artscapeレビュー

2010年06月01日号のレビュー/プレビュー

リフレクション/映像が見せる“もうひとつの世界”

会期:2010/02/06~2010/05/09

水戸芸術館現代美術ギャラリー[茨城県]

映像作品を集めた企画展。藤井光、Chim↑Pom、八幡亜樹からジェレミー・デラー、ライアン・トゥリカーティン、ローラン・モンタロンなど、9組のアーティストがそれぞれ映像作品を発表した。たとえば地下鉄の駅のホームにまで映像広告が進出しつつあるほど、映像が現代社会の隅々にまで浸透している今日、映像を芸術表現として価値づけるハードルはかつてないほど高くなっている。そんじょそこらの映像作品ではYOUTUBEのそれに勝てないし、わざわざ数百分の時間を費やして美術館で退屈な映像を見てやるほど現代人は暇でもないからだ。だとすれば、映像作品を見る基準は2つある。ひとつは映像の内容がおもしろいか、つまらないか。もうひとつは映像の見せ方、つまりインスタレーションとしておもしろいか、つまらないか。前者で抜群だったのは、マティアス・ヴェルカム&ミーシャ・ラインカウフ。ベルリンの地下鉄に手漕ぎ車で潜入したり、停車中の鉄道やバスなど公共機関の乗り物の窓ガラスを勝手に清掃する様子をとらえた映像は、じつに楽しい。乗員の大半は怪訝な顔で警戒感を強めるが、なかには好意的に対応する者もいて、制度の良し悪しがじつのところ制度を運用する人間の良し悪しと大いに関わっていることを鮮やかに示した。後者の点で際立っていたのは、宇川とさわひらき。個室トイレでサイケデリックな視覚体験に興じる鑑賞者の姿を監視カメラによって別室で流すという宇川の作品は、ともすると安易な神秘性に回収されがちな視覚体験を通俗的な空間と監視社会のメタファーによって社会性とうまく接続させた。回転するコインなどの映像を回転するスピーカーからの音響とともに見せたさわひらきは、とりわけ映像の内容と形式を有機的に組み合わせることに成功しており、出品作家のなかでも抜群の完成度を誇っていた。

2010/05/07(金)(福住廉)

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Palla/河原和彦 作品展「イコノグラフィー2『銀河』」

会期:2010/05/07~2010/06/06

ギャラリーKai、銀杏菴[大阪府]

1点の写真を何度も折り返して重ねることで驚くべき世界を表出させる、Pallaこと河原和彦。本展では海岸の岩場や大阪の港湾を素材にした新作の写真作品を発表。モノクロを選択したことにより、まるで水墨画のように幽玄なビジュアルが表現された。別会場の銀杏菴(今年で築100年の長屋)では、床の間で映像作品を展覧。空間とのマッチングが良く、スチール作品以上にマジカルな作品に仕上がっていた。

2010/05/08(土)(小吹隆文)

金沢健一 展

会期:2010/05/08~2010/06/12

CAS[大阪府]

決められたモジュールにしたがって鉄板を切断し、積み重ねて溶接した立方体のオブジェを多数出品。溶接の方法により、作品には二つの系統がある。いずれにせよ、硬質かつミニマルな立体のバリエーションを楽しんだ。また、鉄板にバーナーを当てて鉄が溶けていく様子を、バーナーの反対側から撮影した映像作品も出品。徐々に流動体化していく鉄の様子は、立体のハードエッジな作風と対照的だった。

2010/05/08(土)(小吹隆文)

歌川国芳 奇と笑いの木版画

会期:2010/03/20~2010/05/09

府中市美術館[東京都]

歌川国芳の錦絵を見せる展覧会。武者絵や役者絵、美人画、風景画など、(前期と後期あわせて)200点あまりが一挙に公開された。幕府の目を盗むために猫や雀などを擬人化させながら世相を風刺したり、降臨した観音様によって庶民の生々しい本音を引き出したり、絵の技巧はもちろん、絵の届け方にも工夫が凝らされていて、じつに楽しい。アイロニーの絵描きにとってお手本になるような作品ばかりだ。

2010/05/08(土)(福住廉)

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会田誠 展「絵バカ」

会期:2010/05/06~2010/06/05

ミヅマアートギャラリー[東京都]

会田誠の新作展。ギャラリーの壁面を覆いつくすほど巨大な平面作品3点と、映像作品などを発表した。おびただしいほどのサラリーマンの死体やOA機器が文字どおり山積みにされた精緻な絵や、中村一美のように絵具を大量に使って「1+1=2」と描いた大味な絵など、絵の風合いを変えながらも、会田誠ならではのアイロニカルな批評精神が十全に発揮されている。そうした「会田誠らしさ」は、東京藝大に伝えられてきた「ヨカチン」という伝統的な宴会芸を現在の美大女子学生に全裸で踊らせた映像作品でも変わらないから、会田誠の真骨頂を楽しめたことはまちがいない。ただ、そうして手を変え品を変えながらやればやるほど、会田誠の孤独感が浮き彫りにされていたようにも思う。「ヨカチン」を踊りきる女子学生の姿には前世紀の画学生文化にたいする郷愁に加えて、その主体が男子から女子に転移してしまったことが暗示されていたし、その女子による乾いた宴会芸にはかつて篠原有司男が感じた「暗然としたもの」はもはや見るべくもない(篠原有司男『前衛の道』美術出版社、2006年、p.22)。サラリーマンを死体の山に見立てたとしても、サラリーマンの絶頂期ともいえるバブル期ならともかく、彼らが現に生存を追い詰められつつある社会状況では、アイロニーの力も半減せざるを得ず、むしろ単純なリアリズムに見られかねない。アイロニカルな作品とは、文脈への鋭い意識を前提としているが、文脈そのものが変質すれば、当然主体の位置関係も変更せざるを得ないし、方法論も代えなければならない。今回発表された作品のうち、少なくとも平面作品については、その修正作業が追いついていないように見えたのは事実である。サラリーマンも表現主義も、仮想敵としては不適切であり、もはやおちょくるまでもないからだ。映像作品については、宴会芸を女子学生にやらせることによって新たな方法論を獲得したように見えたが、それは会田誠の作家性から離れていく傾向であるという点で、孤絶感をよりいっそう強めていた。

2010/05/08(土)(福住廉)

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