artscapeレビュー
2023年05月15日号のレビュー/プレビュー
キリコ「The World」
会期:2023/04/14~2023/04/24
GALLEY 04街区[大阪府]
元夫との離婚、祖母の介護など、自身の私的な家族関係を軸に、女性の生き方や親密圏におけるコミュニケーションに焦点を当て、写真や映像作品を制作してきたキリコ。近年は、自身の不妊治療と出産をもとに、母親になることへの憧れと疎外感、「愛情=手作り」を期待される母親像へのジレンマを作品として昇華。「個」の視点をベースに、「母になること」を内側から探る作業を通して、より外側の社会との接点を提示してきた。
本展は、「正解」のない育児の曖昧なあり方に対する自身の悩みから出発している。子どものための心理療法のひとつである箱庭療法で用いられる「箱庭」を、キリコ自身の子どもを含め、3~9歳の子どもたちのそれぞれの家庭に持ち込み、砂とお気に入りの玩具で思う存分遊んでもらった。子どもたちの遊びの過程は、真上からの固定カメラで映像に記録された。また、遊び終わって「ひとつの世界」ができあがった箱庭を、さまざまな角度から撮影した数百枚の画像を元に3Dデータをつくり、3Dプリンターで立体化した。掌にのるほどの小ささに縮小された「箱庭世界」は、宝物のようにアクリルボックスに飾られ、下から照らすライトの光で白く輝き、美しくも脆い砂糖細工を思わせる。それは同時に、写真とも彫刻ともつかず、細部の解像度がぼやけた、曖昧な揺らぎを抱えている。
一方、子どもたちの遊び方や箱庭世界の造形は、驚くほど多様性に満ちている。プラスチックの容器で型抜きに没頭し、「砂自体の造形」に興味がある子。玩具のレールと列車を持ち込んでトンネルを掘る、下地のブルーを水に見立てて「川」を開通させ橋をかけるなど、土木系に関心がある子。おままごとセットのハウスを置き、人形でストーリーを展開させる子。一人なのか、兄弟姉妹がいるのかによっても遊び方は変わってくる。
ここで、本展を、キリコの近作の展開のなかに位置づけて俯瞰すると、より作品の意味が拡がって見えてくる。不妊治療中に制作した前々作《mother capture》(2017)では、「窓辺の室内で授乳する同年代の母親」の背後にビデオカメラを設置し、授乳中はその場を離れ、映像からキャプチャした画像を写真作品として提示した。「母子の親密なコミュニケーション」の場に自らの身を置かず、「表情」を見せない撮影手法により、「母になること」に対する距離感や疎外感が表出する。また、出産を経た前作《school goods》(2021)は、子どもが通う幼稚園から「手作りの布小物」の用意を指示されたことに対する違和感や疑問を出発点に制作された。一切の装飾を剥ぎ取って白一色の布で制作された手さげバッグや巾着袋は、「手作りこそ母親の愛情の証」「裁縫は母親が家庭内で従事すべき再生産労働」とする社会的規範を問うとともに、色やデザインを通して「子どもの持ち物」に浸透するジェンダー規範を文字通り漂白する。家事や育児、ケアといった「シャドウワーク」を担う母親の声は、蓄光性の白い糸で刺繍され、わずかに浮かび上がるのは「暗闇の中」だけだ。
母になる前と、母になってからのアンビバレントな感情。そして、本展では、「それぞれの子どもが、一人ひとりこんなに違う世界をもっている」ことの可視化を通して、「子ども自身の世界」が親から分離し自立し始めた。それは、子どもとの距離の取り方に関して、親にとっても療法的な側面があるのではないか。子どもを支配下におきたい気持ちが過干渉を生むのではなく、「子どもは親から独立した一個の人格である」ことを尊重すること。 一方、「すぐに消え去ってしまう砂遊びの造形を、写真という記録メディアを介在させて3Dプリントで結晶化する」行為は、「子どもの成長やかけがえのない一瞬を形として残したい」という親の気持ちの現われでもある。砂糖細工のような儚さは、美しいが触れただけで壊れそうな脆いものでもあるという両義性を示唆する。
