artscapeレビュー
2023年02月15日号のレビュー/プレビュー
川口龍一人芝居『あの少女の隣に』
会期:2023/02/04~2023/02/05
下高井戸HTSスタジオ[東京都]
川口龍による一人芝居『あの少女の隣に』(作・演出:くるみざわしん、2021年初演)のメインビジュアルには、並んで置かれた2脚のイスと、その一方に腰掛ける女性らしき人物が描かれている。もう一方は空席だ。思い出されるのはあいちトリエンナーレ2019内の「表現の不自由展・その後」で展示されていたキム・ソギョンとキム・ウンソンによる《平和の少女像》(2011)だが、《平和の少女像》とは異なり、ここに描かれた人物は向かって左側のイスに座り、チマチョゴリではなく白いワンピースのような服を身に着けている。この作品は「あの少女の隣に」座るべき存在として、戦後の日本で米軍を相手にした日本人慰安婦に焦点をあて、男の一人語りを通してその背後にある構造を暴き出す。
舞台上には客席と向かい合うように置かれた2脚のイス。そこに男がやってくるとこう言い放つ。「両方ともからっぽだよ。お前の国には置くものがないだろう。あったら出してみろ。いや、お前の国じゃない、私達の国だ。私達の国には置くものがない」。語りはのっけから分裂している。男は「あのイスの片方に少女を座らせてみたいんだよ。でもそのためには遠回りでもここから始めないと」と続け、戦争の道具として必要なのは「銃。ヘルメット。迷彩服。食べ物」に加えて女だというその語りは「それを我が国がいつ頃からどんなふうに実現したのか」へと遡る。
男によれば「ことの起こりはナポレオン時代のフランス」。性病の蔓延による戦力低下に悩まされたフランス政府が「売春婦に性病検査を強制して管理を始めた」のに各国がならい、日本もまた1872(明治5)年に警察組織をつくるためのヨーロッパ視察が行なわれたのをきっかけに、国による性病検査の強制と売春の取り締まりが制度化されたのだという。
時間は飛んで1945年。敗戦後、米軍の駐留が決まるとすぐさま、国の主導でRAA=レクリエーションアンドアミューズメントアソシエーション(作中では出てこないが日本語での名称は「特殊慰安施設協会」)という慰安施設が設置された。米兵から「我が国の女を守る」ためということだが、そこで働くのはもちろん女性である。米側はさらに売春街も米軍用に提供するよう要求するが、翌年にはアメリカ本国にいる米兵の家族からの抗議によってRAAは廃止。国の主導で設けられたはずの職を失い、いわゆる「パンパン」となった女性たちは警察の取り締まり対象となってしまう。
この作品の大部分は、男が上司である警視総監や進駐軍保健局局長ジェームス大佐から指令を受け、それを遂行するために部下や女たちに働きかけるというパターンの繰り返しで構成されている。「我が国の女を守る」という大義を掲げての施策はどれも矛盾に満ちており、それを自覚している男は指令を受けるたびに抗議をする。しかしもちろんそれが受け入れられることはない。結局のところ男は「いやいや、考えるな。とにかくこれが仕事なんだ」「お国のためだ」とそれらの命令を部下や女たちへと伝え実行に移すことになる。
この一人芝居では川口が演じるのは男一人であり(厳密にはその男にはいくつかの異なる名前が与えられてはいるのだが)、ほかの登場人物の姿は舞台上には現われない。警視総監やジェームス大佐の言葉は、例えば「え、女を使う」といった具合に、相手の言葉を聞き返し反復する男の口を介して観客に届くことになる。このような聞き返しは一人芝居の常套手段ではあるのだが、「上」からの命令が男自身の言葉として発せられてしまうつくりは巧妙だ。しかも、それらの言葉は改めて、男自身から部下や女たちへの命令として繰り返されるのだ。「上」から押し付けられたはずの言葉や価値観は繰り返しのうちに内面化され、やがては「上」からの声が実際には発せられていないときでも聞こえてくることになるだろう。
