2021年04月15日号
次回5月17日更新予定

artscapeレビュー

2021年04月01日号のレビュー/プレビュー

ミヒャエル・ボレマンス マーク・マンダース|ダブル・サイレンス

会期:2020/09/19~2021/02/28

金沢21世紀美術館[石川県]

緊急事態宣言で諦めかけていたが、やっぱり誘惑には勝てなかった。なにしろボレマンスとマンダースというヤバイ顔合わせだからな。しかも2つの個展ではなく、2人でひとつの展覧会をつくっているのだから見ないわけにはいかない。2人ともベルギー在住だが、ベルギーは美術史において特異な位置を占めている。イタリアのルネサンスに対する北方ルネサンスの中心だし、19世紀の印象派に対する象徴主義、20世紀の抽象に対するシュルレアリスムなど、ある意味「裏街道」を歩んだ画家を多く輩出している地だ。そういえば数年前、「ベルギー奇想の系譜」という展覧会も開かれたっけ。ファン・エイク以来、ベルギー美術に通底するのは、不穏なまでの具象性ではないか。特にこの2人は絵画と彫刻の違いはあれど、主に人物をモチーフにしている点、人体の一部が分断されたり異物が挿入されたりしている点に共通項を見出せる。

展示は、マンダースだけの部屋もあればボレマンスだけの部屋もあり、両者が混在した部屋もあるが、実にうまく調和しているように見える。パッと見、マンダースの彫刻のほうがサイズがでかくて嵩ばり、しかも半透明の膜で展示室を仕切ったインスタレーションもあるので、目立っていそうなもんだが、でもなぜか小品の多いボレマンスの絵画のほうが、重厚で存在感があるように感じられないだろうか。そこで思い出したのが、レオナルドとミケランジェロのあいだで交わされたといわれる「絵画・彫刻論争(パラゴーネ)」だ。実際のやりとりはさておき、おおむね、絵画は平面なのに立体感を表わせるし、背景や雰囲気まで描くことができる(だから絵画のほうが優れている)のに対し、絵画は立体感を暗示するだけだが、彫刻は立体そのものを現実につくり出すことができる(だから彫刻のほうが優れている)といった論争だ。

時代を感じさせる議論ではあるけれど、この2人に当てはめてみるとおもしろい。ボレマンスの絵画は大半が人物画で、しかも上半身しかなかったり顔になにかを被せられていたりして、背景はほとんど描かれていない。つまり物体のみを描いている、という意味で彫刻的といえる。一方、マンダースの人物像も分断されたり部分的だったりするが、無表情で動きに乏しく、ボレマンス以上に現実感が希薄だ。しかも半透明の膜を使って空気感まで出そうとしている。決定的なのは、素材を粘土や木などに見せかけて実はブロンズ製という、目を裏切るような錯覚を仕掛けていること。これって絵画的といえないか? 絵画的な彫刻と、彫刻的な絵画。両者の組み合わせが絶妙に感じられるとすれば、それぞれが領域侵犯し合っているからではないだろうか。

2021/02/25(木)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00054296.json s 10167885

村上慧 移住を生活する

会期:2020/10/17~2021/03/07

金沢21世紀美術館[石川県]

美術館の奥まった通路の壁に貼られた地図に導かれて展示室に入ると、屏風状のボードが林立し、さまざまな建物のスケッチや日記風のメモ、写真、映像などが展示されている。村上は東日本大震災をきっかけに、手づくりした発泡スチロール製の「家」を担いで国内外を巡り歩く「移住を生活する」というプロジェクトを続けてきた。その歩いたルート、泊めてもらった建物のスケッチ、出会った人たちの写真、日々の出来事をつづった日記などを公開しているのだ。

三角屋根の発泡スチロール製の「家」はいかにも日本家屋風に仕立てられ、見ようによっては籠か、宮型霊柩車のようでもある(サイズ的には横になって寝るだけなので棺桶を連想させる)。そんな「家」を担いで歩く姿はちょっとイカれた兄ちゃんで、すれ違う人はどう反応したらいいのか戸惑う様子が映像からうかがえる。いやそんなことより、このプロジェクトで興味深いのは、本来不動産である家を動かすこと、それによって家にまつわるさまざまなしがらみをあぶり出し、「家」とはなにか、「住む」とはどういうことかをわれわれに突きつけてくることだ。たとえば、夜はさすがに路上泊は危ないので、地元の人に頼み込んで建物内に泊まらせてもらう。「家」があるのに土地を借りる交渉をしなければならず、成立すれば「家」が家に泊まることになる。すると村上は、定住者であると同時に移住者になり、また二重の「家」に守られたホームレスということになる。そんなジレンマに満ちた境界線上を綱渡り的に歩き続けること自体が、現代の管理社会に対する優れた批評にもなっている。

