artscapeレビュー

2023年11月01日号のレビュー/プレビュー

笹本晃《パフォーマンス記録映像 ストレンジアトラクターズ》(「森美術館開館20周年記念展 ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」より)

会期:2023/04/19~2023/09/24

森美術館[東京都]

先月のレビューで森美術館の「開館20周年記念展 ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」について取り上げたのだが、そのなかでも「浮いている」と思ったのが笹本晃の《パフォーマンス記録映像 ストレンジアトラクターズ》(2010)である。その理由はひとまず置いておいて、展覧会のなかで記録映像然として比較的小さなディスプレイで展示されていた本作を簡単に説明するならば、30分ほどで人間を4つの分類として語るレクチャーパフォーマンスの記録映像だ。

レクチャーがどのような場所で行なわれているかというと、長机が3つも入れば窮屈になりそうなインスタレーションの中でである。そこには天井から吊るされた10ばかりの赤いネット。一つひとつのネットには、ビデオカメラだったり、ラベルのないカップ酒のようなものが入っていて、その自重で赤い網はピンと伸びきっている。たまに笹本が網に触れて揺れる。ステンレスか何かの円と半円でできたシャンデリア、マイクが仕込まれた机、円座クッション、人がひとり入れるくらいの筒。笹本がたまたま触れたように思える机には、レクチャーで必要な備品が仕込んであったりする。この中を笹本は歩き回り、机や壁に貼った紙でダイアグラムを描いたり、話し続ける。その内容は実のところ多岐にわたる。お気に入りのドーナツについて、筒と人体の類似点、7人の霊能力者に会ったこと。しかしながら、最後に語られるのは、人間の4分類である。

人間の99.9%であり群れを好むノーム。研究室に籠る日常と日課に満足しているカフナー教授。あらゆるノームが魅了され奉仕するもノームに興味がなく無視するティンク。ノームに嫌悪されノームの群れからティンクを識別できるオッズ。オッズはかつて(別の生で)ティンクであり、ティンクはかつて(別の生で)オッズだったから相互に感知でき、カフナー教授はかつて(別の生で?)ノームだったから、ノームについて理解できると解説が入った。

例えばオッズの幼少期はノームによるいじめによって特徴づけられると語られるように、それぞれの性質は他者によって相互に浮かび上がってくるのだ。

この解説をするにあたり、笹本はこの四者がどういった次元で存在しているのかを図示していく。それが会場にあったドローイングに見える図だ。それぞれ、《ストレンジアトラクターズ─図 2011年1月9日》、《ストレンジアトラクターズ─図 2010年12月18日》、《ストレンジアトラクターズ─図 2010年1月31日》と別日に開催されたパフォーマンスのなかで描かれていることがわかるし、この図を見ることで、どこか傍若無人なレクチャーに、明確な再現性が担保されていることがまざまざと示される。空を飛ぶように生きるティンクに対置するように、オッズは99.9%の人間に嫌われながら地底に生きるという。なんて悲惨だと思ったのも束の間、しかし、オッズは人生で一度、土から飛び立つことができるらしい。でも、世界のあまりの明るさに眼がくらんでその出芽はうまくいくとは限らないのだと笹本は続ける。

笹本によるレクチャーは4つの分類を俯瞰するように話が進むが、後半になるにつれ、語りの主体はオッズの視点が強くなっていく。そしてつぶやく。「この人生の目的はカフナー教授をみつけること」。

「それぞれのグラフは重なり合っているのかもしれない」「それが可能なら きっと 私は他のタイプに会えるだろう」「もし可能なら 私は孤独から抜け出せるだろう」。

笹本がつくり出したオブジェのなかで繰り広げられる4分類についての問答は、ジョックやクイーン・ビーを頂点とした「クリーク」ないし「スクールカースト」に似た節がありつつも、それぞれの分類が、自身の振る舞いや努力の過多、能力の傾向の問題でないという点で、運命に近しい。結果、人種や年齢やジェンダーといったさまざまな要素を加味したインターセクショナリティーの観点をどこか想起させるが、そういった性質の話とも違う。なぜなら本作で人間は、筒でしかないという話も出ていたわけだから。

