artscapeレビュー
2010年06月01日号のレビュー/プレビュー
sowaka clip 11 城戸みゆき
会期:2010/05/07~2010/05/30
sowaka[京都府]
二つのスペースで異なるシリーズを発表。ひとつはこれまでに制作してきた家型の小オブジェ。白いシンプルな形をしているが、レンズの覗き窓から中を見ると別世界が広がっている。もうひとつは民家の屋根のミニチュアを大量に作って宙吊りにしたインスタレーション。広島市の郊外にある彼女の実家から街中に出かける際の景色を題材にしたそうだ。いろんな形の屋根がふわふわ浮かんでいる姿には、童話的な優しさと幻想性も感じられる。サイトスペシフィックな作品制作やワークショップにも使えそうなので、今後の展開に注目したい。
2010/05/15(土)(小吹隆文)
壺中天『オママゴト』
会期:2010/05/01~2010/05/16
大駱駝艦・壺中天[東京都]
本作の振付担当でもある田村一行は夏の学生服の格好で現われると、洗面台にて手を洗う。すると後ろのほうに不意に魚の頭をした怪物が二頭。日常のなにげない瞬間に、空想への入口がぽっかりあいた。冒頭、この怪物たちに次第に巻き込まれてゆくまでに見せた、日常と空想的な世界とを往還するかのようなソロダンスが素晴らしかった。自分のなかから出てきていながらはっきりと自分のではないといわねばならない、そんな動きのきっかけから生みだされるダンス。それはまた、村松卓矢や向雲太郎のような男の子的な強さで魅了する振付とは少しニュアンスが違う、巧みに制御されたやわらかさやうつくしさが盛り込まれていた。それが顕著だったのは女性たちのシーン。女たちが4人、白塗りでときおり白目をむくなど舞踏的なテイストは濃厚であるものの、よく見たらおだんご頭で、表情も会場のある吉祥寺の街に歩いていそうな雰囲気が漂っている。村松や向の舞台で白塗りの男性ダンサーたちが不意にリアルな若者集団に見えることがあるのに似て、彼女は空想の隙間から現実の女の子をチラチラと見せていた。丸太を担いだときは「森ガール?」とまで連想が膨らんだが、威勢よく大きな音を立てて丸太を倒すと、男たちとともにやぐらを組み立てはじめた。現代の女の子/男の子であり、空想の怪物であり、習俗のなかの女/男にも見えるダンサーたち。現実と非現実、現在と過去とがダイナミックに接合と分解を繰り返した。
2010/05/15(土)(木村覚)
大橋可也&ダンサーズ『春の祭典』
会期:2010/05/14~2010/05/16
シアタートラム[東京都]
冒頭に、スーツ姿の大橋可也が頭にミッキーマウスの(『ファンタジア』の魔法使いの)帽子をかぶって登場したときには、思わず爆笑してしまった。そうかそうきたか、と。大橋=ミッキーが指揮棒を振る。次に、彼に似た格好の男を呼び出し、帽子を被らせ同じような振る舞いをさせると、50人近い人々が舞台空間に登場した。彼らは耳にイヤフォンをしていて、シンプルな振りを(恐らく)耳からの指令で実行してゆく。大橋作品の特徴として、振付家=指令者(大橋)を舞台上に登場させる(ないし意識させる)ところがある。大橋はたいていの公演で上演の最初と最後に出てきて観客に「はじめます」「終わりです」と挨拶する。またその間は観客に見える場所から舞台を監視していることが多い。大橋作品が多くのほかのダンス作品と比べてクールで現代的な面があるとすれば、「誰がこの場の支配者なのか」という問いを作品の一部にしてきたところだろう。今回、その大橋がミッキーに化けて出てきた。現代のエンターテインメントにおける最強の魔法使いこそ、大橋の想定する闘争相手というわけだ。50人近い人々はやがてしかばねのように倒れ、大橋たちに片付けられると、今度はグループ・メンバーたちによる舞台がはじまった。日常から切り取ってきたような短い動作は、見る者の個人的/集団的な記憶を呼び覚ます。そうした動作があちこちででたらめに展開しているようで、不意にはっとするようなコンポジションをうみだしもする。