子どもたちがそれぞれ形作る箱庭世界は、自立と自己形成の第一歩でありつつ、「箱庭のフレーム」の内側に規定されている。そのフレームは同時に、「家庭」というもう一つ外側のフレームを入れ子状に示唆する。子どもたちはそれぞれ自分自身の世界をすでにもっているが、保護された領域内にまだ留まっており、親や周囲の環境の影響が入り込む。親がどのような玩具を買い与えるのか。「箱庭のフレーム」は、女児用・男児用の玩具として弁別された、ジェンダーの枠組みでもある。砂の大地にレールを敷いて列車を走らせ、ウルトラマンのフィギュアで遊ぶ男の子。一方、女の子が遊ぶおままごと用ハウスにはキッチンが完備され、「物干しセット」には小さな布が干され、「家事の予行演習」がすでに行なわれている。樹脂の白さで漂白されつつ、なおも残存するジェンダー差。
興味深いことに、「箱庭のフレームの外側」に砂や玩具をはみ出させて遊びを展開する子どもはいなかった。映像は無音だが、「汚さないでお行儀良く遊んで」という親の注意があったのかもしれない。子どもたちの世界はいつか、「フレーム」を壊してその外側に出て行くのだろうか。
キリコ 公式サイト:https://moritasuzu.wixsite.com/kirico
ギャラリー 公式サイト:https://naneiart.com/wp/event/キリコ-個展「-the-world」/
関連レビュー
キリコ「school goods」|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年04月15日号)
キリコ展「mother capture」|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年03月15日号)
2023/04/16(日)(高嶋慈)
山城知佳子 ベラウの花
会期:2023/03/21~2023/06/04
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館[香川県]
「山城知佳子 リフレーミング」(2021、東京都写真美術館)、「Tokyo Contemporary Art Award 2020-2022 受賞記念展」(2022、東京都現代美術館)、初期作品が一挙に収蔵された「コレクション1 遠い場所/近い場所」(2022、国立国際美術館)と、国公立美術館での大きな展示が続く山城知佳子。西日本初の大規模個展となる本展では、初期の「オキナワTOURIST」3部作(2004)から新作《ベラウの花》(2023)までの計18点が展示された。映像中心の展示は「音響の干渉」がネックだが、本展ではあえて展示壁での分断やヘッドホン着用を設けず、作品どうしの音が戦略的に共振する秀逸な音響設計が行なわれた。
会場に入ると、まずはくぐもった水音が聴こえてくる。海中に沈み、奇妙な水中植物のように揺らめくマイクの束から空気の泡が立ち上り、「抑圧された声の解放」とその「聴きとれなさ」を同時に示す《沈む声、紅い息》(2010)だ。会場を進むにつれ、作品どうしの境界線が音響とともに混ざり合い、波の音に歌う声や銃声が重なり合い、死者/生者の境界線も揺らいでいく。マイクに封じられた(匿名的な死者たちの)記憶と声。木漏れ日の濃い陰影の中に潜む人々が大地と一体化したかのように横たわる《コロスの唄》(2010)(本展出品作ではないが、代表作の《土の人》[2016]を予感させる)。
《肉屋の女》(2012)から《チンビン・ウェスタン 家族の表象》(2019)へと続く展開では、神話的世界と基地をめぐる沖縄の生々しい現実が交錯する。《チンビン・ウェスタン 家族の表象》で描かれる2組の家族のうち片方には、辺野古の埋め立て用の土砂を運搬する仕事に就く父親が登場する。リビングを舞台に、父親と母親がそれぞれオペラと琉歌で「理想的な家族愛」を歌い上げる噛み合わない掛け合いと、それを冷静に見つめる子どもの眼差しは、「基地問題」が政治の世界だけのものではなく、家庭内をきしませる要因でもあることを突きつける。本展では新たなインスタレーションとして構成し、真っ赤な布に包まれた一見かわいらしい「子ども部屋」の中で上映された。だが、中央のテレビ画面を見つめるのは、米軍基地の子ども向け土産品と思われる、陸軍や海軍の制服を着たテディベアたちだ。
