artscapeレビュー

2023年12月01日号のレビュー/プレビュー

銀座の小さな春画展

会期:2023/10/21~2023/12/17

ギャラリーアートハウス[東京都]

春画をめぐる映画『春画先生』と『春の画 SHUNGA』が相次いで公開される記念として、シネスイッチ銀座の隣のギャラリーアートハウスで春画展が開かれている。点数は50点ほどと小規模だが(展示替えあり)、天和4(1684)年ごろから天保9(1838)年まで、つまり江戸時代のほぼ全期にわたる春画を集めている。

その最初期の杉村治兵衛による春画(欠題組物)は、まだモノクロームの簡素な線描画だが、描かれているのは少年の穴に一物を挿入する場面で、現代の芸能界を予言するかのようだ。かと思ったら、歌川国貞による《恋のやつふぢ》(1837)では、オス犬が後背位で女に挿入しているではないか。北斎の《喜能会之故真通》(1814)に至ってはタコが相手ですからね。もうフリーセックスにもほどがある。また、国貞の《吾妻源氏》(1837)には陰茎や内股を伝う愛汁まで描かれていたり、歌川派の《扇面男女図》(19世紀)には丸められたちり紙が男女の周りを囲んでいたり、生々しいったらありゃしない。

さすがと感心したのは、春画の代名詞ともいわれた歌麿。《絵本笑上戸》(1803)では、騎乗位で上にいる女が三味線を弾いていたり、後背位でつながった下の女が読書していたり、余裕を見せている。同じく歌麿の《願ひの糸ぐち》(1799)には、画面端に置いた丸鏡に女のつま先だけが映し出されていて、粋だねえ。歌川国虎の《センリキヤウ》(1824)は2点あって、1点には大きな屋敷のなかにいる数十人の男女を細かく描き、もう1点にはまぐわう男女のみを描いている。実は後者のまぐわう男女は前者の屋敷内の一部を拡大した図だというのだ。探してみたら、確かにあった。これはクイズのように遊んだんだろうか。まさか子供には見せなかっただろうね。

春画のおもしろさは、西洋絵画にはなかった線描によるデフォルメされた表現にあるだろう。遠近法も陰影もないから平面的で、しかも素っ裸ならまだしも柄のついた着物を着たまま下半身だけ露出して絡むから、いったいどこがどうつながっているのかわかりにくい。この春画における着物の存在は、やまと絵における槍霞と似て、難しい空間表現をバッサリ覆ってごまかす役割を果たしていたのではないかとにらんでいる。また、局部だけ拡大図のようにバカでかく描いているうえ、毛の1本1本まで彫り込むという異常さにも驚く。しかも毛は線的に彫るのではなく、毛以外の面を彫って線を残しているのだ。外国人もタマゲただろうなあ。


銀座の小さな春画展:https://artsticker.app/events/16073?utm_source=art_event&utm_medium&utm_campaign=web

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春の画 SHUNGA|村田真:artscapeレビュー(2023年10月01日号)

2023/10/20(金)(内覧会)(村田真)

東京近郊の展覧会(会場構成、インスタレーションの側面から)

[東京都]

10月から11月にかけて、建築家による注目すべき会場構成やインスタレーションが重なった。

西澤徹夫の「偶然は用意のあるところに」展(TOTOギャラリー・間)では、彼が数多く手がける美術展の会場構成のうちのいくつかも紹介されていた。筆者はそれらをすべて訪れていたので、もう存在しない空間を思い出しながら、上から鑑賞する不思議な体験だった。また既存のモノに手を加えるプロジェクト(京セラ美術館の増改築や一連の会場構成)や共同設計(八戸美術館)が多いことに加え、建築家の個展としては希有なことに、現代アート作品(曽根裕など)も同じ空間に展示されるなど、さまざまなレベルで他者が介入している。そして二つずつ作品を並べる分類の方法と類似したキャプションの文章も興味深い。ギャラリー・間は、必ずキュレーターが存在する美術展とは違い、建築家がセルフ・キュレーションを行ない展示をつくり上げるという独自の文化をもつが、ここまで第三者のような手つきで自作を再構成した展覧会は初めてである。


「西澤徹夫 偶然は用意のあるところに」展示風景(TOTOギャラリー・間、上階)


「西澤徹夫 偶然は用意のあるところに」展示風景(TOTOギャラリー・間、下階)