レクチャーの途中で、土から出たオッズの行方はいくつか例示されるが、そのなかでもノームの世界に入ることができた場合は幸運なようだ。ただし、ノームの外側にいた者がノームの内側に入ることとは、「内側と外側に同時に居るもの」というモチーフで重ねられていく。それはドーナツの穴であり、痔であり、孤独という言葉で語られる。

「この人生の目的はカフナー教授をみつけること」。カフナー教授はノームのあれこれを記述する存在だ。だからオッズが求める「カフナー教授をみつける」とは、ある意味での言語化、社会的な理解を得る糸口に出会うことそのものだとも考えられる。美術作品に対する「カフナー教授」がいるとしたら、それはキュレーターかもしれないし、たまたま作品に出会った鑑賞者の可能性もある。

映像は笹本による「あっち行け」の連呼で終わる。これはオッズがノームに言われてきた言葉のはずだ。本作にとってのカフナー教授はどこにいるのだろうか。わたしの完全な憶測だが、カフナー教授だけは、後天的に発生した存在に思われてならない。

本展で本作が浮いていたと思ったのは直観的なものだが、その理由を考えてみると、なぜこの展覧会にこの記録映像があるのかという視点がキャプションで触れられていなかったからだ(もう一方の笹本の作品《ドゥー・ナット・ダイアグラム》で紙幅が足りなくなったように思える)。その他方で本作は、「あっち行け」という幼げな口調の連呼が暗示するように、クラスルームで起こる悲惨な出来事そのものについて、そしてその相関関係が学校というよりも社会全体とどう連続するかも含意している。30分近くある小さなディスプレイの記録映像はなかなか通しで見られる対象ではないだろう。しかし、本展が「知識」を中心に据えていたことを念頭に置くと、カフナー教授の不在を巡るこの記録映像は重要な作品のひとつだったと思う。

本展は平日2000円、土日祝は2200円で観覧可能でした。


開館20周年記念展 ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会:https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/classroom/02/index.html

2023/07/01(土)(きりとりめでる)

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ソー・ソウエン「Your Body is the Shoreline」

会期:2023/09/16~2023/10/14

√K Contemporary[東京都]

ここ最近、なんとか働きながら、わたしはソウルに断続的に滞在している。でもソウルといってもかなり森のほとり。最寄りのスーパーまでバスを乗り継いで20分くらいかかる(コンビニは徒歩20分)。鶏卵を買いたくて巨大なスーパーをウロウロしていたら、30個入りがあった。6個入りより断然お得。ただし、その卵ケースは下が再生紙、その上にプラスチックのカバーがふんわり掛かっていて、再生紙とプラスチックは30個の卵をサンドイッチしているだけで、両者を束ねる十文字に掛けてある結束テープが頼みの綱だった。買おうと持ち上げた途端、ぐにゃりと再生紙がたわみ、卵がケースからズルズルと落ちていきそうな気配を感じる。バスで帰るには荷が重いと、買うのをやめた。


展示風景[画像提供:√K Contemporary]


ソー・ソウエンの個展が東京の神楽坂にある「√K Contemporary」で開催された。間接照明の効いた広い空間に入ると、スポットライトを浴びた鶏卵が床に点在していた。卵はフロアのタイルの目地にうまく収まっていて不安定な様子はない。ものによってはお尻がひび割れていた。壁には二つのパフォーマンスのアーカイブ映像が掛かっている。

ひとつ目は屋外のポールの傍らに立つ人の映像だ。その人は上半身裸で、ポール(や木)と身体の間に卵を介在させている。卵が割れないように、愛しいものにこんな風に頬擦りできたらいいなというように。もう一方は女性のかかとと床の間に卵が挟まっている状態を撮影したもの。つま先立ちをしているのか、卵は案外割れない。とはいえ、スカートの裾から覗くかかとの様子からして、力加減をコントロールしているわけでもなさそうだった。程なく卵はピキっと音を立て、かかとはゆっくりと卵の殻を崩していき、黄身と白身をどろりと押しつぶしていく。

