2020年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

2020年04月15日号のレビュー/プレビュー

映画美学校アクターズ・コース『シティキラー』

会期:2020/03/05~2020/03/10(公演中止)

アトリエ春風舎[東京都]

『シティキラー』(作・演出:本橋龍)は映画美学校アクターズ・コース2019年度公演として2020年3月5日から10日にかけて上演される、はずだった。私は上演されなかったこの作品の関係者として、「無観客」で行なわれたゲネプロの現場に立ち会った。

会場入口の螺旋階段を下りると、多くの人が集まった空間が映し出された古いテレビが受付に続くドアの上方に据えられている。それは劇場の内部、舞台と客席の様子を中継した映像なのだが、そのことに気づいたのは会場に入ってからだった。ドア付近からは劇場の内部は見渡せず、ゲストハウス風に設えられたアトリエ春風舎の様子も普段とはまったく違っていたので、それが劇場内部を映したものだとは気がつかなかったのだ。だから、それが中継ではなく録画だったとしても私にはわからない。私は私のいる「今ここ」からしかものごとを見ることができない。

舞台は東京から離れたどこかのゲストハウス。ヤマミ(近藤強)が脱サラして始めたそこヤマミ荘には若者を中心にさまざまな人が集い、長期滞在する者や繰り返し訪れる者、はては移住してきた者までいる。ライブや演劇もできるスペースを備えるそこは地元の人々の交流の場にもなっているようだ。

©︎かまたきえ

「シティキラー」というのはもし地球に落ちればひとつの都市を破壊してしまうほどの大きさの隕石のことで、2019年7月頃に地球はそのシティキラーとすれ違っていた、と上演版映像の冒頭で本橋は説明する。同じような説明は劇中でもなされ、「私たちはそのことを知らなかった」と語られる一方で「遠い向こうの島」に流れ星が落ちるのが目撃される場面もある。ヤマミ荘の近くにあるクレーターは比較的最近(およそ300年前)の隕石によってできたらしい。

私がいる「今ここ」とは別の、私がいない、ことによると人間さえいない「今ここ」がある、あった、あるだろうということ。隕石や万年雪の存在が示すその事実。テーブルの上では上演が始まる前からずっと、惑星をかたどったオブジェが運動を続けていた。冒頭でヤマミ荘にやってくるコイシ(綾音)と入れ違うようにネムリ(井上みなみ)は東京に戻るが、それでもヤマミ荘の時間は続き、東京に戻ったネムリの時間も続く。彼女は東京に戻ることを冗談めかして「死ぬ」というが、もちろん彼女が死んだあとも、『シティキラー』が終わったあとも時間は続く。

©︎かまたきえ

2時間の舞台作品を15分×8回の連続ドラマへと構成し直した『シティキラーの環』(編集:和久井幸一、以下『環』)には『シティキラー』本編の映像だけでなくそのオフショット、美学校で学び公演に向けて準備を進める俳優たちの姿を捉えたドキュメンタリーパートが挿入されている。映画美学校のある渋谷のスクランブル交差点にネムリの格好で立つ井上は、果たしてどちらとしてそこに立っているのだろうか。街頭ビジョンには「新型コロナウイルス」の文字が見える。

本橋はしばしば、異なるはずの二つの時空間をひとつの同じ時空間に重ね合わせて観客に提示する手法を用いる。演劇の制約を逆手に取り、「ひとつの世界で、それぞれに異なるモノを見て生きている」人間の姿を浮き彫りにする巧みな演出だ。一方で映画は、ばらばらの時空間で撮影された素材を巧みに組み合わせることで一貫したひとつの世界をつくり出す。ところが、『環』ではむしろ、それが完結したひとつの物語世界などではないことが積極的に示されている。画面にはしばしば、画面の外の客席に座る本橋や、撮影しているカメラマンの姿までもが映り込んでいるのだ。

つまり、『環』は全体が『シティキラー』上演の(あるいは映像制作の)ドキュメンタリーとしてつくられているということだろうか。だが、カメラマンなど「余計なもの」が映り込んでいないショットも同じくらいあるのだから話は一筋縄ではいかない。切り返した先にいるはずのカメラマンがいない場面もあり、それはつまり、その部分はカメラマンが映っていない別撮りのカットにわざわざ差し替えられているということだ。