これと同時期に近くで開催されていた「Material, or 」展(21_21 DESIGN SIGHT)は、もっとハイテク系の素材が多いかと思いきや、自然の教えにインスパイアされたような内容が多い。安藤忠雄の個性的な空間に対し、別の建築を重ねたような中村竜治の会場構成が印象的だった。おそらく、展示物のほとんどが床置きになることを踏まえ(実際、壁や台はほとんど使われていない)、既存の高い天井を感じさせないよう、低い壁を走らせたのではないか。


中村竜治が会場構成を手掛けた「Material, or 」展示風景(21_21 DESIGN SIGHT)


「第八次椿会 ツバキカイ 8 このあたらしい世界 “ただ、いま、ここ”」(資生堂ギャラリー)でも、空間に対して、中村は奇妙な介入を試みている。会場に入って何か違和感があると思ったら、彼が作品として制作した2本の柱が増えていた。筆者が企画した「ほそくて、ふくらんだ柱の群れ」展(OPEN FIELD)でも、中村は円柱をテーマとしていたが、資生堂ギャラリーでは、いわば展示空間を偽装する角柱であり、きわめて不穏である。ほかにも杉戸洋や目[mé]の作品は、空間の使い方がユニークだった。


「第八次椿会」展示風景(資生堂ギャラリー)


アートウィーク東京では、山田紗子による二つの空間構成を楽しむことができた。保坂健二朗のキュレーションによる「平衡世界 日本のアート、戦後から今日まで」展(大倉集古館)は、12のテーマによって日本の戦後美術を紹介するものだが、伊東忠太の強いクセがある空間に対し、いかに現代アートを馴染ませるかが課題となる。そこで山田は、装飾的な肘木や円柱に呼応するように丸みを帯びた造形の白い什器を設計していた。


山田紗子が空間設計を手掛けた「平衡世界」展示風景(大倉集古館)


彼女のもうひとつのプロジェクトは、大倉集古館とまったく違うデザインの「AWT BAR」である。ホワイトキューブにおいて、直径13ミリメートルの細いスチールバーが縦横無尽に踊る線となって出現していた。抽象的なインスタレーションのようだが、小さいホルダーによってアーティストが提案したオリジナル・カクテルが宙に浮く。


同じく山田による空間設計の「AWT BAR」


中村や西澤の師匠でもある青木淳の退任記念展「雲と息つぎ ─テンポラリーなリノベーションとしての展覧会 番外編─」(東京藝術大学大学美術館陳列館)は、青木の自作は一切展示されていない。大学の研究室メンバーや中村らも参加し、建築家として会場となった岡田信一郎の設計による陳列館(1929)を丁寧に読み込み、建築家としてそれといかに向き合うかという態度が示されたインスタレーションである。それゆえ、改めて陳列館そのものをじっくりと観察する機会になった。


「雲と息つぎ」展示風景(東京藝術大学大学美術館陳列館)


ちなみに、「仮設的なリノベーション」は、筆者が芸術監督を務めたあいちトリエンナーレ2013における名古屋市美術館で彼に依頼したテーマでもある。新築をつくるだけが建築家の仕事ではない。ここで取り上げた展覧会は、既存の空間に対して介入することも、高度に建築的なデザインになりうることを示唆するだろう。


西澤徹夫 偶然は用意のあるところに:https://jp.toto.com/gallerma/ex230914/index.htm
Material, or :https://www.2121designsight.jp/program/material/
第八次椿会 ツバキカイ 8 このあたらしい世界 “ただ、いま、ここ”:https://gallery.shiseido.com/jp/tsubaki-kai/
平衡世界 日本のアート、戦後から今日まで(アートウィーク東京):https://www.artweektokyo.com/focus/
AWT BAR(アートウィーク東京):https://www.artweektokyo.com/bar/
青木淳退任記念展 雲と息つぎ ─テンポラリーなリノベーションとしての展覧会 番外編─:https://museum.geidai.ac.jp/exhibit/2023/11/clouds-and-breaths.html

2023/10/27(金)〜11/30(木)(五十嵐太郎)

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日本画の棲み家

会期:2023/11/02~2023/12/17

泉屋博古館東京[東京都]

