artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
絵画の庭──ゼロ年代日本の地平から

会期:2010/01/16~2010/04/04
国立国際美術館[大阪府]
これはぜひ見たかったので、終了まぎわに駆け込む。数年前の欧米の絵画を集めた「エッセンシャル・ペインティング」といい、今回の「絵画の庭」といい、なぜか東京の美術館が避けたがる絵画展に正面切って挑戦する姿勢は、このさいホメ倒しておきたい。出品は、現代日本特有の具象画に取り組む28人による約200点。地下2、3階の展示室全体を使って、それぞれが街の画廊程度の広さに区切られたブースで個展形式で作品を見せているので、見ごたえがある。未知の作家も何人かいたが、やはり絵画的構造をしっかり把握している厚地朋子や池田光弘、構造より絵画の快楽を前面に押し出す長谷川繁らにあらためてすばらしさを感じた。一方「例外」とはいえ、明らかに世代的にも作品的にも違和感のある草間彌生がなぜ入っているのか、逆に、展覧会の中心(または起点)に据えてもいい村上隆の出品がなぜ叶わなかったのか、言い出せばキリがないが、そんな不満を帳消しにしておつりが来るほど充実した展示だったといっておこう。ああ大阪へ行ってよかった。
2010/04/03(土)(村田真)
時の宙づり──生と死のあわいで

会期:2010/04/03~2010/08/20
IZU PHOTO MUSEUM[静岡県]
とても豊かでスリリングな展示である。写真とはこういうものだという可能性を鮮やかに証明している。とはいえ、展覧会に出品された展示物を見れば、とりたてて特別な作品が並んでいるわけでもない。もし学芸員にセンスがあれば、ほかの日本の美術館でもこれくらいの写真展は充分に可能だろう。むろん、そのセンスの欠如というのが致命的ではあるのだが。
タイトルを見るただけでは何だかよくわからないと思うが、展示されているのはいわゆる「遺影」が中心である。あの、日本なら葬儀の会場や仏壇に祀られる類の写真だ。本展のゲスト・キュレーターであるアメリカの写真史家、ジェフリー・バッチェンは、2004年に無名の職人や死者の家族の手で作られたそのような写真を集めて「Forget Me Not: Photography and Remembrance(私を忘れないで:写真と記憶)」展(ヴァン・ゴッホ美術館、アムステルダムほか)を開催した。今回はその続編というべき展示で、過剰な装飾物や故人の髪の毛などが添付された「ハイブリッド写真」、メキシコ系の住人たちのあいだで好まれた「写真彫刻」、葬儀用の花束と遺影写真を組み合わせたキャビネット・カードなどが出品されている。さらに日本での調査の結果を反映して、写真を焼き付けた骨壺、明治期の肖像写真(アンブロタイプ)、故人の写真を元にして描かれた肖像画など、非常に興味深い写真/絵画群が付け加えられた。これらはたしかに死という絶対的な出来事を呼び起こす図像ではあるが、同時にさまざまな操作によって、そこに写っている被写体をいまなお生きているかのように撮影し、加工したものでもある。つまりこれらの「遺影」は「生と死の間で宙づりになっている」のだ。
それに加えて、バッチェンが本展のために構成したのが、撮影者の「影」が写り込んでいるスナップ写真のパートである。これもとても魅力的なテーマで、影は被写体となった人物と撮影者の「間」に侵入しており、画面の内と外を媒介する働きをしている。さらに言えば、その写真を見る鑑賞者にとっては、あたかも自分の視線が物質化してそこに写っている人物に迫っているようにも感じられるだろう。この「影」の存在も、どこか不安定な「宙づり」の感覚を引き出してくるのではないだろうか。これら「影」が写っているスナップ写真は、ほとんどが無名の庶民たちによってごく日常的に撮影され、アルバム等に貼られて保存されてきたものだ。ところがその中に、さりげなく森山大道とリー・フリードランダーの写真が紛れ込ませてある。このあたりの展示構成も実にうまい。つまり、ここでも意図的な「影」の使用と、その無意識的なあらわれとの「間」が浮かび上がってくるのだ。
「遺影」と「影」のスナップ写真という組み合わせは、ややかけ離れているように見える。それを繋いでいるのが、バッチェンが近年提唱している「ヴァナキュラー写真」という考え方である。プロフェッショナルの、あるいはアート志向の写真家たちの作品ではなく、無名の撮影者によって日常的に制作されてきた「ある土地に固有の」写真群。それらをむしろ人類学的に読み解くことで、写真を単一の共通概念であるphotographyではなく、複数形のphotographiesとして見る視点が生まれてくる。「ヴァナキュラー写真」を、写真がどんなふうに使われているのかという実践的なアプローチとしてとらえ直そうとするバッチェンの試みはとても刺激的である。作家、作品中心主義の写真展のキュレーションに一石を投じるものといえるのではないだろうか。
2010/04/03(土)(飯沢耕太郎)
なかもと真生