©︎かまたきえ

演劇における本橋の手法は裏返しで映像へと適用されている。例えば第2環でマコト(中島晃紀)がモリコ(宇都有里紗)に告白する場面。二人の背中越しに夜景を思わせる幻想的な光が見えるのだが、カットが切り替わると二人は座卓の上に立っていて、その周囲にはヤマミ荘の仲間たちが座り込んでいる。ひとつの世界に見えるものは、バラバラの視点を持つ者が集まることで紡がれていく。

鳥によって結ばれる二つのエピソードが印象的だ。森(?)で鳥に遭遇したオヤカタ(廣田彩)は「ここってどこですかね」と問いかける。その先にいるのはしかし、ウズベキスタンからヤマミ荘にやってきたシトラ(淺村カミーラ)の姿だ。彼女は何か言葉を返すが、それは日本語でも英語でもなく(ロシア語らしい)、オヤカタは「鳥語だからわかんねえ」とぼやく。

続く場面ではヤマミ荘で飼育されている鶏がシメられる。ワルというその鶏の名前は、ほかの鶏をいじめることから付けられたものらしい。母親(山田薫)と共に移住してきてヤマミ荘の近くに住んでいるアサト(秋村和希)は初めて鶏をシメる。その夜、実は中学のときにいじめられていたのだと彼は母親に告げる。鳥との遭遇から鳥をシメるまでの一連の流れはその後、夢のなかでの出来事のようにかたちを変えてもう一度繰り返される。だが、そこで吊るされシメられるのはワルではなく「誰か2」(百瀬葉)と呼ばれる存在だ。『環』にはその瞬間を彼女の視点から見た、首すじをカッターナイフで切りつけるアサトの姿を正面から捉えた映像も差し込まれている。

オヤカタと鳥=シトラの、ワルとアサトの、あるいは私と誰かの世界は違っている。それでもネムリの言葉を借りれば「いろんな者たちがすれ違って、すれ違って、すれ違って、かろうじてこうしてある」。学校は、劇場は、そのことを学ぶ場所だ。この作品は、映画美学校アクターズ・コースという俳優養成講座の修了公演として上演が予定されていた。

©︎かまたきえ


映画美学校:http://eigabigakkou.com/
『シティキラー』上演版映像:https://youtu.be/_aHAiDaLFBI
『シティキラーの環』第1環:https://youtu.be/eNWh038oOoU


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2020/03/04(水)(山﨑健太)

ポスト・コロナとシアターコモンズ’20

会期:2020/02/27~2020/03/08

港区エリア各所[東京都]

新型コロナウィルスの影響により、公演の自粛が増えてゆくなか、幸い、シアターコモンズが企画した、小泉明郎の『縛られたプロメテウス』を体験することができた。実はこれが二度目なのだが、一度目のあいちトリエンナーレ2019では、機器の不具合によって、VRの半分はカラフルな自然ののどかな風景を見ていたという未消化の体験だったため、もう一度完全なかたちで見ておきたかった作品である。やはり、脚本=朗読されるテキストの内容と、後半でその意味が明らかになるコラボレータの選択が傑出している。おそらく、今後もVR技術が日々進化するので、これよりもインパクトのある映像体験は簡単につくられるだろう。いや、すでに存在している。だが、作品がトータルでもたらす世界観の強度は減じないのが、まさにアートの価値だろう。


また同日の夕方、リーブラホールにて、ジルケ・ユイスマンス&ハネス・デレーレ『快適な島』を鑑賞した。壇上の二人が一言もしゃべらず、立ったままスマホを操作するだけなのだが、ドキュメタリー映像をその場で編集・上映するドキュメンタリー演劇だった。鉱石開発によって世界中の資本主義と接続し、翻弄された小さな島のテーマも興味深いが、上演形式そのものが考えさせられる作品である。考えてみるとこの後、筆者は演劇をひとつも見ていない。現時点ではこれが、最後の観劇だった。


改めてこれらの作品を思いだすと、いずれもポスト・コロナの作品としても興味深いように思われた。すなわち、小泉の作品は現存しない世界をVRで体験させており、ゴーグルの機器が一般化すれば、会場に足を運ばなくても成立するかもしれない。しかし(ネタバレになるので、ここでは詳しく書かないが)後半の展開はやはり人が集まることに意味を持たせる演出になっている。