わたしは壁にもたれ掛かって映像をぼんやり見ていたが、足元を見ると、会場の壁際をぐるりと一周するように文字が書かれている。冒頭だけ抜粋しよう。


「《エグササイズ》 Eggsercise 傷つきやすい身体で生きていく理由が知りたい。くぼみやへこみ、柔らかいところ。どうしてこんな形をしているのか知りたい」。


展示風景[画像提供:√K Contemporary]


ソウエンは点描画で有名な作家だ。この卵をめぐる作品を見た後でペンティングを見ると、その1点ずつが、描かく対象を見つめた行為の軌跡に見えてくる。いくども、いくども、触れるように眼差したのだろうか。ひとしきり作品を見回ると、吸気と呼気が音声として会場に響いていることに気づく。ペインティングの掛かる壁の隅に設置されたスピーカーはソウエンの呼吸を伝えるものだ。点描画の反対側には「すいこむ はきだす」と鉛筆で書かれ続けたキャンバスがあった。無意識的な行為としての呼吸ではなく、何かがすいこまれ、はきだされているし、それを続けなくてはならないという、物質としての人間の静かな強迫観念がまとわりつく。「僕達は本当に怯えなくてもいいのでしょうか」と彫りつけ続ける福岡道雄と比べれば、次の瞬間には忘れてしまいそうだが幾度となく襲ってくるような。こうなってくると、先の点描画も、触れるように眼差すというより、その描かれた対象が確固たる個物として眼差されたというよりも、すべてを点で描くことが、すべての自然、あらゆる事物が等価であるという立場に基づいた描画に思える。


展示風景[画像提供:√K Contemporary]


展覧会の順路は、このペインティングのフロアから地下へとエレベーターで向かう。真っ暗な会場に広がっているのは15個ほどのディスプレイに映し出された呼吸で上下するヘソの映像だった。ディスプレイごとにそれぞれの呼吸の音が流れているようだが、ディスプレイ同士の距離が近く、呼気の違いを辿ることができない。肌の色と質感、傷跡、脂肪の具合。区別可能なほどに異なる、個を直観させる身体的部位としてのヘソは、その一方で他者と十月十日つながった形跡でもある。哲学者のエマヌエーレ・コッチャが「生物と無生物の間にはいかなる対立もない。(中略)生はつねに無生物の再受肉であり、無機物の組み合わせであり、一つの惑星」★1だというときに、ヘソは過去のあらゆる生物の集合であり通過点であるゆえに、もっとも人体において個が表われる部位だろう。しかし、人はその生において平等ではない。

ソウエンはステートメントで「『わたしの身体はわたしのもの』という考えは(ジェンダー、階級などにおける)様々な闘争のもと確立されてきました」と、「わたし=身体」という前提が人類が獲得してきた革命の結果であると同時に、個人主義や大きな分断と隣接する契機となったことを記述する★2。呼気が主要なモチーフであることを加味し、例えばジャン=リュック・ナンシーもまたcovid-19がその生物(と無生物)の等価性に人類が立ち返る可能性を見出したが、それは叶わなかった★3ことが想起される。ソウエンの言葉は次のように続く。「本展が、上に述べた人類の革命の歴史に敬意を払いつつ、身体というわたしから近くて遠い場を探求する様々な実践を通して、生きることがもたらす傷やジレンマを眼差し、解きほぐしていく機会になることを願っています」。


ソー・ソウエン《Bellybutton and Breathing─お臍と呼吸》展示風景[画像提供:√K Contemporary]


なぜソウルで鶏卵はこんな傷つきやすい売られ方をしているのだろうか。聞くと、30個入りの卵は移動販売の名残らしい。わたしはどうしても30個入りの卵が買いたくて、今度はタクシーで帰ることにした(ソウルはタクシーがとても安い)。持ち上げた瞬間とてつもない緊張が走った。卵を食べるという人類の歴史は長い。紀元前約1万年前、狩猟採集民族であるクロマニョン人による壁画にはすでにタマゴが描かれ、彼らは放浪生活から定住生活へ移行するなかでメスの野鶏の家畜化を進めたし、紀元5世紀頃著された世界最古の料理書『料理大全』にはカスタードクリームのレシピが記載されている★4。ソウエンはなぜ卵に頬擦りすることにしたのか。それは、人類がもっとも手づから割ってきた命だからだろう。21日間温めたら孵化しただろう卵は命の象徴であると同時に、無生物でもある。人は人に対してどこまでも残酷になるにもかかわらず、かかとで割ってしまった卵へも時に罪悪感を抱くのであれば、この生物と無生物の等価性、曖昧さに立ち返ることは、あらゆる事物もまた自己と結びつくということに人が立ち返るひとつの方法になりうるのかもしれない。

