artscapeレビュー

2022年02月01日号のレビュー/プレビュー

片山真理「leave-taking」

会期:2021/12/04~2022/02/19

Akio Nagasawa Gallery Ginza[東京都]

片山真理は2015年から2017年にかけて、「shadow puppet」「bystander」「on the way home」の「三部作」を制作した。この時期は、東京から群馬県太田へと制作の拠点を移し、アトリエを持ち、第一子を出産するという大きな転換期と重なり、内外での展覧会や出版も含めて、心身ともにフルに回転していた。それから5年余りが過ぎた今回のAkio Nagasawa Gallery での展示では、新たな第一歩を踏み出す意欲にあふれる新作「leave-taking」を見ることができた。

新作の舞台になっているのは、まさに彼女の創作活動の源泉となっているアトリエの空間である。そこには自作の手縫いのオブジェ、ペインティング、コラージュ作品などが雑然と置かれており、片山はその部屋に「マネキンのように自分を配置」してシャッターを切る。本シリーズでは、あえて長時間露光を用いることで、片山の身体はブレて消えかかり、むしろその周囲のオブジェ群が、ほのかな微光を発して存在感を増してきているように見える。何物かを生み育てる子宮のようなその空間に包み込まれていることの安らぎが、作品を見るわれわれにもしっかりと伝わってきた。



片山真理「leave-taking」展出品作品より[提供:AKIO NAGASAWA Gallery]


だが、この居心地のいい場所から、外に出ていかなければならない時期も来るだろう。片山の作品世界は、いまや日本だけでなく、欧米やアジア諸国でも注目を集めつつある。今回の展示は、いわば次作への助走に当たるもののように見える。次の作品は、ひとまわりスケール感を増したものになるのではないかという期待が膨らんだ。なお、展覧会に合わせて、「三部作」をまとめなおした写真集『Mother River Homing』が、Akio Nagasawa Publishingから刊行されている。

2022/01/12(水)(飯沢耕太郎)

須藤絢乃「VITA MACHINICALIS」

会期:2022/01/07~2022/01/30

MEM[東京都]

須藤絢乃は行方不明になった少女たちに扮した「幻影 Gespenster」(2013)の頃から、実在する人物というよりは、まさに幻影じみた存在に化身したセルフポートレートを発表するようになった。今回、MEMで展示された「VITA MACHINICALIS」は、2018年にキヤノンギャラリーSで開催された澤田知子との二人展「SELF/OTHERS」の延長上にある作品で、「生身の人間をアンドロイドのように」撮影している。発想の元になったのは、2018年頃に人の気配が消えた深夜の都心で感じた「不気味さ」だったようだが、現代と近未来、現実と仮想現実のあわいに立ちつくす「アンドロイド」の姿には、彼女なりの人間観が込められており、動かしがたいリアリティがあった。そっくりだが、微妙に異なる二人の人物のイメージが頻出するのだが、そこには幼い頃に見たダイアン・アーバスの写真集の表紙の双子の記憶が投影されているようだ。以前よりも、画面構成の強度が増してきており、写真作家としてのキャリアを順調に伸ばしてきていることがうかがえた。

なお、MEMの階下のNADiff Galleryでは、「Anima/Animus」展が同時期に開催されていた(同名の私家版写真集も刊行)。こちらは、2015年に亡くなった画家、金子國義の私邸が、2019年に取り壊されるまで、何度か通い詰め、金子の絵の中に登場するモデルたちに扮して撮影したシリーズである。このシリーズからも、作風の幅の広がりと、表現者としての自信の深まりが感じられた。

2022/01/13(木)(飯沢耕太郎)

ポンペイ

会期:2022/01/14~2022/04/03

東京国立博物館[東京都]

