2024年03月01日号
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artscapeレビュー

Screening 'Melting Point' + TEGAMI Project from Hamburg

2016年06月15日号

会期:2016/05/24~2016/05/28

The Third Gallery Aya[大阪府]

映像インスタレーション作家、稲垣智子の企画による、5名の映像作家の上映会。経緯はやや複雑だが、2011年の東日本大震災を受けて、ドイツのハンブルク在住のアーティスト、綿引展子が発案した「TEGAMI」展(日本のアーティストが何を考え、どう行動しているのかをハガキに託してドイツに送り、現地で展示する企画)に稲垣は参加しており、本年度の「TEGAMI」展では「TEGAMI 日本人アーティストの視点 稲垣智子」を個展として開催した。合わせて、会期中のイベントとして上映会「Melting Point」を企画し、稲垣が選出した他5名の作家(伊東宣明、大崎のぶゆき、小泉明郎、松井智惠、山城知佳子)の映像作品が上映された。帰国後、大阪で開催された上映会が本展である(山城作品が上映されない代わりに、稲垣の作品が加えられたラインナップとなった)。いずれも、震災を直接反映したものではないが、2011年以降に制作された作品の中から選出されている。
伊東宣明、大崎のぶゆき、小泉明郎、松井智惠、稲垣智子という顔ぶれは、もしこれが美術館の学芸員やキュレーターなど、第三者の視点からであれば成立しなかったのではないかという印象を受ける。実際、個々の上映作品を通覧しても、全体を一言でまとめるのは難しい。逆に言えば、稲垣の作品をハブにすることで、全体の均質なまとまりではなく、「稲垣と伊東作品」「稲垣と小泉作品」「稲垣と松井作品」という個々の作品同士の関係性から、稲垣智子という作家の視点が浮かび上がってくるように感じた。
稲垣の出品作《間─あいだ》は、ある女性のモノローグに見えた語りが、カメラアングルの仕掛けによって、よく似た二人の女性が向き合う対話と分かり、分岐した会話は次第に齟齬をきたして口論へと発展していく。ビンタの応酬を境に会話は再び1本の線に収束するかに見えるものの、カメラが映し出すのは「二人」に分裂したままであり、自他や真偽の区別が曖昧に融解した、歪んだ鏡像世界をつくり出す。ここに見られる、同一人物(?)の語りが、向き合った二人の(擬似的な)対話へと分裂し、自己/他者、真/偽が曖昧に重なり合った多重世界の出現は、小泉明郎の《ダブル・プロジェクション #1 ─沈黙では語れぬこと》においても顕著である。小泉の作品では、かつて特攻隊に志願するも飛行機事故の不時着のために生き残った老人が登場し、1)特攻隊の記憶を語る、2)戦死した友人に思いを語りかける、3)それに応える「友人」の架空の会話を本人に演じさせ、2)と3)の映像が対面して重なり合う、という構造である。だがそこに、指示を出したり、演出をつける小泉の声がフレーム外から聞こえてくることで、「戦死した友人」の語る内容(「お前が生きていてくれて嬉しいよ」と肯定する言葉)は、この男性が本心から望んでいることなのか、小泉による脚本なのか、そもそもこの男性は本物の元特攻隊員なのか俳優なのかが曖昧になり、感動的なドラマはメタレベルで解体していく。
また、《間─あいだ》に限らず、稲垣作品にしばしば見られる「反復と差異」の構造は、自身の心臓の鼓動を聴診器で聞きながら生肉の塊を叩き続け、生のリズムを死肉に移植して蘇らせようとするかのような、伊東宣明の《生きている/生きていない》における執拗な反復とも共通する。そこで得られる、境界の溶け合いや崩壊の感覚は、風景やポートレイトの鮮やかな描画が水に溶け出し、おぞましいものへと変質していく大崎のぶゆきの映像作品と通底する。さらに、身体的なパフォーマンスの強度によって、周囲の風景やオブジェと身体的な交感を交わす中から、詩的な磁場を立ち上げる力は、稲垣と松井智惠、両者の作品に見てとることができるだろう。
これは本展のひとつの見方に過ぎないが、一人の作家の作品をハブに介することで、ミクロな場所から立ち上がる思考や感性のつながりが見えてくる。作家がキュレーターを兼ねるということについて、実験的であれ、ひとつの可能性を示しているのではないだろうか。

2016/05/28(土)(高嶋慈)

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