artscapeレビュー
2019年03月01日号のレビュー/プレビュー
アイムヒア プロジェクト写真集出版記念展覧会 “まなざしについて”
会期:2019/02/16~2019/02/24
高架下スタジオ・サイトAギャラリー[神奈川県]
ギャラリーの入口には、無惨に破壊された石膏ボードの扉の残骸が残っている。オープニングのパフォーマンスとして扉を壊して入ったらしい。会場内も、壁の手前にもう1枚壁を設け、目より低い位置にギザギザの亀裂をつくり、そこから内部の壁面に飾られたモノクロ写真を見る仕掛け。昨年R16(国道16号線スタジオ)のオープンスタジオでは、立方体の箱をつくって内部の壁に写真を展示したが、その構造を反転させたかたちだ。写真はネットで募集したもので、ひきこもりの人たちが自分の部屋を撮影した自撮り写真。ゴミ屋敷のように乱雑きわまりない部屋から、本がきちんと積み上げられた部屋、人の気配もない部屋まで数十枚ある。ひと口にひきこもりといっても一人ひとり事情が異なるらしく、それが部屋に表れているのかもしれない。
作者の渡辺篤は自身も3年ほど部屋にひきこもった経験があることから、ひきこもりに関する作品を制作するようになった。入口を突き破って入ったり、壁に痛々しい切れ目を入れたのは、ひきこもり生活を無理矢理こじ開けてのぞき見ようとする残酷な眼差しと、社会に無理矢理連れ出そうとする大きなお世話の暴力性を表現しているようだ。思い出したのは、ベルリンにあるダニエル・リベスキンド設計のユダヤ博物館。実物は見たことないけど、建物本体がジグザグに折れ曲がり、ところどころに切れ目の入った「傷だらけ」の建築で、傷の大きさは比ぶべくもないが、痛みの表現としては通底するものがある。
公式サイト:https://www.iamhere-project.org/photobook-exhibiton/
2019/02/19(火)(村田真)
国立西洋美術館開館60周年記念 ル・コルビュジエ 絵画から建築へ—ピュリスムの時代
会期:2019/02/19~2019/05/19
国立西洋美術館[東京都]
美術館に入りいつもの調子で地下に向かうと、通常とは違い、オリジナル側の空間が企画展の会場になっている。言うまでもなく、今回はル・コルビュジエの展覧会ゆえに、彼の建築をダイレクトに感じられる場所を使っているのだ。導入部となる吹き抜けの下の空間は、30年前のル・コルビュジエ展の際、いくつかの大学の研究室が制作した模型を主に活用し、主要な建築作品を紹介していた(このエリアは撮影可能)。3Dプリンタで制作された都市計画の新しい模型もあったが、現状では小さい単位には使えても、大きいヴォリュームはまだ昔ながらの模型のほうが空間を表現しやすいように思われた。ちなみに、古い模型群は広島市現代美術館で保管していたものだが、意外に劣化してないことに驚かされた。
さて、本展の主眼となるのは、建築ではなく絵画である。ゆえに、ル・コルビュジエという名前を使うようになる前の、本名ジャンヌレとして活動していた時代がクローズ・アップされていた。すなわち、最初はキュビスムに喧嘩をふっかけ、1918年に画家のオザンファンとともにピュリスムを立ちあげた。ところが、やっぱりキュビスムはすごいと認識を改め、むしろその影響を受けた後期ピュリスムのパートでは、重ね合わせの表現が出現した背景を紹介している。最後のパートは、ピュリスムの活動が終焉し、建築家としての仕事が忙しくなるなかで、私的に制作された自由な作風の絵画もとりあげている。興味深いのは、後期ピュリスムにおける重ね合わせが、《サヴォア邸》などの建築空間にも認められることを本展が示唆している点だ。もっとも、これはキャプションの文章で指摘されているのみで、もう少し突っ込んだ建築の分析がほしい。コーリン・ロウの透明性の議論でも重ね合わせについては指摘されていたが、せめて本展にあわせて、図解、もしくはレイヤーをわかりやすく表現するような分析模型を新規に制作するといったひと工夫があれば、「絵画から建築へ」というサブタイトルの期待に応えられたのではないか。
2019/02/19(火)(五十嵐太郎)
真鍋奈央「波を綴る」
会期:2019/02/22~2019/04/07
入江泰吉記念奈良市写真美術館[奈良県]