ソウエンならこの30個の鶏卵をどうするのだろうと思った。会期中、ソウエンが会場と自身の体の間に卵を挟むパフォーマンスが行なわれた。その様子をもし見ていたら、ソウルのスーパーでのソウエンの振る舞い、すなわち、きわめてバナキュラーで個別具体的な卵とソウエンの付き合い方もまた想像できた気がする。


本展は無料で観覧可能でした。なお、まもなく京都で「FATHOM─塩田千春、金沢寿美、ソー・ソウエン」が開催されるそうです。



★1──エマヌエーレ・コッチャ『メタモルフォーゼの哲学』 (松葉類+宇佐美達朗訳、勁草書房、2022)p.11
★2──ステイトメントの全文はこちら。
https://root-k.jp/exhibitions/soh-souen-your-body-is-the-shoreline/
★3──きりとりめでる「湯田冴 個展『惑わせるもの When a meteorite crushed』」(artscape2023年01月15日号)を参照のこと。
https://artscape.jp/report/review/10182123_1735.html
★4──ダイアン・トゥープス『タマゴの歴史』(村上彩訳、原書房、2014)pp.41-47。


Soh Souen「Your Body is the Shoreline」:https://root-k.jp/exhibitions/soh-souen-your-body-is-the-shoreline/

2023/09/21(木)(きりとりめでる)

石巻の震災遺構

[宮城県]

1年半ぶりに石巻を回り、昨年オープンした《石巻市震災遺構》門脇小学校を訪れた。背後が崖になっており、手前の校庭はおそらくその領域と広さがわかりにくくなったため、道路側に門柱を復元している。門脇小学校は津波に襲われただけでなく、火災も発生し、焼けただれた跡が痛々しい建築だった。それゆえ、一時は解体の声が上がっていたが、震災遺構として保存することになり、維持管理のコストを抑えるために、両ウィングの部分をカットし、全体のボリュームを減らしている。プロポーションはおかしくなるが、こうした手法は近代建築の保存でもたまに行なわれており、前例がないわけではない。


学校、チューブ、屋内運動場(門脇小学校)


さて、ここでは被災した建築を部屋の外から覗く観察棟をつくる一方、被害が少なかった特別教室棟と屋内運動場は展示空間として再生されている。また校舎の右脇に海とかつての住宅地(現在は津波復興祈念公園)を望む、チューブ状の空間が張り出す。1階は津波被害によりモノが散乱し、天井が壊れているが、2階と3階はむしろ火で焼かれた現場のために、黒焦げになった机や椅子の位置はそのままだった。改めて考えると、火災が起きた建築をそのまま保存する事例は珍しい(なお、在校していた児童に死者はいなかった)。また屋内運動場に仮設住宅の実物を設置しているが、意外にこうした展示はこれまでの伝承館になかった。特別教室棟の展示も、ポエム的なパートを除くと、とても充実した内容である。


津波が直撃した1階(門脇小学校)


焼けた3階(門脇小学校)


仮設住宅の展示(門脇小学校)


みやぎ東日本大震災津波伝承館がある石巻南浜津波復興祈念公園は、一部、破壊された建築の基礎を残したり、住宅街のときの道路割を踏まえたランドスケープを展開している。ただ、座るベンチはわずかで、子供が遊ぶ雰囲気もあまりない。メモリアルの場所とはいえ、せっかくの広大な空間がもったいないように思われた。「がんばろう石巻」の看板を置く市民活動のエリアのみ、異空間として飲食などの居場所が存在する。