またスマホを操作し、その画面を鑑賞するドキュメンタリー演劇の『快適な島』は、類似した例だと、内容はフィクションだが、父が行方不明の娘を捜索する『search/サーチ』(2018)のように、パソコンの画面だけを用いた映画作品があった。これはリアルタイムで操作しているライヴ感さえ確保できれば、それぞれの自宅で十分に鑑賞ができるかもしれない。自粛ムードの出口がしばらく見えないなか、上演の方法も問われるだろう。


公式サイト:
小泉明郎「縛られたプロメテウス」
https://theatercommons.tokyo/program/meiro_koizumi/
ジルケ・ユイスマンス&ハネス・デレーレ「快適な島」
https://theatercommons.tokyo/program/silke_huysmans_hannes_dereere/

2020/03/06(金)(五十嵐太郎)

普後圴写真集「WATCHERS」刊行記念展

会期:2020/03/05~2020/03/29

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

普後圴は、見慣れたフライパンを宇宙的な広がりを持つ画像に見立てた『FLYING FRYING PAN』(写像工房、1997)以来、モノや人の日常性をはぎ取り、抽象性を帯びた関係項に還元する作品を制作・発表してきた。だが、今回ふげん社で展示された「WATCHERS」は、普後の仕事のなかではやや異質な作品に思える。何かを「見る人」の後ろ姿を撮影した本シリーズでは、彼らの頭部や衣服は、カラー写真で克明に描写されており、モノクローム作品のような抽象性、象徴性はあまり感じられない。それらはむしろリアルなドキュメントに見えるほどだ。だが、作品全体を見直すと、そこにやはり普後らしいコンセプチュアルな指向性を感じる。

このシリーズは1999年にPGIで、「見る人」というタイトルで発表されたことがある。その時には、今回「WATERFALL」としてくくられた、ナイアガラの滝と華厳の滝を「見る人」を撮影した写真による展示だった。エンパイア・ステート・ビルと東京タワーの展望台から「見る人」の写真を撮影し始めたのは、2001年9月11日のニューヨーク同時多発テロがきっかけだったという。この「CITY」のパートが加わることで、アメリカと日本という対立項だけでなく、自然と都市という異なる環境に向き合う人たちの後ろ姿というファクターが、明確に提示されるようになった。

それにしても、人の背中の表情がいかに雄弁なのかが、この作品を見ているとよくわかる。見えない正面に対する想像力が喚起されるためでもあるのだろう。被写体になった一人ひとりの生のあり方が、画面の細部から鮮やかに浮かび上がってくる。それとともに、彼らを見ているもうひとりの「見る人」である写真家、さらにその写真を見る観客という具合に連想が広がっていく。見飽きることのない、奥行きのあるシリーズといえる。なお、本展にあわせてふげん社から同名の写真集が刊行された。「WATERFALL」と「CITY」の二つのパートを手際よく対比させた、すっきりとした造本の写真集である。

2020/03/07(土)(飯沢耕太郎)

劇団速度『景観と風景、その光景(ランドスケープとしての字幕)』

会期:2020/03/05~2020/03/08

新型コロナウイルス感染症対策として公演の延期・中止が相次ぐ厳しい状況のなか、舞台芸術の存立基盤の危機的状況に対する批評的でしなやかな応答も試みられている。本評ではその一例として、京都を拠点とする劇団速度の試みを取り上げる。

劇団速度は3月5日~8日に京都芸術センターで『舞台の実存とスクリーン、間にいるあなたの眼』の上演を予定していたが、12月に延期となった。この作品は、初期作品の沈黙劇のリクリエーションであり、「言葉と俳優の関係」「沈黙、反復、字幕」について扱うものであったという。彼らはこのコンセプトを引き継いだ映像作品を京都市内の路上で撮影し、集客型の劇場作品からオンラインでの動画配信に切り替え、公演が予定されていた計4日間、映像を1本ずつ公開していった。