明治期に西洋から展覧会という制度が導入されると、それまで座敷や床の間を「棲み家」とした日本の絵画は新居の展覧会場へと引っ越していく(当初は美術館も画廊もなく仮設会場だった)。それに伴って画家たちは作品のサイズを大きくし、色彩を濃くして会場で目立つようにしていく。こうした不特定多数の観客が非日常的な空間で鑑賞する作品を「展覧会芸術」と呼ぶ。この展覧会芸術が主流になると、反動で日本の絵画はやはり座敷や床の間で見るものであり、そうした場所にふさわしい日本画を描くべきだという意見も出てくる。これが「床の間芸術」だ。総じて展覧会芸術が濃彩で勇壮な大作が多いのに対し、床の間芸術は吉祥的な内容の柔和で上品な小品が多いという特徴がある。

同展では、かつて住友家の邸宅を飾った「床の間芸術」としての日本画を紹介するもの。橋本雅邦《春秋山水図》(1898)、平福百穂《震威八荒図》(1916)、竹内栖鳳《禁城松翠》(1928)、岸田劉生《四時競甘》(1926)などが屏風や掛け軸として並ぶ。絵の手前には初代宮川香山らの花瓶を置いて、座敷や床の間の風情を醸し出そうとしているのだが、いかんせん美術館の展示室なので(しかもリニューアルしたばかりで新しい)、どうしたって「展覧会芸術」になってしまう。外から虫の音が聞こえてくるわけでもなければ、そこでお茶が飲めるわけでもなく、寝そべって鑑賞できるわけでもないのだ。ま、美術館もそこまでやるつもりはないだろうけど。

おもしろいのは、第3章の「『床の間芸術』を考える」。現代の若手日本画家6人に床の間芸術を制作してもらう試みだ。小林明日香は、ネットで購入したシンプルなパーティションにドローイングや写真をコラージュして張り、裏に日記を貼りつけている。形式としては三曲屏風だが、見た目は現代美術。水津達大は展覧会芸術を象徴するガラスの展示ケースを避け、蝋燭の揺らぎを再現した照明で自作を照らし出した。どうせなら本物の蝋燭を使い、絵の前に畳を敷いて座って鑑賞できればもっとよかったのに。ま、美術館はそこまでやらせることはないだろうけど。

この展示、試みとしては評価したいが、6人とも30代前後の同世代で、しかも4人が東京藝大の日本画科出身と偏っているのが残念。やるんだったら日本画家だけでなく現代美術家にも参加してもらえば、とんでもない発想の床の間芸術が実現したかもしれないと思う。たとえば諏訪直樹(故人)とか、会田誠とか、福田美蘭とか。ま、美術館もそこまでやるつもりはないだろうけど。


日本画の棲み家:https://sen-oku.or.jp/program/20231102_thehabitatsofnihonga

2023/11/01(水)(内覧会)(村田真)

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第10回日展

会期:2023/11/03~2023/11/26

国立新美術館[東京都]

2013年、ぼくは東京藝大出身の2人とともに「落選展」をやろうと画策し、日展に応募して全員めでたく玉砕。その後、落選作を落選通知をつけて東京都美術館に展示した。やっぱり日展は「一見さんお断り」だったのね、と納得したら、その年日展の不正審査が発覚して大騒ぎになったのはいまだ記憶に新しい。美術界では「なにをいまさら」とみんな思ったが、翌年日展は改組されて第1回にリセット、今年めでたく10回を迎えたわけだ。入選作もさぞや変わっただろうと思って毎年見ているが、まさに十年一日のごとく。さすが日展、そうでなくちゃ。

いつものように日本画から見て行く。日本画で知ってる画家は、毎年問題作を出してくれる岩田壮平しかいない。今年も期待を裏切らず、《靉靆く》を出品。まずなんと読むのかわからない。調べてみたら靉靆は「アイタイ」と読み、雲が盛んな様子を意味するらしい。が、「靉靆く」と送り仮名がつくとなんだろう。作品は、赤系の花を描いた絵の上から黄色っぽい絵具をダラーッと垂れ流したような感じ。具象絵画と抽象表現主義の合体、というより、いまなら過激な環境保護団体による名画へのエコテロリズムを想起すべきか。いずれにせよ暴力的なイメージである。でもよくみると、絵具を垂れ流しているのではなく、そう見えるように描いているのがわかる。一種のだまし絵。額縁も絵にマッチしている。日展では絵画には額縁をつける規定があるため、みんなテキトーに安い額縁をつけるか、逆に絵よりも高そうな額縁をつけているが、岩田はこの絵に合わせて周到に選んでいるのがわかる。



