artscapeレビュー

2023年02月15日号のレビュー/プレビュー

雑誌『写真』vol.3「スペル/SPELL」刊行記念展 川田喜久治「ロス・カプリチョス 遠近」

会期:2023/01/24~2023/02/19

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

川田喜久治の「ロス・カプリチョス 遠近」展は2022年6月~8月にPGIで開催されている。今回のコミュニケーションギャラリーふげん社での展示は、年2回刊行の『写真』誌の第3号の巻頭に、同シリーズが30ページ以上にわたって掲載されたことを受けて企画されたもので、前回の個展の再編集版といえる。だが、単に会場の違いというだけでなく、写真の見え方そのものが大きく変わったという印象を受けた。

それは、『写真』3号の特集テーマが「スペル」(綴り字という意味のほかに呪文、魔力という意味もある)であり、それにあわせて川田の作品世界のバックグラウンドとしての「言葉」にあらためて注目したからではないだろうか。実際に展示の始まりの部分には、川田自身が選んで並べた、まさに「呪文」のような言葉の群れが掲げてあった。「カフカと赤い馬」「Kafka and Red Horse」「赤い滝」「黄金時代」「湯浴みの足」「スフィンクスの乳房」といった文字列と写真とが、一対一の整合性を保って配置されているわけではない。だが、むしろ反発しつつ触発し合うような関係を保ちつつ、写真と言葉とが見る者に一斉に襲いかかってくるように感じる。そのことが、個々の写真が発する緊張感をより高めているようにも思えた。

1933年1月1日生まれの川田は、今年90歳を迎えた。だが、矢継ぎ早の個展の開催、写真集『Vortex』(赤々舎、2022)の刊行など、その疾走はさらに加速しつつある。


公式サイト:https://fugensha.jp/events/230124kawada/

関連レビュー

川田喜久治「ロス・カプリチョス 遠近」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2022年08月01日号)

2023/01/24(火)(飯沢耕太郎)

ほろびて『あでな//いある』

会期:2023/01/21~2023/01/29

こまばアゴラ劇場[東京都]

『あでな//いある』(作・演出:細川洋平)というタイトルはdenialに由来する。つまり作品に「否定」という単語が冠されているのだが、一見して「明らかでない」ように、そのことはタイトルを見てすぐさま了解されるわけではない。アルファベットは(不定冠詞のaを付されたうえで)ひらがなへと変換され、中央に置かれたスラッシュが単語を分断しているからだ。そもそもdenialという英単語を知らなければその意味はわかりようもないだろう。そこに「否定」があることは容易には認識され得ない。そういえば、denialには精神分析の用語で「受け入れがたい現実を認識することそれ自体を拒むこと」を意味する「否認」という意味もあったのだった。見えないものに目を向けるにはまずはそれが見えていないことを、見えていないものがあることを認識することが必要で、だからそれは途方もなく困難な道のりだ。


[撮影:渡邊綾人]


舞台は美容師(伊東沙保)と客であるいべ(内田健司)のやりとりで幕を開ける。「塀があるでしょ、このお店の向こう側、わかります?(略)ここからだと見えないと思うんですけど、あるんですよ塀が向こうが見えない塀が」。美容師はそこにバンクシーが来たのだなどと、ほとんどいべを無視するような勢いで延々と話し続け、いつまで経っても髪を切ろうとする気配がない。ようやく切ろうとしたところでアシスタントのリンなる人物が紹介されるのだが、いべには、そして観客にもその姿は見えない。「本当にいます?」と戸惑いながら問ういべに、美容師は「え、本当に見えないんですか?」「見えないわけないんですけど」と答えるが、いべは結局、本当はそんな人物などいないのだと結論づける。

ところが、である。次の場面ではリンは実体を持った人間として、というのはつまり、吉岡あきこという俳優によって演じられる人物として舞台の上に登場するのだ。それでもいべにその姿は見えていないらしい。これは一体どういうことなのか──?


[撮影:渡邊綾人]


一方、高層マンションの地下の一室では雨音(生越千晴)、花束(中澤陽)、油田(鈴木将一朗)が暮らしている。家族ではないながらも身を寄せ合って暮らしている三人はどうやら「この国」の人間ではないらしい。雨音と花束は油田の誕生日を祝ってスケッチブックをプレゼントするが、うまく喜ぶことができない油田は何か事情を抱えているようだ。

物語は主にこの二つの場面を行き来しながら進み、やがて雨音が美容室を訪れるに至ってようやく、いべには「この国の人間」以外の人間が見えていないのだということが明らかになる。雨音は「ここに私たちいるんですけど、この場所に、私たちはいるんですけど!」と自らの存在を訴えるが、その声はいべには届かない。いべは決してわざと雨音たちを無視しているわけではなく、本当にその存在を認識できない様子なのだ。美容師はそこにリンと雨音がいるのだということを繰り返し告げるが、いべはそのことを認めようとはしない。とはいえ、もちろんリンたちは確かに存在しているので、物理的な接触が生じればいべはよろめいたりもする。姿の見えない誰かが存在する気配はいべを不安にさせ、否定はますます激烈な調子を帯びていくことになる。