「古代の夢」とか「人類の至宝」とか、あるいは「世界遺産登録25周年」とか「創立150年記念」とか、そんな余計な情報をいっさい省いた特別展「ポンペイ」。このシンプルきわまりないタイトルに、「これぞ決定版」という並々ならぬ自信がみなぎっている(内容に自信のない展覧会ほどタイトルを長くしたり、キャッチーなサブタイトルをつけたがるものだ)。そしてうれしいことに、その自信が空振りすることなく、内容もきわめて充実していた。だいたいこれだけ見応えのある作品を持ってこられるのは、所蔵する美術館が改修工事などで休館中の場合が多いのだが、今回はそんなことどこにも書いていない。考えられるのは、先方のナポリ国立考古学博物館が慢性的な財政難に加え、コロナ禍で観光客が激減したため、いっそしばらく休館して所蔵品に出稼ぎに行ってもらおうってな魂胆ではないか。邪推はさておき。

最初の部屋に入ると、正面にヴェスヴィオ山の噴火と火山灰に埋没する街の様子がCG映像で流れている。実在した古代都市ポンペイのエピローグは、1700年の時を経て歴史に蘇る「ポンペイ」のプロローグであり、展覧会のプロローグでもある。こういう演出というかサービスは、昔はなかったなあ。子どものころ、火山灰に埋もれたポンペイから絵や人型が発掘されたと聞いて、どんな状況だったのか乏しい知識で想像するしかなかったが、いまは映像で街が火砕流に飲まれるシーンまで目の当たりにできるんだから、便利になったもんだ。

展示の前半は、ヴェスヴィオ山を描いた壁画や犠牲者のもぬけの殻から型取りした石膏像に始まり、ポンペイの街や社会、生活などを絵画や彫刻、生活道具などで紹介。後半は、「ファウヌスの家」や「悲劇詩人の家」などの一部を再現した住宅に、壁画や彫像をインストールした展示になっている。ポンペイが埋没したのは西暦79年だから、日本ではまだ弥生時代。この時代にすでに水道が整備され、そのブロンズ製のバルブが現代のものと大して変わらないことに驚くが、それ以上に目を奪われるのはやはりフレスコ画の数々だ。美術史の教科書でもしばしばお目にかかる《三美神》《書字板と尖筆を持つ女性》《パン屋の店先》など、火山灰に埋もれてひび割れや剥落はあるものの、よくこれだけ残ったものだと感心する。

しかしこれらのフレスコ画は、技法的によく描かれているとはいえ、古代のまま発掘された偶然性や史料性の高さゆえに価値を認められたのであって、必ずしも芸術性が高いわけではないだろう。おそらくこれらは家屋の装飾や店の看板として気軽に描かれたもので、数年か数十年おきに塗り替えられていたに違いない。いまでいえば銭湯のペンキ絵みたいなもんじゃないだろうか(ペンキ絵も現在では希少だが)。では芸術性を追求した絵画はなかったのかといえば、あったとしても、板や布や紙に描かれたものはすべて灰になってしまったはず。つまり、ここに展示されている絵は、タブローのように額縁みたいな枠にはめられて壁に掛けられているけれど、もともと建物に直接描かれた壁画であり、それを四角く切り取ったものであるということだ。だから古代ポンペイ人がこの展覧会を見たらきっと驚くだろう。あ、うちの落書きやガラクタが極東の島でうやうやしく崇められていると。

さて、そのフレスコ画にもましてきれいに残っているのがモザイク画だ。もちろんこれもフレスコ画と同じく「不動産美術」の一種。色のついた小石を並べてつくるので手間がかかるが、その分フレスコ画より色が落ちにくく堅牢で長持ちし、芸術的価値も高かったに違いない。ポンペイのモザイク画で有名なのは《アレクサンドロス大王のモザイク》だが、さすがにこの大作は来ておらず(映像で紹介)、同じ「ファウヌスの家」から発掘された《葉綱と悲劇の仮面》《ナイル川風景》など繊細なモザイクを公開している。