この子ども部屋に開けられた「窓」からは、隣の作品の巨大なスクリーンが視界に入り込み、「ある老人の記憶」を思わせる映像が流れ込んでくる。新作《ベラウの花》だ。ゆっくりと町を歩き、バスに乗る老人。窓際の席に座る老いた横顔。だが、「車窓の風景」のトーンは粗くざらついた質感に変わり、どこか外国の南国の風景が流れていく。ヤシの木が続く道、廃墟を背に泣いている幼い男の子、草の上を転がる白い花、波しぶき、伐採が進むジャングル。「バスに乗る老人」の鮮明な映像と、南国の粗い映像が交互に映される。
本作は、山城自身の父親である小説家の山城達雄が、戦時中、日本の委任統治領だったパラオで幼少期を過ごした経験をもとに制作された。「ベラウ」とはパラオ共和国の言語で「パラオ」を指し、作品タイトルは山城達雄の同名の短編小説に基づく。沖縄の映像はデジタルで、パラオの映像は8ミリフィルムで撮影された。映像の質感の違いは、「記憶を旅するバス」に私たちも乗り込み、現在と過去、沖縄とパラオを行き来する旅に同行しているような感覚を生み出す。同時に、現在と過去の境目が混濁する時間感覚は、認知症的でもある。また、しばしば挿入される「何も映らず、感光の跡だけが赤く焼きついたコマ」は、フラッシュバック、記憶の空白、「編集」済みの記憶を示唆する。
さらに本作が周到なのは、「現在・沖縄・客観性=鮮明なデジタル映像/過去・パラオ・主観的記憶=粗い8ミリ映像」という二項図式が崩される瞬間だ。幼少期の断片的な記憶を再生するように次々と映されるパラオの風物。「歩く老人の後姿」にカットが切り替わるが、映像の質感は粗くざらついたままで、「現在」には戻れない。だが老人がバスに乗り込むと、鮮明な「現在」に時間が移動する。キャプションには上映時間は明記されず、「ループ」とだけ記される。「終点」「目的地」でバスを降りず、メビウスの帯のようにつながった現在と記憶を永遠に行き来する老人は、認知症が方向感覚を喪失した「記憶のなかの徘徊」でもあることを示す。パラオの風景は光にあふれてひたすら美しく、沖縄戦の記録映像を引用した《土の人》とは異なり、「戦争」の映像は不在だ。だが、隣接する《チンビン・ウェスタン 家族の表象》で「インターバル」として挿入される、ヒューマンビートボックスによる激しい銃撃の音が侵入し、「トラウマ的な記憶の欠落」を音響的に示唆する。そして、彼の抱える個人的な「記憶障害」は、「移民政策により、パラオやサイパンなどの南洋諸島、ハワイや南米に移住した沖縄人」をほぼ記憶喪失している現在の日本についての謂いでもある。
この《ベラウの花》の先に広がるのは、同じ老人が佇む浜辺を、シルエットがぼかされた無数の人々が行き交う8チャンネルの映像作品《彼方》(2022)だ。靴を履いた老人に対し、裸足の人々は「死者」を思わせる。死者の幻影と生者が交錯する記憶の波打ち際。ここでもまた、老人自身の幼少期にも見える男児が登場する。男児が掬い上げる泥遊びの土は、泥を掴む老人の指とオーバーラップし、「無邪気な遊びの記憶の再演」とも「指の間からこぼれていく記憶の形を留めたい」願望ともとれる。そこに、これまで通過してきた作品群の音響──波しぶきの水音、銃声あるいはブルドーザーの轟音、女性の歌声──が重なり合い、観客自身の鑑賞体験も「記憶の残響」として混ざり合う。
この《彼方》は、「Tokyo Contemporary Art Award 2020-2022受賞記念展」での初公開時は、《チンビン・ウェスタン 家族の表象》とともに展示されたが、両作品の関連性が見えず、展示としてはまとまりを欠いた印象だった。だが本展では、《ベラウの花》がクッションとなり、説得力のある軸線を描き出していた。
《ベラウの花》は、また別の角度から見ると、「沖縄の記憶」という山城のライフワーク的テーマに対し、映像メディウムへの自己言及を組み込んだ点で新たな展開でもある。実際には、山城の父親がパラオにいた戦前、カラー8ミリフィルムはまだ一般的に普及していない。にもかかわらず、私たちは「山城の父親自身の記憶」であるかのように錯覚してしまう。「映像メディウム自体の歴史や差異により、“時間差”を発生させ、記憶をフィクショナルに捏造する」という新たな語り方を手にした山城の今後にも注目したい。
なお、「沖縄における記憶と現在」をメディウム内部の差異とともに扱う姿勢は、同時期に開催されたオサム・ジェームス・中川、タイラジュン「UNDERFOOT」展とも共通しており、同評をあわせて参照されたい。
