2021年09月15日号
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artscapeレビュー

金魚(鈴木ユキオ)『揮発性身体論「EVANESCERE」/「密かな儀式の目撃者」』

2012年03月01日号

会期:2012/02/03~2012/02/05

シアタートラム[東京都]

鈴木ユキオは真面目な作家だ。真面目すぎるのではと疑問を抱くこともこれまであった。しかし、杞憂だったのかもしれないと本作を見て思った。彼の真面目さの向かう先が本作で明らかになった。
 本作のタイトルに用いられている「揮発性身体論」とは、筆者が聞き手となったアフタートークでの鈴木の発言によれば、ものが常温で蒸発するイメージを指しているという。2007年の『沈黙とはかりあえるほどに』の時点でつくりだそうとしていた〈強い身体〉〈過剰な身体〉は、見る者に過度にエモーショナルな(言い換えれば「熱い」)印象を与えるところがあった。その点を反省して鈴木が発案したのは「常温」で「蒸発」する「揮発性」の身体というコンセプトだった。「常温」と聞くと、熱すぎず冷たすぎず、ゆえになにも起きない、なんでもない、だからつまらないのでは、といったネガティヴな連想が起こるかもしれない。なるほど本作においても記号として掴みにくいダンサーたちの動きが「アンビエント・ミュージック」に似た「眠さ」を感じさせたことは事実だ。けれども集中して見れば、ダンサーたちの「常温」(いわばゼロ)の身体が、プラス極の力(ある力)とマイナス極の力(ある力に拮抗する別の力)の合計によって成り立っていることに、観客は気づいたはず。常に身体に諸力の拮抗が起きていて、そこにズレが生まれると、そのズレが運動=ダンスとなる。スリルをはらんだ緊張をエモーショナルな外見抜きで呈示すること。「揮発性身体論」とはさしあたり、そうした純粋に運動であることを目指すダンス論と言えるだろう。
 そう、鈴木が求めるのは純粋にダンス的なものである。排除すべきは非ダンス的なもの、例えばそれはエモーショナルな、あるいは芝居がかった、あるいは単に記号的な動作だろう。ダンスをダンスに返す、一種の還元主義的なモダニズムが鈴木の真面目さの真髄なのだ。
 とはいえ、鈴木を単なるモダニストとカテゴライズするのは危険だ。鈴木が志向するのはモダニズムというより純粋にダンス的なもののはずだから。身体の拮抗を持続すること、言い換えれば、身体が狂気の状態であり続けること。前半のソロ作品(「「EVANESCERE」」)で強く感じられたその方向が、後半の女性たちによる作品(「密かな儀式の目撃者」)になるとまだ曖昧になるところがあり、もっと完成度をあげるべきではと思わされた。しかし、壺中天とも大橋可也&ダンサーズとも異質な、グループでありながらダンサー各自の存在感の強さを求める意図はよく伝わったし、すぐエモーショナルなものを表わそうとしてしまうモダンダンスのダンサーではなく、また舞踏の踊り手でもなく、バレエのスキルが浸透している(ゆえに垂直性がしっかりある)ダンサーの身体で自分の理想を実現したいという独自の狙いや、そこで生み出そうとする質の高さも感じられた。鈴木のソロで堪能できるズレのダイナミズムが「振り付け」というレディ・メイド(理念的には誰もがやってみることのできる動作)においても温存されていること、それが鈴木の出演しないグループ作品での目標であるならば、険しいかもしれないが登ってみて欲しい山だと強く思わされた。

鈴木ユキオ新作「揮発性身体論」 Yukio Suzuki "Volatile body"

2012/02/04(土)(木村覚)

2012年03月01日号の
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