男は「徹底的に無責任なんだから、アメリカは」と責めながら、直後に自らも「私たちが生きていく道は、徹底的な無責任だよ」と言い、「上」の無責任な態度をも反復する。無責任の連鎖。ツケは弱い立場の者へと回される。作中で示されることはなかったが、無責任の体系が戦争責任の問題にも連なっていることは言うまでもない。
最後の場面は現代だ。いまだに生き続ける男は「女子大の先生」として国家管理買春や構造的な女性差別に関する講義をしている。「この仕組みを作り上げた私がどんな人間かをここでさらして、皆さんに考えてもらいたい」という男はなるほど真摯に見える。しかし、ならばなぜ、そこは女子大なのだろうか。男が一個人であるならばそのような責任の引き受け方もあり得たかもしれない。だが、男が特定の個人ではなく、文明開花以来、いやおそらくはそれ以前から生き続ける総体としての男とそれがつくり出す構造を象徴する存在であることは明らかだ。それらと向き合うべきなのはむしろ男の方だろう。無意識の無責任は現在に至るまで隠然と引き継がれている。
『あの少女の隣に』は「上」からの声を内面化し自らの価値観としていくプロセスを巧みに抉り出す。だが、その構造のみを撃つのでは、個人としての男は責任から逃れ続けてしまうだろう。だから、観客である私は、そして舞台上の男は改めて思い出さなければならない。そもそもはじめから男以外の声など聞こえていなかったということを。舞台の上で言葉を発したのは、そうすることを選んだのはどこまでいっても男自身でしかないのだ。
『あの少女の隣に』は2月25日にアトリエ銘苅ベースでの沖縄公演を、7月にはアンコール上演vol.3(会場未発表)を予定。くるみざわ作品としては俳協演劇研究所『振って、振られて』(2023年3月9〜12日、新宿)、エイチエムピー・シアターカンパニー『リチャード三世 馬とホモサケル』(2023年3月11〜12日、大阪市)の上演も控えている。
『あの少女の隣に』:http://www.myrtle.co.jp/arts/#anosyoujyo/
くるみざわしんTwitter:https://twitter.com/kurumizawashin/
2023/02/05(日)(山﨑健太)
ジャック・デリダ『メモワール──ポール・ド・マンのために』
翻訳:宮﨑裕助、小原拓磨、吉松覚
発行所:水声社
発行日:2023/01/10
本書は、哲学者ジャック・デリダ(1930-2004)が、アメリカ合衆国における「脱構築」の後見人であり、唯一無二の友人であった批評家ポール・ド・マン(1919-1983)について書いた文章をまとめたものである。いずれもド・マン没後数年のうちに書かれた文章であるが、前半「Ⅰ」と後半「Ⅱ」でテクストの性格がかなり異なる。まずはそのあたりの事情を見ていくことにしたい。
本書の第Ⅰ部は、1984年にカリフォルニア大学アーヴァイン校で行なわれた連続講演にもとづいている。もともと「アメリカにおける脱構築」というテーマを構想していたデリダは、その前年末のド・マンの訃報に接し、急遽その内容に変更を加えた。「1 ムネモシュネ」「2 メモワールの技法」「3 行為──与えられた言葉の意味」と題されたこれらのテクストでは、おもにド・マンにおける「記憶」の問題を論じるというかたちで、その数ヶ月前に亡くなったド・マンに対する「喪の作業」を遂行するとともに、もともとのテーマであった「アメリカにおける脱構築」にも間接的に応じる格好となっている
。これに対して第Ⅱ部は、それから4年後の1988年に執筆・公表されたものである。その経緯については本文でも述べられているように、やはりその前年(1987年)に明らかになったド・マンのベルギー時代の活動が直接的なきっかけとなっている。ご存じの読者も多いだろうが、戦後アメリカ合衆国に渡り、のちにイェール大学で教鞭をとることになる若きド・マンが、『ル・ソワール』という親ナチ的な新聞に文芸時評を書いていたことが一大スキャンダルを引き起こした。さらにこれをきっかけとして、ひとりポール・ド・マンのみならず、アメリカにおける脱構築批評、さらにはその震源地であるデリダらの「フレンチ・セオリー」にも、その攻撃は飛び火したのである。
