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Re-search and Re-direction: かかわりの技法 関連上演 かもめマシーン『俺が代』

2018年08月01日号

会期:2018/06/30

京都芸術センター[京都府]

ピッピッピッピッという時報が規則的な音を刻む。1人の女性が客席の間から現われ、舞台奥へ進むと、厳粛な宣言でも始めるように、姿勢を正し、朗々とした声を発し始める。「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、……」。戦後に制定された「日本国憲法」の基本的理念が述べられる「前文」である。

かもめマシーンの『俺が代』は、日本国憲法の抜粋(前文、第一章「天皇」、第二章「戦争の放棄」(いわゆる第九条)、第三章「国民の権利及び義務」、第十章「最高法規」)をベースに、1947年当時の文部省による教科書『あたらしい憲法のはなし』、「憲政の神様」と言われた尾崎行雄の演説、そして憲法草案の審議を行なった憲法改正特別委員会での芦田均の演説を「台本」として用いる演劇作品である。日本国憲法とそれにまつわる複数のテクストや演説は、俳優の清水穂奈美によるソロパフォーマンスとして演じられる。舞台中央に設えられた正方形の舞台装置には水が張られ、枯れ木のようなオブジェが立っている。彼女はそれに相対し、あるいは逡巡するように周囲をぐるぐると回りながら、抑揚や感情の濃度を自在に変化させ、憲法や演説の言葉を現実空間のなかに身体化させていく。一語一語の意味を噛みしめるように、慎重に重々しく発語される前文。一転して、同時期に巷に流れていたヒット曲「東京ブギウギ」をバックに発される『あたらしい憲法のはなし』は、いきなり感情のトップギアに入る。泣き叫び、狂ったように身もだえするその様子は、民主的な憲法を得た喜びを狂喜さながら全身で体現するようにも、敗戦の傷や痛みに引き裂かれているようにも見える。「老婆心ながら」と前置きし、新憲法の理念の崇高さとそれを守る困難さを訴える尾崎行雄の演説のくだりでは、腰をかがめ、緩慢な動作で、老人の口調の演技がなされる。しかし、演説が次第に熱を帯びるとともに、その口調はリズミカルなラップ調に一転し、「お前たちは国家を背負って立つ抱負がない」と挑発するようにたたみかける。このように本作の前半では、憲法や政治家の演説を「いかに出力のモードを変えて発語できるか」が実験的に繰り出され、「憲法の脱ニュートラル化」が図られる。


[写真:前谷開]

ここで、同様に現行の日本国憲法を上演台本に使用し、旧憲法や日本の現代史に関わる演説や小説などをコラージュして用いた演劇作品として、地点『CHITENの近現代語』が想起される。地点のこの作品では、5~6名の俳優がそれぞれの発語パートを分担/分断し、あるいはユニゾンで発語することで、ポリフォニックな多声構造と音響的解体によって声の多層化と分裂が企てられていた。それは、「臣民/国民」として数値に回収され、「単一の声」へと統合されることに対する演劇的な抵抗である。

対して『俺が代』では、後半に最大の仕掛けが用意されている。冒頭の日本国憲法前文が再度繰り返されるのだが、「国民」という単語を「俺」に、「諸国民」を「あいつら」「みんな」に変換して読まれるのだ。緊張した面持ちで、水の中に足を踏み入れ、象徴化された「木」を見つめる俳優。次第に高ぶり出す感情。「俺は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、俺と俺の子孫のために、あいつらとの協和による成果と、俺の国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が俺に存することを宣言し、この憲法を確定する……」。続くオリジナルの部分では、「俺」が、テロや戦争、非人道的な圧制、自由主義経済によって、世界各地で殺され続けていることが述べられる。「俺」の自由と生命、尊厳がいとも容易く踏みにじられる現実だからこそ、「俺は、俺の名誉にかけ、全力でこの崇高な理想を達成することを誓う」ことが最後に悲痛な宣言として発される。


[写真:前谷開]

『俺が代』は、日本国憲法という「書かれたテクスト」において、「国民」として抽象化・一般化された存在を、再び一人称単数形すなわち一人ひとりの「個人」として取り戻し、「個人の考えるべき問題」に引き寄せる試みである。その奪還の作業を身体的な発語を通して行なう点に、本作が示す「演劇」の可能性がある。「日本国憲法」は、個人による発語として「上演」されねばならない──ここに、本作の優れてクリティカルな政治性がある。清水の圧倒的なパフォーマンスの力が、それを支えている。だがここで、「俺」という言葉は「ひたむきな熱さや決意の強さ」を示す一方、日本語固有のジェンダー的なコノテーションがべったりと貼り付いていることに注意しよう。ニュートラルな「私」とは異なり、マッチョな「強い男性性」が付与された発語主体に限定してしまう。そうした「俺」という一人称を、あえて女性の俳優に発語させることで、言語(日本語)が内包するジェンダー的な偏差を撹乱し、内破しようとすること。ここに、(上記の政治性とは別種の)本作におけるもうひとつの戦略的な政治性がある。

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