artscapeレビュー
2014年06月01日号のレビュー/プレビュー
中房総国際芸術祭 いちはらアート×ミックス
会期:2014/03/21~2014/05/11
市原市南部エリア[千葉県]
房総半島の中央にある市原市を舞台にした芸術祭。小湊鉄道の沿線に60組あまりのアーティストによる作品が展示された。大地の芸術祭や瀬戸内国際芸術祭と同じく、過疎高齢化という問題を基礎にした地域型の芸術祭である。先行する2つの芸術祭になくて、この芸術祭にあるのは、鉄道を主軸にした会場構成。運行数が少ないせいか、実質的にはバスでの移動がメインだったにせよ、山間を走る鉄道に乗って作品を訪ね歩くというコンセプト自体は新しい。
けれども、展示された作品は、すべてを鑑賞したわけではないので断定することはできないが、全体的に昨今の地域型芸術祭の傾向に沿うもので、とくに目新しいとは思えない。学校校舎などを再利用したうえで土地の風土や記憶を主題にした作品を展示し、あわせて祝祭的な行事や演劇的なパフォーマンスを演出する。こうした方法論が過疎高齢化という問題へのアートの文脈からの回答であることは理解できるにしても、それが鑑賞者の欲望を十分に満たすとは限らない。
ただ、いずれの地域型芸術祭にも通底しているのは、「食」を芸術祭に不可欠な要素として重視していることだ。とりわけ都市からの来場者にとって、その土地で育まれた野菜の味わいは、美術作品を鑑賞する以上に深く印象づけられることが多い。いかにコアなアートファンといえども、胃袋が幸せになれば、おおむね満足して帰っていく。この点は、都市型の芸術祭には到底望めない、地域型芸術祭ならではの特質であり、それを巧みに取り込んだ戦略が功を奏していることは間違いないだろう。
「食」と「作品」を並列のプログラムとして扱うことは、しかし、観客動員数を稼ぎだすための手段にすぎないわけではない。双方は、現われ方が異なっているにせよ、本来的に人間の営みとして同じ水準にあるからだ。人は食べると同時にものをつくり、絵を描くように食材を調理している。山河や海から自然の恵みを得ることと、日本画の画材を植物や鉱物から調達することは、基本的には同じ身ぶりである。明治以後の「美術」は都市を主要な舞台としてきたせいか、「作品」を特権化する反面、自然との関係性を蔑ろにしてきた。この不自然な偏りを是正することに地域型芸術祭の究極的な目的があるとすれば、「作品」を近代という偏狭な枠から解放する糸口は「食」だけにとどまらない。「住」や「衣」、あるいは「読む」、「書く」、「見る」といった身ぶりからも「作品」を解きほぐすことができるはずだ。
地域型芸術祭の課題は、それゆえ過疎高齢化という問題への即効的な効果の有無というより、むしろ従来の近代的な「作品」概念をどこまで私たちの手に取り戻すことができるのかという点にある。「作品」の主題が似通っていること以上に、「作品」そのものをいかにして人間の営みに引き戻し、溶けこませることができるのかが問題だ。こうした取り組みは抽象論に聞こえがちだが、過疎高齢化という具体論と決して矛盾しない。過疎高齢化をもたらした都市への人口集中は、人間の営みから「作品」を切り離し、特権化する過程と完全にパラレルだからだ。美術の問題を考えることと、都市社会のそれを考えることは、意外なほど通じあっているのである。
もちろん、この「考える」ことは、アーティストだけの仕事ではない。みんなで「考える」のだ。
2014/05/11(日)(福住廉)
冬耳 展「ミドリの光、アイイロの森」
会期:2014/05/09~2014/05/21
gallery near[京都府]
絵具を原色で用い、輪郭線のない色面だけで構成されたカラフルな絵画を制作する冬耳。その絵は一見ポップで、グラフィティー風でもあるが、真のテーマは自然や生命など根源的なものだ。また近年は、日本人の自然観に対する関心が増しているそうだ。地元京都では5年ぶりの個展となる本展では、横幅約5メートルの大作《ヘビの行進》をはじめとする約20点を展覧。それらのなかには激しい筆致やムラのある色面など、従来とは異なる要素が垣間見える作品が幾つかあり、彼が新たな段階に入ろうとしている気配が感じられた。
2014/05/13(火)(小吹隆文)
開館15周年記念 サッカー展、イメージのゆくえ。
会期:2014/04/26~2014/06/22
うらわ美術館[埼玉県]
サッカー・ワールドカップが開催される年であり、浦和で開催されている展覧会だからといって「サッカーファンのための企画」と思って訪れたならば、きっと肩すかしを食らうに違いない。なにしろ、ポスター・チラシのデザインにあたっては、デザイナーにあえて赤(浦和レッドダイヤモンズのシンボルカラー)とオレンジ(大宮アルディージャのシンボルカラー)の使用は避けるようにと指示したというのだから