2021/02/25(木)(村田真)

The power of things

KAMU Kanazawa[石川県]

昨年、コレクターの林堅太郎氏が金沢市内に開設した私設の現代美術館「KAMU Kanazawa」。会場は、金沢21世紀美術館近くの3階建ビルを改造した「KAMU Center」をはじめ、竪町の商店街の細長いスペースを利用した「KAMU Black Black」、片町の屋台村の店内を丸ごとアートスペースにした「KAMU L」、香林坊の商業ビルの屋上を使った「KAMU sky」の4カ所で、いずれも徒歩10分以内で行ける距離。「KAMU Center」でチケットを購入し、地図を見ながら4カ所を巡り歩く都市回遊型のミュージアムだ(この日は悪天候のため「KAMU sky」はお休み)。

「KAMU Center」は3フロアに分かれ、1階がレアンドロ・エルリッヒのインスタレーション、2階がステファニー・クエールの動物彫刻、3階が桑田拓郎の陶磁器の展示。圧巻はレアンドロのインスタレーション《INFINITE STAIRCASE》で、部屋に入ると中央が吹き抜けの階段室が横倒しになっている。吹き抜けをのぞき込むと、両サイドにしつらえた鏡によって階段が永遠に続いているように見える。垂直を水平に転倒させ、イメージを増殖させる二重の仕掛け。トリックアートといえばそれまでだが、よくできているので大人でも楽しめる。21世紀美術館の《スイミング・プール》ともども観光名所になりそうだ。



レアンドロ・エルリッヒ《INFINITE STAIRCASE》[筆者撮影]


商店街の一角に位置する「KAMU Black Black」は、間口は狭いが奥行きの長い町屋のスペースを丸ごと黒川良一の光と音のインスタレーションの場にしたもの。入ると暗闇のなか長辺方向にレーザー光が飛び交っているので引きがない。しかも2階吹き抜けで鏡も使われているうえ、名称どおり壁も黒いため、鑑賞するというより作品のなかに取り込まれる、あるいは吸い込まれるという印象だ。



黒川良一《Lithi》[筆者撮影]


飲み屋の内部を改装した「KAMU L」は、ドアを開けるとアッと驚く。壁から天井、テーブル、エアコンまですべて森山大道撮影の真っ赤な唇の写真で覆われているのだ。題して《Lip Bar》。1960年代のいわゆるサイケ調ってやつ。夜はこのまま営業するそうだが、悪酔しそうな気がしないでもない。



森山大道《Lip Bar》[筆者撮影]


大規模な美術館が展示しきれないコレクションを公開するために分館を設ける例はよくあるが、KAMUは初めから1カ所にコレクションを集約させるのではなく、分散型の美術館として構想されたようだ。会場を巡り歩くのは面倒だけど、商店街や飲み屋などそれぞれ特徴ある環境と空間でサイトスペシフィックな作品を鑑賞することができるし、街歩きが好きな人にとってはむしろ喜ばしいこと。街をアートで活性化させようという近年の芸術祭の美術館版といえるかもしれない。もっといえば、1つの空間に1作品だけをパーマネントに展示するというアイディアは、美術館という枠組みを突き崩す可能性を秘めている。規模の点では比ぶべくもないが、かつてニューヨーク市内のいくつかのビルのフロアを借りて、ウォルター・デ・マリアらのインスタレーションを常設展示していたディア芸術財団を思い出す。これはだれでもどこでもできる事業ではないけれど、できれば市街地の空きスペースにどんどん増殖していってほしい。

2021/02/26(金)(村田真)

「写真の都」物語 —名古屋写真運動史:1911-1972—

会期:2021/02/6~2021/03/28

名古屋市美術館[愛知県]

「『写真の都』物語」という展覧会のタイトルは、大正~昭和初期に、ゴム印画法による繊細で優美な風景写真で知られた日高長太郎の「そして共に倶に進んで写真の都!!名古屋たらしめたい」という言葉に由来するという。今回の展示を見ると、愛友写真倶楽部の中心メンバーで、名古屋における「芸術写真」の草分けの一人でもあった日高の願いが、その後に多くの写真家たちによって受け継がれ、発展させられていったことがよくわかる。