入江泰吉記念奈良市写真美術館では、隔年で入江泰吉記念写真賞の公募を行なっている。前回の第2回公募からは、同賞の受賞者の展覧会を開催するとともに写真集を制作するようになった。今回の第3回公募で受賞したのは、真鍋奈央の「波を綴る」である。
1987年、徳島県生まれの真鍋は、高校の時にハワイに留学したのをきっかけとして、そこで出会った人たちや風景を撮影し始めた。帰国後にビジュアルアーツ専門学校大阪の写真学科で学ぶが、ハワイの写真はずっと撮り続けていた。今回の受賞作品は、それらをモロカイ島、オアフ島、ハワイ島、マウイ島の4つの島ごとに再構成したものである。ハワイの光と風を全身で受け止め、6×4.5判のカメラで定着した写真群は、彼女の主観的な解釈を押し付けるのではなく、被写体に寄り添うように注意深く撮影されている。とはいえ、一枚一枚の写真に畳み込まれた経験の厚みと蓄積は、しっかりと伝わってくる。出来合いのストーリーに寄りかかることなく、彼女自身の目と心の遍歴が綴られていくのだ。
特筆すべきは、写真展と同時に刊行された写真集『波を綴る』(入江泰吉記念写真賞実行委員会)の出来栄えである。白を基調にした松本久木のデザインは、ハワイというやや特異な場所に漂う、生と死が綴れ織りのように絡み合う気配を見事に浮かび上がらせる。4つの島の写真群をそれぞれミシン綴じの写真集にまとめ、それらをさらに貼り合わせて一冊にすることで、真鍋の意図を受け止めながら、それをさらに増幅して普遍的な視覚的経験として提示することに成功していた。
2019/02/22(金)(飯沢耕太郎)
META─日本画のワイルドカード─
会期:2019/02/20~2019/03/03
神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]
タイトルからして「日本画」を超えるとんでもない作品が並ぶのかと思ったら、そのとおりだった。出品作家は計11人で、どういうつながりかは知らないが、いずれも「日本画を踏襲したアーティストたち」のグループだそうだ。
第1展示室の吉田有紀は、五角形や六角形のパネルにラッカーやアクリル絵具で抽象形態を描いたり、表面に水玉を描いた縦長パネルを何十枚も並べて円筒形の小部屋をつくり、内部に入れるようにしたインスタレーションを出品。これのどこが日本画だ? 第2展示室の梶岡俊幸は、壁を突き抜けるように黒い巨大なパネルを斜めに展示している。まるでリチャード・セラ。よく見ると表面には水流のような模様が印されている。第4展示室の吉澤舞子の《Numb》は、図柄こそグループのなかではフツーだが、パネルを15枚つなげた全長15メートルのサイズはフツーじゃない。だいたいこの人たち、巨大な作品を好むようで、吉田の円筒形の作品《カオスとコスモス》も延ばせば11メートル以上あるし、梶岡の2室にまたがる《never》もつなげれば11メートル近い。作品が巨大だから県民ギャラリーを選んだのか、会場が広いから作品を巨大化させたのか……。
フィジカルな話ばかりで恐縮だが、第5展示室の木島孝文の《A.R.#995“Veronica” ヤギの王、蛇と鳥》もすごい。全長こそ吉澤に4メートルほどおよばないものの、表面にセメント、タイル、漆喰、鉄、砂などを塗り込めていて、総重量では間違いなく一番だろう。いずれにせよ搬入・搬出が大変だろうな、その後どこに保管するんだろうと余計な心配までしてしまう。その点、市川裕司の《Japanese Tree Ⅲ》は比較的楽そうだ。ビニールの球体の表面にアルミ箔などを貼って内部から照明を当てたもので、いかにも軽そうだ。会期が終われば空気を抜くのだろうか。
やっぱりこれでもまだ「日本画」を主張するのだろうか。
2019/02/22(金) (村田真)
DANCE PJ REVO『STUMP PUMP』
会期:2019/02/23~2019/02/24
ArtTheater dB KOBE[兵庫県]
NPO法人DANCE BOXが今年度より新たに開始した「アソシエイト・アーティスト/カンパニー制度」。ダンサーやカンパニーと3年間にわたって協働し、作品づくりを継続的にサポートする事業である。アソシエイト・カンパニー枠では公募を行ない、田村興一郎が主宰するDANCE PJ REVOが選出された。