この反・脱構築のキャンペーンが当時においてどれほど苛烈なものであったか、それを直接見聞していないわたしでも、その光景を容易に想像することができる。というのも、このたぐいの批難は、それから30年以上が経った最近でも──ミチコ・カクタニの『真実の終わり』(岡崎玲子訳、集英社、2019)などを通じて──また異なったしかたで反復されたものであるからだ
。何らかの理由からデリダやド・マンの理論──さらにはそのエピゴーネン──に苦々しい感情を抱いていた人々が、鬼の首をとったようにこの事実に飛びかかったことは間違いない。だが、これはほとんど断言してよいと思われるが、それらの人々は、20歳そこそこのド・マンが親ナチ的な新聞に文章を寄せていたという「事実」を強調するばかりで、その文章に目を通してみようとすら思わなかったに違いない。これに対して、デリダが本書第Ⅱ部(「貝殻の奥にひそむ潮騒のように──ポール・ド・マンの戦争」)で行なったのは、この若きベルギー人が書いたものをまずは徹底的に読み、そこから何が読みとれるのかを日のもとに晒すという作業であった。その成果が少しでも気になった読者は、まずは本書をじかに読んでみてほしい。友人ド・マンへの深い哀悼の意と、その過去の出来事にたいする(あくまでも公平な立場からなされた)弁護からなる本書は、これからデリダを読もうとする読者にとっての最初の一冊として、留保なく推薦できるものである。
本書を読んでいると、ある資料体を徹底的に、時間をかけて読むことがひとつの「倫理」であるということを、あらためて痛感せざるをえない。本書をはじめとするデリダの文章はたしかに迂遠な印象を与えるかもしれないが、そこに不必要に難解なところはひとつもない(念のため付言すると、本書『メモワール』の訳文はきわめて正確かつ流麗である)。ある「新事実」の暴露に右往左往する今日の人間からすれば、そこで告発されたテクストをゆっくり、丹念に検討するというのはどこか反時代的な身振りに映るかもしれない。だが、そうした倫理=慣習(エートス)を失ったとき、わたしたち人間を人間たらしめる根拠はまたひとつ失われるだろう──本書を読んでいると、いささか大仰とも思われるそのような感慨を抱かずにはいられない。
2023/02/09(木)(星野太)
王欽『魯迅を読もう──〈他者〉を求めて』
発行所:春秋社
発行日:2022/10/19
本書のタイトルを見たとき、いくぶん意表を突かれる思いがした。「魯迅を読む」ではなく、「魯迅を読もう」である。このタイトルは、文字通りに取れば、読者に対して「ともに」魯迅を読むことをうながしているかに見える。事実そうなのだろう。だが、「魯迅を読もう」というこの誘惑の背後には、もうすこし複雑なコンテクストが畳み込まれているように思える。
魯迅(1881-1936)と言えば、日本への留学経験もある、中国近代文学におけるもっとも重要な作家である。したがって、中国語や日本語のみならず、英語でも魯迅についての書物や論文のたぐいは豊富にある(個人的にも、魯迅を専門とする英語圏の研究者にはこれまで数多く会ってきた)。さながら日本における夏目漱石のごとく、中国の近代文学を話題にするうえで、およそ魯迅を避けて通ることなどできない。これはいまや世界的な事実である。
ひるがえって、いまの日本語の読者のあいだに、魯迅を読もうという気運はどれほどあるだろうか。日本とも縁浅からぬこの作家への今日的な無関心が、著者をして本書を書かしめた最大の要因であるように思われる。
むろん、過去には竹内好の仕事をはじめとして、日本語で読める魯迅のすぐれた訳書・解説書は現在までに数多く存在する。だが、本書の著者である王欽(1986-)のアプローチは、これまでに存在した魯迅の解説書とはいくぶん毛色を異にするものだと言えよう。著者は中国・上海に生まれ、ニューヨークで学業を修め、現在では東京で教鞭をとる研究者である。つまり本書は、中国語を第一言語とし、英語圏の批評理論にも精通した著者が、あえてみずから日本語で書いた本なのである。