本展は「写真芸術のはじめ―日高長太郎と〈愛友写真倶楽部〉」「モダン都市の位相―「新興写真」の台頭と実験」「シュルレアリスムかアブストラクトか―「前衛写真」の興隆と分裂」「“客観と主観の交錯”―戦後のリアリズムと主観主義写真の対抗」「東松照明の登場―リアリズムを超えて」「〈中部学生写真連盟〉―集団と個人、写真を巡る青春の模索」の6部構成で、雑誌等の複写や資料展示を含めて、まさに「名古屋の写真運動史」の総ざらいというべき内容だった。これまで名古屋市美術館では、学芸員の竹葉丈の企画で、愛友写真倶楽部、坂田稔、山本悍右らの前衛写真、東松照明などの写真展が開催されてきたが、今回はその集大成と言ってよいだろう。どうしても東京や大阪、神戸などの関西エリアの写真家たちの活動の間に埋もれがちな「名古屋の写真運動」の厚みと質の高さに、あらためて瞠目させられた。

個人的に特に興味深かったのは、最後のパートの「〈中部学生写真連盟〉―集団と個人、写真を巡る青春の模索」である。大学や高校の写真部の学生たちが組織した全日本学生写真連盟は、1965年から写真評論家の福島辰夫の指導の下に、共通のテーマで写真を撮影していく「集団撮影行動」を基軸とした政治性の強い写真表現を模索し始める。それに応える形で、全日本学生写真連盟の支部、中部学生写真連盟に属する大学、および高校の写真サークルの学生たちも、「集団撮影行動」を推し進めていった。今回の展覧会には、名古屋電気高等学校写真部の石原輝雄や杉浦幼治らによる写真集『大須』(1969)、名古屋女子大学写真部のメンバーによる「郡上」(1968~70)などのプリントが展示されていた。全日本学生写真連盟による「集団撮影行動」の成果、『10・21とは何か』(1969)、『ヒロシマ・広島・hírou-ʃímə』(1972)なども含めて、揺れ動く政治状況を背景にしたこの時期の学生たちの「写真を巡る青春の模索」は、注目すべき内容を含んでいる。写真集の復刻や新たな資料の掘り起こしを含めた展覧会を企画するべきではないだろうか。

2021/02/28(日)(飯沢耕太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00055685.json s 10167908

川口翼「THE NEGATIVE〜ネ我より月面〜」

会期:2021/02/23~2021/02/28

TOTEM POLE PHOTO GALLERY[東京都]

毎年この時期になると、各写真学校、大学の写真学科の学生たちの卒業制作の審査、講評の日程が組まれる。本年度は新型コロナウイルス感染症の拡大で、学生たちも大きな影響を受けた。自宅待機を余儀なくされ、対面授業がまったくできない時期もあったはずだ。だが、どうやらそのことがポジティブに働いたのではないだろうか。写真についてもう一度きちんと考え、自分のやるべきことを見直すことができたからだ。そのためか、各学校の卒業制作にはかなりレベルの高い作品が目立った。コロナ禍の緊張感が、逆にプラスになったということだろう。

先日おこなわれた東京ビジュアルアーツ写真学科の卒業制作の審査でも、テンションの高いいい作品が多かったのだが、その中でも特に目を引き、最終的に最も点数の高い作品に与えられるグランプリを受賞したのが川口翼である。トランクに20冊余りの手作りのZineを詰め込んだ「どうしやうもない私が歩いている」、スクラップ帖にトランプ大の小さな写真をびっしりと貼り込み、イラストや言葉で余白を埋め尽くした「SCRAP!」など、まずはその意欲の高さと旺盛な生産力に驚かされた。その川口は、ちょうど同校の講師でもある有元伸也が主宰するTOTEM POLE PHOTO GALLERYで初個展を開催していた。既に会期は終わっていたのだが、特別に開けてもらって展示を見ることができた。

出品作の「THE NEGATIVE〜ネ我より月面〜」は、プリントした写真の明暗、色相を反転させて、ネガの状態にして壁に貼り巡らしたシリーズである。体の一部、風景、ほとんど抽象化されたモノなど、被写体の幅はかなり広いが、触覚的な要素を強調した写真の選択と配置はかなりコントロールが効いている。会場全体を赤いライトで照らし出し、暗室の中にいるような雰囲気を作り出すとともに、プリントの色味をかなりドラスティックに変化させた。一見衝動に身をまかせているようで、何をどのように見せるのかを、きちんと考えていることが伝わってきた。

21歳という若さを考えると、今はやりたいことをやりたいようにやっていっていい時期だと思う。だが、すぐにセンスのよさだけでは限界が来るはずだ。ロジカルな思考力に、より磨きをかけるとともに、垂れ流しではなく、写真集や写真展の形で集中した作品づくりをしていく必要がある。深瀬昌久、鈴木清など、自らの生のあり方と作品とを密接に結びつけ、制作活動を展開してきた日本の写真家たちの伝統を、しっかりと受け継いでいる彼には、さらなる飛躍を期待したい。

2021/03/01(月)(飯沢耕太郎)

2021年04月01日号の
artscapeレビュー

文字の大きさ