公式サイト:https://www.mimoca.org/ja/exhibitions/2023/03/21/2652/
関連レビュー
オサム・ジェームス・中川、タイラジュン「UNDERFOOT」|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年05月15日号)
コレクション1 遠い場所/近い場所|高嶋慈:artscapeレビュー(2022年08月01日号)
KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2017 山城知佳子「土の唄」|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年05月15日号)
山城知佳子作品展|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年12月15日号)
2023/04/23(日)(高嶋慈)
グラフィックトライアル2023 ─Feel─
会期:2023/04/22~2023/07/09
印刷博物館 P&Pギャラリー[東京都]
本展は、第一線で活躍するクリエイターと凸版印刷とが協力し合い、新しい印刷表現を探るという恒例のプロジェクトである。今回のテーマは「Feel」。これにはコロナ禍がそろそろ終わりを迎え、先行き不透明な時代でありながらも、我々はより健やかに前向きでありたいといった思いが込められている。参加クリエイター4組がそれぞれに得意とする分野でアプローチをしたなかで、私が注目したのはアートディレクター・グラフィックデザイナーの木住野彰悟の作品「再構築」だ。円柱状の紙製飲料容器「カートカン」のリサイクル回収品をはじめ、段ボールの端材、断ち落とされたカラーバー(印刷時に色濃度の管理を行なうためのマーク)、製本加工時のクズなど、廃材を再利用して紙を漉くというトライアルを行なっていた。もちろん再生紙自体は珍しい試みではない。しかしこのトライアルではあらゆる産業廃棄物が工夫次第でアップサイクルも可能になるという、明るい未来を指し示しているように感じたのだ。
廃材を細かく砕き、水でドロドロに溶かし、手漉きと機械漉きの両工程を経て生まれ変わった紙は、実にユニークな表情をしていた。カラーバーを原料とした再生紙は、赤や青などの鮮やかな色が繊維の中にわずかに見え隠れし、その面影を残す。当然、これらの再生紙にまっさらな白さはない。しかし従来のように漂白するのではなく、表面に白インキを一度あるいは二、三度刷ることで、印刷紙としての機能を十分に果たすことを検証したのである。結局、再生紙ならではの風合いを「個性」として人々が積極的に認めるかどうかではないか。実際に商品化にあたってはコスト面や製造方法などを整備する必要があるだろうが、これはSDGsに適った問題解決であり、多様性にもつながる価値を持った商品になるのではないかと感じた。
また、凸版印刷でアートディレクター・デザイナーを務める島田真帆の作品「風光」は、特殊インキと特殊紙を組み合わせて、日本の四季を繊細かつ淡い色調で表現したものだ。彼女が同社で企業カレンダーの企画制作を手がけてきたという経歴に納得した。特段、風景写真や絵がなくても、色彩のニュアンスだけで四季を表現できるという点が興味深かった。それだけ日本人が四季に対するイメージをしっかりと持っている証なのだろう。こんなビジュアルのカレンダーがあったら、わが家にぜひほしい。
公式サイト:https://www.toppan.co.jp/biz/gainfo/graphictrial/2023/
関連レビュー
グラフィックトライアル2022 ─CHANGE─|杉江あこ:artscapeレビュー(2022年05月15日号)
グラフィックトライアル2020 ─Baton─|杉江あこ:artscapeレビュー(2021年06月15日号)
2023/04/25(火)(杉江あこ)
ARTIX㎥オープン記念展「中間地帯 interface」
会期:2023/04/28~2023/05/28
ARTIX³(アーティクス・キューブ)[東京都]
