2017年11月15日号
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artscapeレビュー

山縣太一(作・演出・振付)『ドッグマンノーライフ』

2016年06月15日号

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会期:2016/06/01~2016/06/13

STスポット[神奈川県]

昨年は『海底で履く靴には紐が無い』が大谷能生主演で話題となった山縣太一の新しい演劇の試み、今作はその第二弾となる。外に家内を働きに行かせて、代わりに引きこもり生活をしている「室内犬」が大谷の役。舞台脇に箱が横並びになってその中で暮らしている。引きこもりで人間以下になった男と働く女が最終的に対比されてゆくのだが、今回の演出はその話に一切のユーモアを盛り込まない。脚本の言葉遊びは今作でも端々に出てくるのだが、リズムを外し、のっぺりと小声で発生されるのでそれが見事なくらい笑えない。特に前半は蛍光灯の明かりで進行するし、役者たちは常に揺れ、痙攣し続けているし、犬はいるしで、絶望的なくらい暗く不穏だ。中盤で役者たちが舞台上に増えてゆき、ほぼ対話はなく、しかし、互いの動作で接触が起こり、揺れが甚だしくなるシーンがある。ストーリーはほとんどないのに、音響も煽っていないのに、狂気のようなテンションで一瞬クライマックスがやってきた。それではっとわかった。これは人間以下の「アンダークラウンド」つまりアングラな人間存在を扱う、その点で舞踏に似た(そう思うと「ドッグマン」は土方巽の「犬の静脈に嫉妬することから」との連関を、「ノーライフ」は「踊りとは命がけで突っ立った死体である」との連関を想像させられてしまう)、しかし、舞踏の様式性とは無縁の、一種のダンス作品だ。終幕の場面では、中央に大谷が立ち、外に出た家内と外に出るのをやめた自分の逆転を語る後ろで、三人の女が並んで、息を止めては我慢ができなくなると数歩進んで男の前で息を吸うという一種の「タスク」を続けている。本当にダンス的だと思う反面、そこに至るまで、舞台にはセリフの言葉が敷き詰められてきており、言葉が緻密にその場を制御してきたことにも気づかされる。そうであるならこれは演劇か。舞踏の様式性とは異なると書いたが、この舞台は他のどんな様式性とも類似しない。この世に一匹だけで立っている獣のように、空前絶後の舞台。そういう舞台を作者や観客はいま願望しているのだろうか。いや、そんなこととは関係なく突っ立っている、そんな舞台なのだ。

2016/06/05(日)(木村覚)

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