岩田壮平《靉靆く》[筆者撮影]


今回、日本画・洋画を含めていい意味で記憶に残った作品は、これともう1点、洋画の景山秀郎による《秋の庭園》くらい。景山はどんな画家か、何歳か知らないが、「VOCA展」や「シェル美術賞展」に出ていてもおかしくないようないまどきの絵を描く。なんで日展なんかに出しているんだろう? 他人のことはいえないが。いずれにせよ、あとはどうでもいい作品ばかりだ。

だいたいロシアがウクライナに侵攻して1年半が過ぎ、最近はパレスチナで痛ましい戦禍が伝えられているというのに、それについてだれも触れていない。別に政治的・社会的テーマの作品を期待しているわけではないけれど、それにしても日本画・洋画合わせて千点以上も展示されていながら、いまの時代・社会を反映した作品が皆無に等しいというのはどういうことだろう。そういう作品は落とされるのか、それともそういう作家は初めから日展に応募しないのか。今年も10年前、100年前と同様、ノーテンキな風景画や人物画ばかりが並んでいる。


日展:https://nitten.or.jp

関連レビュー

改組 新 第7回日展|村田真:artscapeレビュー(2020年12月01日号)

2023/11/03(金・祝)(村田真)

CET23 OPEN START

会期:2023/10/23~2023/11/05

東日本橋・馬喰町エリア各所[東京都]

そういえば東京ビエンナーレは今日までだったな。会場があっちこっちに散らばっているから、どこか無料でたくさん見られるところはないかと調べたら、東日本橋・馬喰町エリアに集中していた。エトワール海渡リビング館という会場は有料だったのでパスし、それ以外の10カ所ほどを回ったのだが、後でよく見直したらエトワール海渡だけが東京ビエンナーレの企画で、それ以外はCET(セントラルイースト・トーキョー)によるイベントだった。CETは空洞化していたこのエリアを活性化するために20年ほど前から始めた「アート・デザイン・建築の複合イベント」で、2010年にいったん終了したが、東京ビエンナーレの開催を機に再起動させたという。つまりCETが東京ビエンナーレの企画に乗ったかたちらしい。まあ見る側にとってはどっちでもいいんだけど。

期待に違わぬ力作を見せてくれたのが宇治野宗輝だ。廃屋となった3階建ての一軒家を丸ごと使い、「建築物一棟をグルーヴボックスにするプロジェクト」を展開している。各階ごとに廃車や机や照明などを用いて、動いたり光ったり音が出たりするインスタレーションを構築し、それぞれを垂直に連動させているのだ。これは見ていて飽きない。その近くの古いビルの側壁にドローイングしたのは小川敦生。渦巻きや曲線に雪の結晶のような枝葉がついたパターンで、昔流行ったフラクタル図形を思わせる。工事用蓄光チョークを使っでいるので、夜見たほうがきれいかも。こういうグラフィティやストリートアートはもっとあってもいい。



宇治野宗輝《dormbeat》[筆者撮影]


その向かいのビルでは委細昌嗣と渦波大祐の《Silent City》(2020)を上映。人ひとりいない東京の繁華街を写した映像作品で、おそらくコロナ禍の早朝にでも撮影したのだろう、見事に人も車も写っていない。思い出したのは、台湾の袁廣鳴(ユェン・グァンミン)による《日常演習》(2017)という映像。だれもいない静まり返った台北の街をドローンで撮影したもので、CGかと思ったら、年にいちど行なわれる防空演習日の外出禁止時間に撮影したのだという。戦争やパンデミックにはこうした非現実的な無人の都市が出現するのだ。でも最近ではCGやAIでいくらでも人を消せるから、だれも驚かなくなるかもしれない。いま「人を消せる」と書いたけど、映像とはいえ簡単に人を消せるというのもどうなんだろ。ともあれ映像に限らず、これからの芸術表現にはAIに負けないリアリティが必要となるだろう。



小川敦生《測量標》[筆者撮影]


CET23 OPEN START:https://centraleasttokyo.com

2023/11/05(日)(村田真)

2023年12月01日号の
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