ところで、この「ファウヌスの家」や「悲劇詩人の家」は建物が部分的に再現され、そのなかにもともとあったようにモザイク画やフレスコ画などを配置している。そのため家のどこに、どんな状態で壁画が描かれていたかがわかる仕組みだ。こうした再現展示も最近では珍しくなくなった。また前半の展示でも、俳優の彫像の背景には古代劇場の画像を、兜や脛当ての背後には円形闘技場の写真を掲げている。こうしたディスプレイは展示品の背景を理解するための一助にはなるが、しかし冒頭の噴火のCG映像ともども、見る者のイメージを規定したり画一化しかねない危うさもはらんでいないだろうか。展示が親切になればなるほどわれわれの想像力が衰退していくのでは、元も子もないからね。



再現展示の様子


2022/01/13(木)(村田真)

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モダンスイマーズ『だからビリーは東京で』

会期:2022/01/08~2022/01/30

東京芸術劇場シアターイースト[東京都]

モダンスイマーズ『だからビリーは東京で』は、ミュージカル『ビリー・エリオット』に感動した大学生・凛太郎(名村辰)が俳優になることを思い立ち、劇団に入り、しかし舞台には立てないままコロナ禍が訪れ、そしてそのまま劇団が解散するまでの物語だ。ともすればナルシスティックな演劇愛や自己憐憫に陥りかねないモチーフだが、この作品で描かれるそれらは苦く、だからこそ胸を打つ。

同タイトルの映画(ただし邦題は『リトル・ダンサー』)に基づくミュージカル『ビリー・エリオット』で炭鉱の町に住む主人公の少年・ビリーは偶然出会ったバレエの先生に才能を見出され、やがてロンドンの名門バレエ学校へと進むことになる。冒頭の劇団オーディションの場面で、凛太郎は自分がいかにビリーの姿に感動し俳優を目指すことになったのかを語るが、そこは劇団員たったの5名、オーディションへの応募者も凛太郎のほかにいないような劇団だった。ビリーと違い、凛太郎はその才能を見出されたわけでも、名門に進んだわけでもない。劇団で作・演出を担当する能見(津村知与支)の戯曲は「難解」で劇団員たちにも意味がわからないと言われる代物で、方向性について意見の対立があったりもする。観客からも基本的には拍手がもらえないと劇団員自らが言うようなその劇団の稽古は、傍から見れば馬鹿馬鹿しくもあるのだが、入団した凛太郎はそれでも楽しそうに日々を過ごす。

だが、劇団員の加恵(生越千晴)が事務所に所属するために公演には出られないと言い出したあたりから雲行きは怪しくなる。能見も「何書いてるかわかんない」「何をやってるんでしょうか! 我々は!」と言い出し、凛太郎は大学で加恵の代役を探してくると申し出るが公演は延期に。そしてコロナ禍がやってくる。公演の予定もなく、稽古で集まることもない宙ぶらりんの時間。だがそれでも時間は過ぎていき、それぞれの置かれた状況は変化していく。

凛太郎にはアルコール依存症の父(西條義将)がいた。かつて凛太郎に暴力を振るっていた父は、母子と別居して後はひとりで居酒屋を切り盛りし、アルコールとも距離を取っているように見えた。だが、コロナ禍で店を閉めざるを得なくなり、代わりに得た補助金で再び酒浸りになった父はまたしても凛太郎に暴力を振るってしまう。「ビリーの父親は炭鉱夫で、怖い人で……ビリーのバレエにも大反対で……だけど、最後にはビリーを応援して(略)きっと、ビリーに胸を打たれたのは……彼が父親を変えたから」という凛太郎の慟哭は二重に苦い。父を変えられなかったという現実は、演劇に取り組む現在の凛太郎の存在意義をも揺るがすからだ。「そうか……ここは途中の場所……僕にとって東京は、ここにいる限り、まだ途中なんだと、言ってのけていい場所」。気づいてしまえばそのままでいることもまた苦しい。凛太郎は劇団をやめようと思うと能見に伝える。