会期:2010/03/19~2010/04/11
大原美術館[岡山県]
大原美術館は、写真や映像作品、パフォーマンスやイベントなどの分野で活動するアーティストに注目したAM倉敷(Artist Meets Kurashiki)という企画を継続的に開催している。その第6弾として京都在住の作家、なかもと真生が紹介された。屋外と屋内の2箇所に、電化製品や木材などの廃品を銀色に塗装した、パソコンのマザーボードをイメージさせる巨大なインスタレーション。倉敷市水島地区での2年にわたるリサーチをもとに、同地区で収集された廃材を用いて制作された作品は、土地の歴史の物語であることも容易に想像できる。驚いたのは一緒に展示されていた構想メモやアイデアスケッチの数々。ぎっしりと細かく書き込まれたその量がまずすごい。全部をたどって見るのが難しいのだが、作家のキャラクターと努力は一目瞭然。作品との関連を示す簡単な解説があればより理解も深まったかもしれず、やや惜しい。
[写真=屋外展示風景]
2010/04/02(金)(酒井千穂)
クリストとジャンヌ・クロード展

会期:2010/02/13~2010/04/06
21_21デザインサイト[東京都]
昨年11月に亡くなったジャンヌ・クロードの追悼展、とは謳ってないけど、クリスト夫妻と仲のよかった三宅一生さんの尽力で成り立った展覧会であることは間違いない。一生さんとクリストとの接点はもちろん「布」。展示は、ブルガリア時代のクリストのドローイングから、パリでのジャンヌ・クロードとの出会いを経て、初期の梱包作品、《ヴァレー・カーテン》《包まれたポン・ヌフ》《アンブレラ》などの巨大プロジェクト、そして《オーバー・ザ・リバー》などの未実現のプロジェクトまでを紹介している。展覧会ディレクターを務めたのは、昨年末に『クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』を上梓した柳正彦。展示は本の立体版といった趣で、展覧会を見逃した人はこの本でじっくり味わってほしい。もちろん、本物の作品の持つ非現実的な美しさは本でも展覧会でも伝わらないけどね。
2010/04/02(金)(村田真)
アートフェア東京2010

会期:2010/04/02~2010/04/04
はじめてアートフェア東京に訪れた。といってもアートフェア東京は、2005年にはじまり今年で5回目を迎えた新しいイベントであり、まだ日本にそれほど浸透していないだろう。噂には聞いていたが、規模が大きい。参加ギャラリー138で、来場者数は約5万人だったというが、実際、世界最大規模といわれるアートフェアは、パリのFIACが参加ギャラリー210強、来場者数は8万人近く(2009)、アート・バーゼルが参加ギャラリー300強、来場者数は6万1000人(2009)だというから、ほぼ近いオーダーである。さて筆者は、美術の専門ではないので、率直に感じたことを書いておく。まずあまりにもさまざまな傾向が混在していた気がした。現代美術だけではなく、古美術、日本画、洋画、そして新しいタイプと名付けられていたが浮世絵まであった。もちろん、売買が最大の目的であるはずだろうし、多様な需要をシャッフルする狙いがあるのだろうが、単純に観に来ていた立場からすると、例えば今年の傾向が多少はわかるような仕組みもほしいような気がした。ただ、日本のアートマーケットの多様さが示されていたのであろうし、そもそも海外のように現代美術だけだと、マーケットとしてまだ成熟していないのであろう。おそらくG-Tokyo2010のような、現代美術専門のアートフェアが、今後現代美術のマーケットを拡大するのであろう。ファンタジックな作品が多くなっているという声も聞いた。実際、筆者は建築に絡むようなものを探しながら歩き、建物と山や船といったものがキメラ状にあわさった絵をいくつか見たが、それらもファンタジックではある。ただ、今年だけだとまだよく分からない点も多かったので、またアートフェアには足を運んでみたい。
URL=http://www.artfairtokyo.com/
2010/04/02(金)(松田達)


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