[撮影:渡邊綾人]


劇中で「この国」がどこであるかが具体的に示されることはない。舞台奥の崩れかけた壁とバンクシーのエピソードはウクライナを思わせ、油田の発する仮放免という言葉は例えば日本の入管施設の収容者や技能実習生への非人道的扱いの数々を想起させる。

あるいは、劇中でたびたび言及されるカトマジャペニールがクルド料理だということを知っていれば、私はこれをクルド人の(いる場所の)話として見ていたかもしれない。「この国」と「それ以外」という分断は世界共通だが、現状「自らの国を持たない民族」であるクルド人はどこにいっても「それ以外」の側に置かれてしまう。

いや、たとえカトマジャペニールをクルド料理だと知らなかったとしても、それは何だと調べてみれば、そこからクルド人が置かれている現在の状況を知ることだってできたはずなのだ。雨音たちの郷愁や団結、希望の象徴のような役割を果たしているカトマジャペニールは、見えていない(かもしれない)ものに観客が手を伸ばすための回路のひとつとしても存在している。


[撮影:渡邊綾人]


では、どうすればいべは雨音たちを認識することができるのだろうか。相手が抽象的な概念としての存在に留まり続けるかぎり、その姿が目に見えるようになることはない。結末はここには書かないが、美容師のささやかな、しかし強い思いに裏づけられた提案は、目の前の、現実に存在する人間の具体性にいべを向き合わせるための一歩となるだろう。


[撮影:渡邊綾人]


さて、いべのそれのように抽象的な存在へと向けられた否定は具体的な現実によってその呪いを解くことができるかもしれない。だが、具体的な現実によって生まれてしまった否定はどうすればよいのだろうか。許せないことはある。それはどうしようもないのかもしれない。それでも。最後の場面で示されるのは答えではなく、そうして逡巡しながらも進もうとする意志だ。

本作は3月上旬から配信が予定されている。『あでな//いある』にはここには書ききれなかった一人ひとりの物語があり、何より、この作品は具体的な顔を持つ人間が演じる姿と向き合ってこそ意味を持つものだ。公演を見逃した方はぜひ配信をチェックしていただければと思う。


[撮影:渡邊綾人]



ほろびて:https://horobite.com/

2023/01/25(水)(山﨑健太)

松江泰治「ギャゼティアCC」

会期:2023/01/20~2023/03/07

キヤノンギャラリーS[東京都]

松江泰治は1990年代から写真を通じての「地名収集」の作業を続けている。近年は銀塩フィルムの大判カメラから高精細のデジタルカメラへと撮影機材を切り替え、より鮮鋭かつ広がりをもつ作品を発表するようになった。今回、東京・品川のキヤノンギャラリーSで開催された個展では、主に自然の景観を撮影した「gazetteer」(地名事典)シリーズと、都市にカメラを向けた「CC」(シティ・コード)シリーズから、大判プリンターで大画面に引き伸ばした26点が展示されていた。

以前の松江の作品は、高い場所からかなり距離を置いて俯瞰撮影し、全面にピントを合わせたものがほとんどだった。そのことによって、土地の起伏や建物や街路が織りなすモザイク状の空間が、ありえないほどの精度で見えてくる。ところが、今回展示された作品でいえば、ヒマワリ畑を撮影した《LOMBARDY 32827》、砂浜のペンギンの群れを捉えた《SOUTH AFRICA 27747》、会場の船舶群にカメラを向けた《CAMPANIA 28133》のように、被写体の幅が大きく広がり、その距離感もフレキシブルになってきている。エルサレムの嘆きの壁で祈る人々の姿を撮影した「CC」シリーズの《JRS 53845》など、これまではとても考えられないような作品といえるだろう。

つまり「地名」という抽象的な概念に加えて、現実の世界のあり方と人々の生の営みを捉えることへの関心が、彼のなかでより強まっているということではないだろうか。その成果が作品の選択・構成にしっかりと形をとっていた。なお、写真展に合わせて、作品262点をおさめた作品集『gazetteerCC』が赤々舎から刊行されている。


公式サイト:https://canon.jp/personal/experience/gallery/archive/matsue-gazetteer

2023/01/27(金)(飯沢耕太郎)

古屋誠一写真展 第二章 母 1981.11-1985.10

会期:2022/11/11~2023/02/01

写大ギャラリー[東京都]