近年、大学の写真学科や写真専門学校の学生のうち、中国人留学生が占める割合が、急速に上がってきている。一部の写真専門学校では、半数以上が中国人という学年も出てきているほどだ。また、各種の公募企画でも中国人作家が入賞することが多くなった。今後、彼らの影響力はさらに大きくなっていくのではないだろうか。
そのような状況において、ともに東京藝術大学先端芸術表現専攻で学んだ許力静と王露を中心として、日本と中国の写真家たちの交流を促進することを主な目的として、日本国際文化芸術協会(JCA)が設立された。その展示・発表の場として、東京・根岸にギャラリー・スペース、ARTIX㎥(アーティクス・キューブ)が開設され、オープン記念展として林志鵬(リン・チーペン)、張克純(ジャン・クゥーチュン)、陳蕭伊(チェン・シャオイ)による3人展が開催された。
若い男女の「愛と混沌」の状況をポップなタッチで描き出す林、植木や庭石の流通センターの情景を批評的に切りとってくる張、中国中西部の山岳地帯の鉱山遺跡を、重厚な叙事詩を思わせる映像作品として提示する陳――彼らの作品が、まったく別な方向に引き裂かれているところに、中国現代写真のあり方が端的にあらわれている。だが逆にそれぞれの制作環境の違いが、作品にヴィヴィッドに反映されていて、見応えのある展示になっていた。ARTIX㎥が今後どのような方向に進んでいくのかはわからないが、日本と中国の実りの多い相互交流の場としての活動を期待したい。
公式サイト:https://www.jca3.art/interface
2023/04/28(金)(飯沢耕太郎)
吹きガラス 妙なるかたち、技の妙
会期:2023/04/22~2023/06/25
サントリー美術館[東京都]
本展に出品されている現代ガラス作家、関野亮の作品「Goblet(mezza stampatura)」シリーズを、実は私が関わるクラウドファンディングで販売させてもらったことがある。彼は若い頃からヴェネチアングラス様式に憧れ、挑戦し、自らの腕を磨いてきた実力派だ。ヴェネチアングラス特有の超絶技巧を透明ガラスで再現することで、装飾的でありながら洗練された作品を多く生み出している。吹きガラスの道に進んだ理由として、「一つひとつの制作時間が非常に短いので、結果がすぐにわかり、何度も試行錯誤できる」ことを彼は挙げている。確かに熔解炉でガラス種を熔かし、熱いうちに息を吹き込んで成形・加工する吹きガラスは、スピード勝負だ。それゆえに型を用いたとしても、つくり手の技量に大きく左右される技法と言える。
本展は古代ローマ、中世ヨーロッパおよび東アジア、近代日本と、古今東西の吹きガラス作品を一覧できる展覧会である。こうして見ると、吹きガラスの成形・加工(ホットワーク)が、15〜17世紀のイタリア・ヴェネチアでひとつの頂点に達したというのは頷けるし、現代ガラス作家が自らの技を磨くうえでひとつの目標にする様式であるのも納得できた。おそらく現代よりも設備が整っていない工房で、当時の職人たちは切磋琢磨して複雑かつ繊細な装飾をつくり上げたに違いない。その彼らの情熱が遺された作品からもヒシと伝わった。
一方で、日本の明治末期から昭和初期にかけて多くつくられたという「氷コップ(かき氷入れ)」にも心惹かれた。確かにこの形状のガラス器を骨董品でよく見るような気がする。まだ紙コップが普及しておらず、冷菓といえばかき氷くらいしかない時代に、氷コップは産業吹きガラスの象徴と言えるものなのだろう。至極シンプルな形状で、凝った技巧があまりないからこそ、親しみがじんわりと湧く。近代日本の文化の一端を知れて興味深かった。また、新進気鋭の若手作家の現代アート作品を鑑賞できたのも有意義だった。器という機能を離れ、純粋にガラスを使って造形表現をした作品は、どれもダイナミズムにあふれている。このダイナミックさは、吹きガラスだから実現できたに違いない。ガラスを熱で熔かすと、まるで飴細工のごとく操れるからだ。現代アートとして見ても、吹きガラスは魅力的な素材と技法であることを痛感した。
公式サイト:https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2023_2/
2023/04/28(金)(杉江あこ)