今回は、被災状況の展示があるかを確認すべく、再開した《石ノ森萬画館》にも立ち寄った。展示エリアにはまったくないため、もうないのかと思ったら、最上階のカフェの横にわずかながら当時の状況を説明する写真が貼られていた。津波到達点を示すマークを見ると、1階の物販エリアの柱の上の方まで届いている。ゆえに、上階の展示や貴重な資料は被害を受けなかったが、機器が損傷し、しばらく空調管理ができなかったため、資料はすべて石森プロダクションに返却したという。


当時の被災状況の説明写真(石ノ森萬画館)


1階ショップのガラスに津波遡上高が示されている(石ノ森萬画館)


また隣にある《旧石巻ハリストス正教会教会堂》を再訪した。これも311で被災した明治時代の木造の教会だが、流されず、修復を終えている。そもそも別の場所に建っていた教会だが、1978年の宮城県沖地震で被災し、現在の場所に移築・復元されたものだった。すなわち、震災と津波によって、2回も被害を受けた建築である。


説明パネル(旧石巻ハリストス正教会教会堂)



石巻市震災遺構:https://www.ishinomakiikou.net/
石巻南浜津波復興祈念公園:https://ishinomakiminamihama-park.jp/about/
石ノ森萬画館:https://www.mangattan.jp/manga/
旧石巻ハリストス正教会教会堂:https://www.city.ishinomaki.lg.jp/cont/20102500/1482/1482.html

2023/09/29(金)(五十嵐太郎)

パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展─美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ

会期:2023/10/03~2024/01/28

国立西洋美術館[東京都]

キュビスムは20世紀の初めにピカソとブラックが始めた芸術運動で、セザンヌの形態の捉え方やアフリカの仮面彫刻などに触発され、世界を立体(キューブ)や円柱といった幾何学的形態に還元し、面の集まりとして再構築していくスタイルを確立。ルネサンス以来の一点透視図法を否定する多焦点的なものの見方を提示し、20世紀美術に革命を起こした。……くらいの知識しか持っていなかったので、この展覧会はとても刺激的だった。

展示の最初はやはりセザンヌから始まり、ゴーガン、ルソー、アフリカ彫刻へと続く。同展はタイトルの頭に「パリ ポンピドゥーセンター」とついているように、大半の作品は同センターからの借りものだが、最初のセザンヌ、ゴーガン、ルソーはポンピドゥーの守備範囲ではないため国内で調達したもの。キュビスムへの影響を見るなら、もっとふさわしいセザンヌやゴーガンの作品がありそうだけどね。続いてピカソ、ブラックらの初期キュビスム作品が並ぶ。当然ながらMoMA所蔵の《アヴィニョンの娘たち》(1907)は出ていないが、1907〜1908年に制作されたピカソの《女性の胸像》や、ブラックの《大きな裸婦》および「レスタック」連作は、セザンヌやアフリカ彫刻からキュビスムが形成される過程が見てとれる。

いちばんの見どころは、1909〜1911年のピカソによる《裸婦》《女性の胸像》《肘掛け椅子に座る女性》あたり。切り子ガラスのように人物や背景が幾何学的に分割され、キュビスムといえば思い浮かぶイメージそのものだ。これら人物画に対抗するかのように、1910〜1913年にブラックは《円卓》《ヴァイオリンのある静物》など一連の静物画を制作。これも直線によりモチーフや背景が分割されているが、なぜか水平線は右肩下がりだ。キュビスムは理知的、幾何学的ともいわれるが、こうした画家のクセが出てしまうところが人間臭い。この時期二人は影響を受け合ったのだろう、1914年のピカソの《ヴァイオリン》とブラックの《ギターを持つ男性》を比べると、素人ではどちらがどちらの作品か区別がつかない。

1910年を過ぎると、ピカソとブラックのほかにもキュビスムの影響を受けた画家たちが続々と登場してくる。レジェ、グリス、メッツァンジェ、ドローネー夫妻らだ。レジェとグリスはキュビスムの造形表現をさらに進化させ、メッツァンジェは多焦点的な表現の帰結として時間と動きを与え、ドローネーはモノクロームに近かった画面に豊かな色彩をもたらした。ここらへんは大作が多く、また色彩や形態が多様化しているので見応えがある。