客入れの段階で既に、男女7名のダンサーが行き交いながら個々の身振りを立ち上げようとしている。動きの萌芽を探ろうとするような、身体をほぐそうとするような、何かを地面から持ち上げるような身振りが、雑踏のざわめきのように現われては消えていく。ノコギリで木を切るようなノイズと、黒ずくめの服装に黒手袋といういで立ちが、肉体労働の現場のような印象を与える。
前半は、ノコギリの音とトラックの走行音が響き続けるなか、彼らは淡々と、「何かを持ち上げる」「運ぶ」「上へ上へと積み上げる」という動作に従事し続ける。だが彼らのいる世界は秩序の建設と同時に崩壊の力に支配されており、作業を遂行中の彼らは突然空気を抜かれた風船のように、力なく床に倒れこむ。横たわった身体に、別の仲間が手を差し伸べると、見えない磁力に引っ張られるように、手が直接触れることなく、倒れた身体が起き上がる。あるいは、倒れた身体は、丸太を転がすように、足の裏でゴロゴロと転がして運ばれていく。モノに働きかける身体と、モノのように扱われる身体。機械的な作業にただ従事し続ける自動化された身体と、物体に還元された身体。その両極を行き来し続けるダンサーたちは、全員がユニフォーム的に統一された衣装を着用していることも相まって、男女の性差を消去され、個性を剥奪された匿名的な身体の様相を帯びてくる。
作業に従事するロボット化した身体と、モノ化した身体との両極が際立つのが、中盤だ。バックヤードの扉が開けられ、段ボール箱が続々と舞台上に運び込まれていく。林立するビル群のように、あるいは視界を塞ぐ壁のように、積み上げては次々と組み換えられていく段ボール箱。電池の切れた機械のようにフリーズしたダンサーの頭上にも、段ボール箱は容赦なく積み上げられていく。危ういバランスで積まれた段ボールのタワーが崩れると、呼応するかのようにダンサーの身体も倒れ込む。あるいは、自ら段ボール箱を頭にかぶり、倒れ込んで機能を停止させる者も現われる。スピードの加速がリズムを生み、交通と運動のベクトルが錯綜するほどに、無機的な「作業」が「ダンス」へと接近していく。その様相を眺める楽しさとともに、ここには、巨大な機構の一部と化した身体/建設と(自己)崩壊を繰り返すタワーや壁/耐えきれず自ら機能停止する身体、といった現代社会批判のメタファーも読み込める。
ただ、後半はやや失速した感があった。通常は照明や音響など裏方の作業ブースを「舞台の一部」として用い、螺旋階段の柱を数人で儀式のように叩く、赤い天狗のお面をかぶった者が現われるといったシーンが展開されたが、アイデアの提示段階に留まり、作品全体との有機的な結びつきや説得力が弱いように感じられた。当日パンフレットによれば、新作のリサーチのため、昨年夏の台風災害の被害を受けた京都北部の鞍馬に行き、倒木が線路や民家に倒れた被害状況や撤収・伐木作業を目の当たりにしたという。天狗のお面は「鞍馬」からの発想だろう。
また田村は、「当事者ではないという倫理的な葛藤を抱えつつ、社会問題と結びついたダンス作品を作りたい」「倒れても何度でも立ち上がる、前向きな思い」について当日パンフに書いている。「倒れても何度でも立ち上がる」、それを肉体への負荷として提示した作品として、例えば、昨年11月に上演されたMuDA『立ち上がり続けること』が想起される。私見では、MuDAの場合、「身体的な負荷によって逆説的に輝き出す身体」とか、「倒れても倒れても立ち上がり続ける生命の力強さ」といった物語をあえて排除することで、「身体」が、スポーツ観戦や災害復興に顕著な(資本や国家、共同体の)物語へと回収され、搾取されることに対して「抵抗」を示していた。物語性を排除するか、社会的意味を積極的に付与しようとするか、どちらの態度が良い/悪いというのではない。ただ田村作品の場合、「コンセプト」として書かれた文章(の「正しさ」)と実際の作品から受ける印象との齟齬や、説明がなくても感取される段階にまで身体が追いついているか? という疑問が残った。「アソシエイト・カンパニー制度」はあと2年続く。次回、同じ劇場でより進化した姿を見たい。
関連レビュー
MuDA『立ち上がり続けること』|高嶋慈:artscapeレビュー
2019/02/23(土)(高嶋慈)