artscapeレビュー

鉄道と美術の150年


2022年11月01日号

会期:2022/10/08~2023/01/09

東京ステーションギャラリー[東京都]

今年は新橋─横浜間に日本初の鉄道が開通して150年。だけではない。150年前の1872(明治5)年というと、裁判所が設置され、戸籍調査が実施され、郵便制度が始まり、グレゴリオ暦が導入されるなど、日本が西洋の諸制度を採り入れて近代国家への歩みを始めた時期。東京国立博物館も今年設立150年を迎えるが、これは150年前に「博物館」ができたのではなく、その前身である「博覧会」が開かれたということだ。そしてこの「博覧会」は翌年のウィーン万博への出展準備を兼ねたもので、その準備の過程で「美術」という日本語も生まれたのだった。つまり日本に「美術」という概念が成立したのも150年前ということになる。この展覧会が、出品作品の大半を絵画が占めるのに「鉄道と絵画」とせず、「鉄道と美術の150年」と謳っているのはそのためだ。

展覧会は、幕末の1854年にペリーから贈られた蒸気機関車の模型を描いた木版画に始まる。新橋─横浜間が開通してからは歌川広重(三代)、月岡芳年、小林清親らが機関車や沿線風景を錦絵に描いている。これらは鉄道を描写した絵画というより、報道用の挿絵といった趣だが、河鍋暁斎の《極楽行きの汽車》(1872)は装飾過剰の車体の後を天女が追いかけるなど、とても実物を見たとは思えないほど奔放だ。珍しいものでは、勝海舟が宮中で鉄道について説明するために描いた水墨画や、高橋由一が愛宕山あたりから蒸気機関車の煙だけをスケッチした「写生帖」などもある。

錦絵が廃れる20世紀になると、洋画による表現が増えてくる。よく知られているのが赤松麟作の《夜汽車》(1901)だ。木製の車内や和服の乗客、タバコを吸いながら語らう姿などはいまでは想像できない。やがて鉄道が電化されると、都市の風景も変わってくる。ここで思い出されるのが、昨年練馬区立美術館で開かれた「電線絵画展─小林清親から山口晃まで─」展だ。同展は電信柱が描かれた絵ばかりを集めたユニークな企画展で、近藤浩一路の《京橋》(1910)、小絲源太郎の《屋根の都》(1911)、神阪松濤の《暮れゆく街道》(1922)など、今回と何点かが重なっている。両展に共通するおもしろさは、近代文明の産物を古典的なメディアである絵画で表わしていること。とはいえ、西洋ではターナーやモネ、未来派などが鉄道のスピード、エネルギー、それがもたらす風景の変容などを絵画に反映させ、モダンアートの発展を後押ししたのに対し、日本ではそこまでのダイナミズムは見られず、むしろ旅情やロマンなど叙情に訴える傾向が強いように感じる。

戦後になると、中村宏やタイガー立石を例外として、鉄道をモチーフにする絵画は減り、電車内や駅を使ったパフォーマンスが増えてくる。その代表例が高松次郎や中西夏之らが行なった《山手線事件》(1962)だろう。しかし彼らが山手線を舞台に選んだのは、人(目撃者)が多いからであり、通勤通学という日常を異化したかったからであって、別に鉄道でなくてもよかったのではないか。ちなみに、前述の中村と立石が自身の絵画を担いで、東海道新幹線が開通したばかりの東京駅前の雑踏を練り歩いた写真も出品されているが、これなどは「文明の利器」としての鉄道と「古臭い」美術との対比を浮き彫りにした好例といえる。

最後のほうに、プラレールを使ったパラモデルや、東京の地下鉄路線が皇居を回避していることを示した柳幸典らの作品とともに、岡本太郎の巨大壁画に原発事故を描いた絵画を無断で付け足したChim↑Pomの《LEVEL7 feat.『明日の神話』》(2011)が展示されていた。最初なぜこの作品が出品されているのかわからなかったが、なんてことはない、ただ渋谷駅の通路に設置したからだった。「鉄道と美術」というには無理があるなあ。


公式サイト:https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202210_150th.html


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