と言っても、この映像作品『景観と風景、その光景(ランドスケープとしての字幕)』は、「(劇場の代わりに)路上で俳優が行なった演技の記録映像」ではない。副題が示すように、単なる「市街劇の記録映像」との違いは、行為を記述/指定する「字幕の介在」にある。映像は①固定カメラによる定点観測、②キャリーカートを引いて歩く俳優のあとを追うカメラ、の2種類から成るが、いずれもキャリーカートに載せられたディスプレイに「字幕」が投影され、「歩く」に始まり、「横切る」「すれ違う」「カバンを背負って歩く」「通勤する」「挨拶する」「目が合う」「振り向く」といった行為が次々と記述されていく。カメラに気づかず行き交う人々の姿は、あたかも「ト書きに指定された行為」を無言で遂行する俳優であるかのように見えてくる。それは「観察と命名」という一見客観的な行為でありつつ、「路上で起こる出来事のすべてを『演劇化』して取り込もうとする」暴力性をまとってもいる。



一方で、「映像の情報量の圧倒的な多さ」「行為の同時多発性」は、「ト書きによる行為の指定」をすり抜けていこうとするだろう。また、「ラジカセをつける」「音楽」という「字幕」の傍らで俳優が踊ったり、「横になる」「眠る」「リフティングする」という「字幕」どおりの行為を俳優が行なう光景では、確かに「指示どおりの行為」は起こっているのだが、果たしてそれだけで「演劇」が成立するのか? という疑問が浮上する。ここでは、「行為の指定と強制的遂行」に還元された演劇の原理的フレームが強化されつつ、その脆弱性もまた露わとなる。また、(通常の上演においては不可視の)「ト書き」が「字幕」として顕在化することで、「誰がその行為を指定するのか」という権力性や、一方的な関係性がはらむ暴力性も浮上する。

一方で、本来の上演会場であった空間が、「字幕」のディスプレイとともに「無人」で映し出されるシークエンスがたびたび挿入される。俳優も観客もいない薄暗い会場に、ただ「歩く」「すれ違う」「眺めている」「雨が降っている」といった言葉だけが提示されるとき、それは「不在のものの投影、二重化の眼差し」としての演劇を(再び)この場に召喚し、想像力の再起動を促すだろう。また、路上の光景に何度か映る「ビニール傘」「ボール」「ラジカセ」が「無人の劇場空間」に配置されていることは、これらの物体が「小道具」「音響装置」の位置を離脱して「(疑似的な)プレーヤー」の位相へと移行したことを示す点で、「ものの演劇」の潮流、脱人間・俳優中心的な演劇観の更新の試みといえる(劇団速度の主宰、野村眞人は、ものとそれが置かれた環境と人 (俳優)との相互作用として演劇の上演を捉え直す試み「#部屋と演劇」のメンバーでもある)。



このように本作は、「状況による不可避的な要請」を出発点としつつも、単なる代替案を超えて、「演劇」に対するメタ的な思索の試みとして成立している。また、(マスク姿ではあるが)普通に多くの人々が行き交う路上の光景は、その「退屈な日常性」によって、逆説的に「公演延期」に対する密やかな抗議を作品内部に刻印してもいる。こうした経験が12月の上演にどう組み込まれるのか、期待したい。

【劇団速度】『景観と風景、その光景(ランドスケープとしての字幕)』①2020年3月5日


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福井裕孝『インテリア』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年4月15日号)

2020/03/07(土)(高嶋慈)

リーディングパフォーマンス 市原佐都子/ジャコモ・プッチーニ『蝶々夫人』

会期:2020/02/29~2020/03/08

新型コロナウイルス感染症対策を受け、「観客も含めた少人数でのリーディング」という上演形態が、「オンラインによる戯曲配信」と「参加者の自主的なリーディング」に変更となった本作。合わせて公開された動画では、前半で市原佐都子自身が登場し、プッチーニのオペラ『蝶々夫人』(1904)の元となったピエール・ロティの小説『お菊さん』(1887~88)を紹介し、美しいが受動的存在として人形に例えられる「ステレオタイプな日本人女性」について解説したあと、後半では、実際のリーディング風景の抜粋が「お手本」として収録されている。筆者はグループでの自主的なリーディング会に参加する機会が得られなかったため、以下の本評は「戯曲の黙読」に基づくものである。

