるが、影はない。光によってあらわになるのは、モノの立体的な形ではなく、輪郭である。西洋的な光と影の関係ではないのだ(もっとも、近年の作品はこれらの表現からずいぶんと離れてきている)。
興味深かったのは、同じ草月のための作品であっても、全紙のポスターに比べてB3判──おそらく電車の中吊りか、百貨店のエスカレーター脇に掲出されるもの──のもののほうが、テキストによる情報量がずっと多いこと。ポスターがはたすべき役割についての佐藤の考えかたがこの対比に現われているように思う。[新川徳彦]

2011/05/26(木)(SYNK)

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浅倉伸 Maniacushionoid

会期:2011/05/07~2011/05/29

湘南くじら館スペースkujira[神奈川県]

岩手県在住で、今年の「VOCA2011」展に出品した浅倉伸の個展。色とりどりのフェルトに黒いサインペンだけで細かい模様を描き込むシリーズを発表した。その絵は内臓的というかゴシック的というか、いずれにせよ鬼気迫る迫力を伴っているが、内部に詰め物をしてクッションのように膨らませているせいか、ゆるやかに湾曲した表面がある種の触覚性や肉体性を強く醸し出している。たとえていえば、女性の丸みを帯びた臀部に彫りこまれたタトゥーに近いのかもしれない。けれども、浅倉の絵がおもしろいのは、そうしたエロティシズムに加えて、それが表面に描かれているにもかかわらず、その裏面を連想させるからだ。肉体のフォルムを再現しながらも、その内部を透視させるといってもいい。身体的で触覚的な表面に内臓的なイメージが現われているという二重性が見る者の視覚に訴えかけてくるのだ。そのようにしてイメージが重なり合いながら広がっていく経験こそ、絵画の魅力ではなかったか。

2011/05/29(日)(福住廉)

新incubation3「On a Knife Edge──二つの向こう岸」展

会期:2011/05/31~2011/07/10

京都芸術センター[京都府]

活躍中のベテラン作家と新進気鋭の若手の個展を同時開催する企画展。3回目の今回は、松井智惠とHyon Gyonの競演だ。松井は、近年制作し続けている映像シリーズ《HEIDI(ハイジ)》の新作と近作3点及びドローイング5点を、会場内の3カ所で展示。Hyon Gyonは、母国の韓国に根差した巫女信仰の儀礼をモチーフとする絵画や映像作品を発表した。どちらの作品も、極度にストレスがかかった状態の人間や精神を表現しており、合理的な理解の外側にある世界を描いている。極めて女性的な表現と言ったらお叱りを受けるかもしれないが、おそらく男性作家からこのような作品が生まれることはないだろう。

2011/05/31(火)(小吹隆文)

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2011年07月01日号の
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