その頃、劇団員たちもそれぞれに劇団を続けることが困難になっていた。長年の同棲生活を続けてきた長井(古山憲太郎)と山路(伊東沙保)。山路は長井を「演劇の道を歩く同志であり、理解者」でもあると思っており、だからこそ浮気にも耐え、ときに経済的な援助もしてきた。だが、コロナ禍でリモートでの家庭教師によって多くの収入を得、その仕事に演劇以上のやりがいを見出しはじめた長井は、「ケジメを」と言って結婚ではなく別れを切り出す。さらに、長井のスマホを覗いた山路は、長井が劇団員の久保(成田亜佑美)とコロナ禍に入って毎日のようにメッセージをやりとりしていたことに気づく。それは浮気ではないようなのだが、幼馴染の久保を「面倒見て、引っ張ってきた」と自負する山路は二人のふるまいに耐えられない。一方、久保は久保で俳優になるという夢も初恋の人も、いろいろなものを山路に先に取られてきたと感じており、彼女のことを嫌いだと思いながらも付き合いを続けてきたのだった。加恵は恋人のいる韓国に行くことが決まり、能見の実家の厚意で使わせてもらっていた稽古場もコロナ禍の影響でアパートにすることになったのだという。もはや劇団は続けられない。

コロナ禍さえなければ楽しい時間は続いただろうか。だが、表出した問題の多くはコロナ禍以前からくすぶっていたものだ。コロナ禍がなくとも、遅かれ早かれ似たような結末が訪れたのではないだろうか。そしてその結末は、実のところコロナ禍以前から囚われていた宙ぶらりんの時間からの解放でもある。だからこそ現実はより苦く、彼ら自身もどこかでそのことを知っている。

能見は、最後に自分たちを題材にした芝居をこの稽古場で上演したいと言い出し、そして場面は冒頭のオーディションへと戻る。結末を知りながら、彼らは苦さを噛みしめるようにして自分たちの物語を演じはじめる。


モダンスイマーズ:http://www.modernswimmers.com/

2022/01/13(木)(山﨑健太)

横田大輔「Room/Untitled」

会期:2022/01/11~2022/02/06

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

『アサヒカメラ』、『日本カメラ』の休刊以後、日本の写真表現の現在形をフォローする定期刊行物は、ほぼなくなってしまった。その意味で、ふげん社から2022年1月に創刊された『写真(Sha Shin)』への期待は大きい。年2冊のペースで刊行される予定の同誌の創刊号では「東京 TOKYO」と題する特集が組まれている。その巻頭に30ページにわたり新作「Room/Untitled」を掲載した横田大輔の同名の個展が、「創刊記念展」としてふげん社のギャラリースペースで開催された。

今回の展示は、これまでの横田の写真展をずっと見てきた観客にとっては、やや意外な印象を与えるだろう。いつものノイジーな、プリントの物質性を強調したインスタレーションは影を潜め、白枠のフレームにきっちりとおさめられた作品が並んでいる。静謐かつ、端正な写真のたたずまいは、それらが渋谷や立川のラブホテルで撮影されたとはとても思えないほどだ。

だが今回の展示作品は、見かけ以上に横田大輔という写真家のあり方を、自ら問い直し、次の課題を提示するプロブレマティックな仕事になっているのではないだろうか。批評性、構築性は、以前よりむしろ高まっており、見る者の深層意識を掻き乱す毒をたっぷりと含み込んでいる。いわば、横田大輔の「第二期」が、ここから始まるのではないかという印象を受けた。なお、同ギャラリーの2階スペースでは、『写真』創刊号の「東京 TOKYO」特集の掲載作家である北島敬三、金村修、山谷祐介、小松浩子、細倉真弓、森山大道のプリントが展示された。今後、新しい号が出るたびに、掲載作家の展覧会を開催していく予定という。次号(2022年7月発売予定)以降の展示も楽しみだ。

2022/01/16(日)(飯沢耕太郎)

2022年02月01日号の
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