無精ヒゲの男が次々と人々を襲ってゆく場面などもあり、まさに(秋葉原通り魔事件の)記憶の断片をまさぐられている気がした。ラストでは、支配者である大橋が犠牲となって集団リンチをうける。いまの日本お得意のリーダーを叩くお祭り? とはいえ、場のルールを設定する立場としての支配者を社会や舞台から追放すればそれでよし、とは簡単にはいえまい。むしろ見る者の記憶にアクセスしその浄化を画策するかに見える大橋的魔法使いと、記憶の忘却をはかり空想へと見る者を誘うミッキー的魔法使いとの闘いこそ焦点となるべきだろう。その闘いのドラマの片鱗は本作で見えた気がした。
2010/05/15(土)(木村覚)
チェルフィッチュ『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』
会期:2010/05/07~2010/05/19
ラフォーレミュージアム原宿[東京都]
今年の冬の公演『わたしたちは無傷な別人であるのか?』と比べポップで軽快、手慣れているという印象を受けた。現在の岡田利規の力量のすごさと映る一方、ほころびのなさゆえだろうか、観客の心が舞台に入り込む隙を感じなかった。3本の短編がタイトル通り並ぶ構成。非正規社員が送別会の幹事を任され愚痴れば(「ホットペッパー」)、正規社員もクーラーの温度設定にストレスを感じると愚痴る(「クーラー」)。最後は、彼ら正規社員と非正規社員が集う場(朝会?)で、明日は他人となる送別会の主役がその場の誰にもほとんど関係ない内容をえんえんとしゃべり続けた(タイトルに従って「そして、別れの挨拶」の部分といえようか)。すでに単独で上演されている前者2作は、セリフとは無関係に(とはいえもちろんセリフが被さってそれに動機づけられた振る舞いが消えることなく)音楽に合わせて役者が身体を繰るところなど、いくつかの新しい要素が付け加えられていた。今回とくに音楽と演技の絡み合いが緊密で、それは演技より音楽のほうに引きつけられてしまうほど音楽が強かったということも含めてそうで、演技はときに音楽の添え物に映ることさえあった。岡田の関心が音楽に強くあるということなのだろう。元々の独特なセリフ回しも若者言葉というより岡田的言い回しととらえたほうが納得できるわけで、近年のチェルフィッチュは岡田の趣味が彼の方法と同じくらい鮮明になってきている。それはいいことだ、岡田演劇には傍若無人な無謀さ凶暴さこそ求めたい。ところで、本作のテーマは「労働」より「独り言」だったのではないか。であれば『わたしたちは~』は誰かの「独り言」が他人に侵入し感染する事態に迫っていたことを思い出さずにはいられない。それと比べると、本作の独り言(すべてのセリフは聞き手に届けようとの意志が弱く独り言に見える)は誰によるものであれ純然たる独り言であり、ほかの(役の)誰かの内に(また見る者、少なくともぼくの内に)侵入し傷つける力が希薄だった。
2010/05/19(水)(木村覚)
プレビュー:会田誠《滝の絵》公開制作
会期:2010/06/08~2010/06/20
国立国際美術館[大阪府]
今年1月から4月にかけて国立国際美術館で開催された「絵画の庭」展にも出品されていた、会田誠の《滝の絵》。展覧会終了後も同じ位置で展示され続けていたが、それは6月に行なわれる公開制作のためだった。はた目には完成しているように思われる本作だが、会田に言わせれば未完成作で、2007年に発表した後も何度か手を入れているそうだ。今回の公開制作は、完成に向けた最後の加筆を目指しているらしいので、完成の瞬間を目撃するレアな機会となる可能性が高い。
写真:© AIDA Makoto courtesy of Mizuma Art Gallery
Photo of work in progress
※注意事項:時間帯により作家が不在のこともございますので、あらかじめご了承ください。
2010/05/20(木)(小吹隆文)