もともとピカソとブラックはカーンワイラーという画商がついていたが、それ以外の画家はサロン・デ・ザンデパンダンやサロン・ドートンヌといった公募展を唯一の発表の場としていたため、前者を「ギャラリー・キュビスム」、後者を「サロン・キュビスム」と呼ぶらしい。ギャラリー・キュビストは発表の場が限られていたので社会的広がりをもてなかったが、サロン・キュビストのほうはサロンを舞台に集団で展示を行ない、運動としてのキュビスムを推進していく役割を果たした。こうしてキュビスムは芸術的にも社会的にも大きな広がりを持つようになった一方で、運動がポピュラー化し、拡大解釈されて「だれでもキュビスム」化していったように思えてならない。

さらにキュビスムはデュシャン3兄弟、クプカ、ブランクーシ、シャガール、モディリアーニらパリに集う外国人画家たち(のみならず彫刻家たち)、いわゆるエコール・ド・パリの連中にも感染。もはやパリの芸術家にとって、キュビスムは避けて通れないハシカのような流行性疾病となり、やがて免疫がついて血肉化され、そこから立体未来派や抽象が誕生し、近代美術史に組み込まれていく。というような進歩史観はもう古いのか。


パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展─美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ : https://cubisme.exhn.jp

2023/10/02(月)(内覧会)(村田真)

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菅野由美子展

会期:2023/09/19~2023/10/07

ギャルリー東京ユマニテ[東京都]

1980年代にニューウェイブのひとりとしてデビューして約40年。数年の中断を経て、「器」を描くようになってからも早20年近くが経つ。初めは身近なグラスや食器をひとつだけ、あるいは2つ3つ並べただけの、まるで17世紀スペインのボデゴン(厨房画)のような、素朴で静謐な静物画だった。2007年のコメントを見ると、「作為、意図、あるいは表現というようなものを極力排しながら、淡々と、普通に、ものがそこにあるさまを描きたい」と述べているように、もの派もニューウェイブも通過した後の普遍的な絵画表現を目指しているようにも映った。

ところが何年か描いているうちに、画面を極端に横長(または縦長)にしたり、背景を幾何学的に構成したり、遠近感を消したり、少しずつ表現に欲が表われてくる。ある意味初心を裏切っているようにも見えるが、しかし職人じゃあるまいし、5年も10年も同じモチーフを描き続けていればおのずと変化が訪れるもの。むしろ変化を受け入れないのは不自然だし、アーティストなら変化を恐れてはいけない。2年前の個展では、コロナ禍で会えなくなった友人たちからマグカップの画像を送ってもらい、それらを画面上で組み合わせて描くなど、彼女としては珍しく社会との接点を探ったりもしている。

そして今回、さらなる変化が見られた。ひとつの画面に同じ器がプロポーションを変えて何度も登場したり、同じ画面なのに器の影が右を向いたり左を向いたり、空間がねじれ、変容してきているのだ。たとえば《five_15》は、棚が大きく上段、中段、下段に分かれ、上の棚からそれぞれひとつ、4つ、8つの器が置かれている。ところが下段左の3つの器はサイズとプロポーションを変えて下段右と中段にも登場し、下段の右端のカップは幅が広がって上段に鎮座している。いや鎮座しているというより、パソコンのウィンドウのように嵌め込まれているといったほうがいいか。

《nine_1》は濃紺の地に9個の器が配されているが、縦長の画面にどれもほぼ同じ大きさで描かれているので遠近感がなく、左上の器だけ背景が黒いため影がなく宙に浮いているように見える。また、地が暗いのでわかりづらいが、ほかの器の影は右を向いたり左を向いたりてんでばらばら。要するに現実感が希薄化しているのだ。と思ったら、《two_28》のように、正方形の画面にふたつの器を奇を衒うことなくシンプルに描いた作品もある。さてこれからどのように変わっていくだろうか。



展示風景[写真提供:ギャルリー東京ユマニテ]


菅野由美子展:https://g-tokyohumanite.com/exhibitions/2023/0919.html


関連レビュー

菅野由美子展|村田真::artscapeレビュー(2021年11月01日号)
菅野由美子展|村田真::artscapeレビュー(2019年11月01日号)

2023/10/04(水)(村田真)

2023年11月01日号の
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