本作の構成は明快で、プッチーニのオペラ『蝶々夫人』と、市原が書き下ろしたオリジナルの台本が交互に登場する。アメリカから長崎に赴任した軍人ピンカートンの「現地妻」となった15歳の元芸者「蝶々さん」は、3年間夫を信じて帰りを待ち続けるが、彼がアメリカ人の妻を伴って帰還したことを知り、「青い目の息子」を遺して自害する。このメロドラマ『蝶々夫人』のダイジェストの合間に挿入される市原のテクストは、舞台を現代日本に置き換え、オリエンタリズムの眼差しに一方的に晒されてきた「蝶々さん」の側に「私もまた欲望の主体である」という「声」を与えて取り戻しつつ、被抑圧者が「正しい糾弾」を繰り出すのではなく、そうしたPC的な態度に潜む欺瞞に対しても反省的に自覚し、私たちが無意識に抱え込んでいる「差別意識」を突きつける。


市原の書き下ろしは3パートあり、①オペラ『蝶々夫人』をベースにした新作『超蝶々』をドイツの劇場と共同制作中の、女性アーティスト4名から成る劇団「ザ・イエローバタフライズ」の稽古場、②六本木で不倫したビジネスマンのアメリカ人男性による懺悔、③「外人」と結婚した「蝶々ちゃん」の結婚式で祝辞を述べる友人代表、というものだ。このうち、①では、「蝶々さんは、現代では『外人ハンター』(西洋人男性の気を惹くため、ステレオタイプな容姿で六本木に集まる日本人女性)ではないか」という会話に始まり、「容姿を唯一の基準とする女性の優劣化」「見られる対象として相手(西洋人男性/日本人男性)の欲望に容姿を従わせる理不尽さ」に対してルッキズム批判が繰り出されるとともに、「西洋人」への憧れと(コンプレックスの「克服」としての)差別感情があぶり出される。また、ドイツの国際フェスティバルを例に、「非西洋」が文化的植民地として搾取される構造への批判や、「でもフェスから資金が出るから創作できる」=資本主義のマーケットに取り込まれることへの批判が自己言及される。

②では、「不倫を牧師に懺悔するアメリカ人ビジネスマン」の言葉が、「外人」の金とステータスシンボルが目当ての日本人女性を「知性のないサル」と見なす侮蔑と嫌悪に塗り替えられていく。一方、これと対応関係にある③では、「六本木のバーで出会ったピンカートンと結婚した蝶々ちゃん」への祝辞であるはずの言葉が、「外人」(おそらく②のビジネスマンと同一人物)と自身の性行為の赤裸々な描写にすり替わり、「3万円もらった」という言葉が(メロドラマの陰に隠された)「売春」という『蝶々夫人』との共通項を浮かび上がらせる。

形式面を見れば、「牧師への懺悔」「結婚式の祝辞」という形式を借りて、長大なモノローグの「不自然さ」を回避・クリアする手法は、「落語」「歌謡ショー」「セミナー」の形式を借りた『妖精の問題』における問題意識の延長線上に位置づけられる。本作では、この「懺悔」と「祝辞」の双方がお互いへの差別的感情と動物的欲望を赤裸々に吐露するのだが、①の「稽古場シーン」も(市原自身が投影されたと思しき)1人の人物の分裂的な会話にも見える。そのなかで、前作『バッコスの信女―ホルスタインの雌』の海外公演にあたっての経験を自己言及的に引きつつ、「ドイツ人側に対話相手と見られていない」「対等の関係ではない」という台詞が登場する。モノローグの閉塞感の密度をこのまま高めていくのか、あるいはそれを突破してどうダイアローグへと移行するのかが、今後のポイントのひとつになるだろう。


戯曲の段階ではあるが、本作は、これまでの作品との共通項の上に、これからの方向性が見えるものだった。形式的には、オペラすなわち「音楽劇」の要素を含むこと。内容的には、「女性が(見られる・語られる対象ではなく)自身の性や欲望を語ることの肯定」「人種差別」「ハーフ」「ルッキズム批判」に加え、西洋・男性から非西洋・女性に対する「オリエンタリズム」の一方的な眼差しとその反転が加わり、より立体的な拡がりが獲得された。


公式サイト:シアターコモンズ'20 https://theatercommons.tokyo/

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2020/03/07(土)(高嶋慈)

2020年04月15日号の
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