本書は、魯迅の『阿Q正伝』をはじめとする小説から雑文にいたるまでの全テクストを視野に収めた、堅実な解説書である。ただし、そこでは中国語や日本語による文献に交じって、ベンヤミン、ド・マン、デリダを援用しながら議論を進めるくだりが散見される。こうした批評理論を噛ませたアプローチには賛否あるだろうが、すくなくとも今日の英語圏における魯迅の読まれかたとして、本書のような「釈義」(11頁)による方法はむしろ王道に属するものであるように思われる。
個人的には、『村芝居』『凧』『阿金』といった比較的マイナーなテクストを論じた後半の議論を興味ぶかく読んだ。全体的に、編集の目が行き届いていないがゆえの誤字脱字も散見されるが、本書のようなすぐれた書物が日本語で著されたことの意義は、それを補って余りあろう。本書の読後、きっと読者は魯迅を「読もう」という気にさせられる──その点において、本書の目論見は十分に達成されているように思われる。
2023/02/09(木)(星野太)
カタログ&ブックス | 2023年2月15日号[近刊編]
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──境界線が溶け合うとき硬直した世界に未来の風景が立ち上がる。
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いくつもの不条理なできごとの底知れぬさみしさを抱えて、それでもなお生きるための思考。
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レペルトワールⅢ 1968
騙し絵か非゠騙し絵か(ホルバイン、カラヴァッジョ)、小説の地理学(ルソー)とポルノグラフィ(ディドロ)、毒薬/霊薬としての言葉(ユゴー)、連作としての絵画と文学(北斎、バルザック、モネ)、キュビスムの技法(ピカソ、アポリネール)、「正方形とその住人」(モンドリアン)、記憶の多角形(ブルトン)、「宇宙から来た色」(M・ロスコ)、考古学、場所、オペラ等々、文芸×美術を自在に旋回する、アクロバティックな創作゠批評の饗宴。
ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ「柔らかな舞台」
2022年11月12日(土)〜2023年2月19日(日)まで、東京都現代美術館にて開催されている企画展「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」のカタログ。
場所、それでもなお
ユダヤ人絶滅収容所の〈場所〉をめぐる表象不可能性に抗して、映画や写真のイメージ(映画『ショアー』『サウルの息子』、アウシュヴィッツ=ビルケナウ国立博物館所蔵の写真群)を分析し、歴史の暗部を透視する試み。『イメージ、それでもなお──アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』(原著2003年刊)の前後に書かれたユダヤ人大虐殺をめぐるテクスト三篇、「場所、それでもなお」(1998年)、「樹皮」(2011年)、「暗闇から出ること」(2018年)を一冊にまとめた、日本版独自編集の論集。
メディア地質学 ごみ・鉱物・テクノロジーから人新世のメディア環境を考える
物質という視点や長大な時間から現代のメディア状況を捉え直す、気鋭の研究者によるハードでドライなメディア文化論。
共和国の美術 フランス美術史編纂と保守/学芸員の時代
王なき世俗国家で人々は芸術に何を求めたのか。戦争に向かう危機の時代に、中世宗教美術や王朝芸術から、かつての前衛までを包摂するナショナルな歴史像が、刷新された美術館を舞台に創られていく。その過程を、担い手たる学芸員=「保守する人」とともに描き、芸術の歴史性を問い直す。
文化の力、都市の未来 人のつながりと社会システム
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2023/02/14(火)(artscape編集部)