artscapeレビュー

アピチャッポン・ウィーラセタクン『真昼の不思議な物体』

2016年06月15日号

会期:2016/05/08~2016/05/13

シネ・ヌーヴォ[大阪府]

『真昼の不思議な物体』(2000)は、タイの映画監督・映像作家、アピチャッポン・ウィーラセタクンの長編初監督作品。年齢、境遇、場所もさまざまなタイの人々が、ある物語をバトンのように受け渡しながら口述で語り継いでいくプロセスと、その「再現」映像が、モノクロの映像で綴られる。次の語り手に受け渡される度に、思わぬ方向へ展開・分岐していく物語。整合性という点では破綻しているが、本作を見て感じるのは、サーフィンのような心地よい浮遊感だ。冒頭、車窓の風景を捉えるカメラは、都市の高速道路から下町の市場を抜け、住宅地を行商する女性が即興的に語り出す物語からスタートする。足の悪い車椅子の少年と若い女性の家庭教師。白昼、突然倒れた家庭教師のスカートから転がり落ちた「不思議な物体」。その正体や変容は次の語り手の想像に自由に委ねられ、象使いの少年、村の老婆、中年女性のグループ、にぎやかな小学生たち、手話で会話する女子学生たち……と語り手が交替するごとに、宇宙人の登場するSF、村人による鬼退治、メロドラマ、子どもを誘拐して都会へ逃げる逃避行などとさまざまに変容していく。
口承による物語伝達を記録したモノクロフィルムという性格は、文化人類学におけるフィールドワークの記録としての民族誌映像のパロディを思わせる。さらに、語られた内容を演劇仕立てで「再現」する場面が挿入されたり、「カメラのフレーム外部」から聞こえる音声が侵入することで、カメラの客観性への疑義やフレームの虚構性が示される。だが、ウィーラセタクンの狙いは、ドキュメンタリーの真正性や民族誌映像の客観性への批評にとどまるものではないだろう。テープレコーダーから流れる声に耳を傾け、語り手や演じ手を見守る「観客役」がいることは、演出や虚構性の露呈という側面とともに、口承伝達における「声を媒介とした時空間の共有」という側面を示している。物語の始まりさえも他者に明け渡し、首尾一貫した整合性を手放す代わりに、生き生きとした有機的な語りの力を映画に取り戻し、活性化させることが賭けられているのではないか。ウィーラセタクンの他作品においても、歌や語りの声が宿す魔術的な力は、しばしば象徴的・効果的に取り入れられている。吟遊詩人や口承伝達においては、「聞き手」の存在や願望が強く作用し、時に物語の流れや登場人物の性格・動機付けを変えてしまうほどの力を持つ。そうした即興性と双方向性に開かれた語りの持つ有機的な力を、映画に取り込んで活性化させること。そこでは、語り手の物語と聞き手の願望、映画と演劇、ドキュメンタリーとフィクション、フレームの内と外の境界線は、流動的に揺らぎ溶解している。エンドクレジットで朗々と流れる男性の詠唱は、本作が希求する魔術的な声と即興的な生成の力を象徴的に示していた。

2016/05/13(金)(高嶋慈)

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