artscapeレビュー
月が水面にゆれるとき
2015年08月15日号
会期:2015/06/27~2015/08/02
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]
木藤純子、曽谷朝絵、中村牧子、和田真由子の若手女性作家4名を紹介するグループ展。会場を実見しながら、「非実体性」というキーワードが立ち上がってくるのを感じた。
和田真由子は、木枠から垂れ下がったビニールシートやベニヤ板を組み合わせ、その上に鉛筆やアクリルで薄い描画を加えた作品を制作している。透明で薄いビニールシートは、描画が施される「支持体」でありつつも、木枠から垂れ下がったり重ね合わせられることで彫刻的・空間的なボリュームを獲得し、ヨットの帆や鳥の翼の形となる。支持体そのものが透明化し、物質性が希薄化する一方で、それを支えていた木枠やベニヤ板の存在が露わになり、モチーフの形象の一部のように成形され、彫刻へと近づく。このように和田の作品は、「描画されたイメージ/を支える物質的基盤としての支持体/を支える木枠(より基底部の枠組み)」の関係を分解し、露呈させ、空間的に再配置することで、「絵画」でも「彫刻」でもなく両方の要素が混在したハイブリッドな構築物を立ち上げる。そこでは、非実体的なイメージが物質性との往還の中で揺らぎや多層性を伴って立ち現われるのだ。和田の選ぶモチーフが、「ヨット」「鳥」「馬」といった運動性をもつものであることも、意図的な選択だろう。
曽谷朝絵は、バスタブや丸いたらいに満たされた水を、光を分解したプリズムを思わせる淡い虹色のグラデーションで描き出す。水面に生じたいくつもの波紋は、丸みを帯びたバスタブやたらいの形態と響き合い、揺らめくような光で充満した美しい画面を生み出す。曽谷のペインティングでは、光という実体のないものを描くために、プリズムを通して得られる可視的な光線という操作と、波紋や水面の反射といった現象的なモチーフがともに要請されている。
また、合わせて発表された映像インスタレーションでは、色とりどりの植物が絡み合いながら伸びていくアニメーションが、曲面鏡や半透明の布を用いて投影される。映像は鏡の反映によって床や天井にも映り込み、半透明の布を介して幾重にも重なり合うことで、旺盛な生命たちが繁茂する深い森や海底のサンゴ礁の中に分け入るような、幻想的な空間を作り上げていた。
中村牧子の陶磁器作品では、工芸における「装飾」の付随性それ自体が主題化される。用途や実用性が求められる工芸において、「装飾」は表面に付随する非本質的な要素と見なされがちである。しかし中村は、額縁や皿、ティーカップの表面に施された草花や蝶の装飾を過剰に増殖させ、表面に属しつつも半ば自律した存在として立体化させる。草花や蝶の装飾が三次元化されて空間へと飛び出していくのに対し、額縁や器はズレたり溶解したりと変形を被ることで、「本体・実体」と「付随的な装飾」の関係は転倒させられていく。
木藤純子はこれまでも、具体的な場に介入して、鑑賞者の知覚や認識を変容させるようなインスタレーションを発表してきた。出品作《ひるとよる》では、展示室の壁に、一見何も描かれていないように見える真っ白なキャンバスが等間隔で掛けられている。数分間の暗闇が訪れると、蓄光塗料で描かれていた波の光景が浮かび上がり、立ち並ぶ回廊の柱の黒い影の向こうに海を眺めているような感覚で満たされる。通常の明るい光の中では不可視であった潜在的なイメージが顕在化する劇的な瞬間と、空間の静謐さが同時に感じられ、忘れがたい体験となった。
2015/07/26(日)(高嶋慈)