本展は、昨年6月~8月に写大ギャラリーで開催された「古屋誠一写真展 第一章 妻 1978.2-1981.11」の続編にあたる。東京工芸大学がコレクションした古屋誠一のプリント、364点から、今回は古屋の妻のクリスティーネと、1981年に生まれた息子の光明クラウスを撮影した写真を中心に展示していた。

古屋一家はこの時期に、クリスティーネの演劇の勉強や古屋の仕事の関係もあって、オーストリア・グラーツ、ウィーン、東ドイツ・ドレスデン、ベルリンと移転を繰り返した。展示されている写真を辿っていくと、1981年には第一子誕生の輝きにあふれていたクリスティーネの表情が、次第に翳りや険しさを帯びていくことに気がつく。泣き顔や坊主頭になった写真もある。クリスティーネの精神状態はこの時期に次第に悪化し、ついに1985年10月、東ベルリンのアパートからの投身に至った。だが、その最後の時期になると、逆に安らぎにも似た放心の表情があらわれてくる。

あらためて、これらの写真群を見ると、写真家がある人物をモデルとして撮影したポートレート作品として稀有なものなのではないかという思いが強まってくる。古屋がクリスティーネに投げかけ、逆に彼女が古屋を見返す眼差しの強さが尋常ではないのだ。写真を撮り、撮られること(ときにはクリスティーネもまた古屋にカメラを向けることがあった)が、彼らの生の焦点となっていたことが、痛々しいほどの切実さで伝わってきた。おそらく、世界の写真史における名作として語り継がれていくに違いない作品が、東京工芸大学のコレクションとなったのはとても意義深いことだ。これで終わりではなく、その全体像を一望できる展示も、ぜひ企画していただきたい。


公式サイト:http://www.shadai.t-kougei.ac.jp/overview.html

関連レビュー

古屋誠一写真展 第一章 妻 1978.2-1981.11|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2022年08月01日号)

2023/01/27(金)(飯沢耕太郎)

交歓するモダン 機能と装飾のポリフォニー

会期:2022/12/17~2023/03/05

東京都庭園美術館[東京都]

モダンデザインとひと口に言っても、その概念は幅広く、人々が抱くイメージもまた種々様々である。本展は1910年代から30年代までの欧州と日本にスポットを当てた、モダンデザインの黎明期を探る展覧会だ。一般にモダンデザインというと、バウハウスや建築家のル・コルビュジエに代表されるような合理主義かつ機能主義的な傾向を連想しがちだが、実はそれだけでは括れない動きが当時にはあった。意外に思えるが、大衆消費社会が進んだことで、つねに新しくあるために装飾することに価値が置かれたというのだ。この「機能」と「装飾」という二項対立をはらんだモダンデザインに、本展は切り込んでいる。

そもそもモダンデザインの父と称されるウィリアム・モリスが、壁紙をはじめとする装飾美術をきわめたことが、アーツ・アンド・クラフツ運動へとつながった。本展でキーとなるのは、そのアーツ・アンド・クラフツ運動の影響を受けたウィーン工房である。同工房は生活全般における「総合芸術」を標榜したことから、機能的でありながら、優れた装飾性を兼ね備えたことで知られていた。また同工房と交流のあったファッションデザイナーのポール・ポワレや、影響を受けたとされる建築家・室内装飾家のロベール・マレ=ステヴァン、また家具デザイナーのフランシス・ジュールダンらの作品を展示し、当時の装飾的モダニズムを紹介している。同時に伝えるのは、欧州中で作家やデザイナーらが互いに影響し合った事実だ。


ヨーゼフ・ホフマン《センターピース・ボウル》(1924)個人蔵[画像提供:東京都庭園美術館]


本展を観ると、結局、装飾は何のためにあるのかという永遠の疑問に行き着く。当時からすでに消費を促すための価値付けとして装飾が用いられていたようだが、この大量消費社会自体を見直すべきときに来たいま、装飾の役割をもう一歩踏み込んで考えなくてはならないのだろう。結局、人間はロボットではないのだから、身の回りのものに機能ばかりを求めたとしても、所詮、味気のない暮らしになってしまう。おそらく感動や生きる喜び、心の豊かさ、また暮らしのリズムなどを与えてくれるのが装飾なのだ。当時、合理主義かつ機能主義的な傾向がありながらも、人間の内なる欲求として彼らが装飾を求めた様子がひしと伝わった。


ポール・ポワレ《ガーデン・パーティ・ドレス》(1911)島根県立石見美術館[画像提供:東京都庭園美術館]


アンドレ・グルー(デザイン)、マリー・ローランサン(絵付)、アドルフ・シャノー(制作)《椅子》(1924)東京都庭園美術館[画像提供:東京都庭園美術館]



公式サイト:https://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/221217-230305_ModernSynchronized.html

2023/01/27(金)(杉江あこ)

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2023年02月15日号の
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