この展覧会では、サッカーやスポーツとその表象に関するあらゆるテーマが挙げられているといえよう。欠けているとすれば、商業化の歴史とその帰結ぐらいであろうか。そして多様なテーマを包括するものとして、これらの表象が書籍や雑誌などの印刷物や映画といった複製メディアが主な舞台となっている点が指摘されている。サッカーは世界のもっとも多くの国・地域で行なわれ、もっとも競技人口が多いスポーツと言われている。それはただ楽しむためのゲームであるばかりではなく、近代的な教育や規律を形成する手段であったり、国威発揚の舞台であったり、スポーツ用品メーカーがしのぎを削る場であったり、メディアが発達するきっかけであったり、時には紛争の火種となったりもする。スポーツ、そしてサッカーは、それ自体が同時代の社会の表象であり、その表象はメディアを通じて私たちのスポーツに対するイメージを形成し、形成されたイメージは今度はゲームのルールや場に影響を与えていくのである。[新川徳彦]
2014/05/14(水)(SYNK)
映画をめぐる美術──マルセル・ブロータースから始める
会期:2014/04/22~2014/06/01
東京国立近代美術館[東京都]
ベルギー出身のアーティスト、マルセル・ブロータースを中心に国内外のアーティストによる映像作品を展示した展覧会。興味深かったのは、展覧会のコンセプトと展示構成が照応していたこと。会場中央のブロータースの部屋から四方に向かって暗幕の小道がいくつも伸び、その先にそれぞれの参加作家の作品が展示された。暗闇の道を歩いて映像を訪ね歩く鑑賞方法が面白い。
とりわけ注目したのが、エリック・ボードレールとピエール・ユイグ。前者はパレスティナの風景やさまざまなイメージを映しながら、パレスティナ解放戦線に身を投じた重信房子の娘メイと、重信に合流した映画監督の足立正生による語りを聞かせる作品だ。映像化されていない27年間という時間について足立とメイが口にする言葉と、それらにあわせて映し出される映像は直接には対応していない。けれどもその音声と映像が脳内でまろやかに溶け合うとき、眼前の映像とはまったく別の映像を見ているような気がしてならない。映像を見ていながら、実はもうひとつ別の映像を見ているのだ。もちろん、それは単なる眼の錯覚なのかもしれないが、しかしそれこそが紛れもない映像詩と言うべきだろう。言葉の奥にイメージを見通すのが詩であるとすれば、エリック・ボードレールの映像作品は確かに映像の向こうを垣間見させたからだ。1時間ほどの尺がまったく苦にならないほど濃密で洗練された詩情性が実にすばらしい。
一方、ピエール・ユイグの作品の主題は、銀行強盗。1970年代にニューヨークで起きた銀行強盗事件の犯人に、当時の現場を再現したセットで証言させた。行員や警備員、警察官役のエキストラに指示を出しながら事件の経緯と内情をカメラに向かって話す犯人の男の口調はなめらかで意気揚々としている。だが、時折差し込まれる同事件に着想を得た映画『狼たちの午後』からの引用映像や、当時の現場を報じるテレビのニュース映像は、基本的には犯人の証言に沿いながらも、正確にはわずかにずれており、犯人が詳らかに語れば語るほど、その微妙な差異が逆説的に増幅していくのだ。おそらくピエール・ユイグのねらいは事件の真相を解明することにあるのではない。さまざまな視点による複数の映像を縫合することなく、あえて鑑賞者の眼前にそのまま投げ出すことによって、私たちの視線を映像と映像の狭間に導くことにあったのではなかったか。映像を見る快楽とは、視線がその裂け目にゆっくりと沈んでいくことに由来しているのかもしれない。
両者は、方法論こそ異なるとはいえ、ひとつの共通項を分有していた。それは、視線の焦点が映像そのものにあるのではなく、その先に合わせられているということだ。そこに、映像表現を楽しむための手がかりがある。
2014/05/17(土)(福住廉)
プライベート・ユートピア ここだけの場所 ブリティッシュ・カウンシル・コレクションにみる英国現代美術の現在
会期:2014/04/12~2014/05/25
伊丹市立美術館[兵庫県]
本展は、ブリティッシュ・カウンシルが所蔵する英国現代美術コレクションを紹介する展覧会だ。チャップマン兄弟、コーネリア・パーカー、サイモン・スターリング、ライアン・ガンダー、グレイソン・ペリー、サラ・ルーカスなど1990年代以降に登場した作家が目白押しで、とても贅沢なラインアップだった。筆者自身が惹かれたのは、マーティン・ボイスの作品だ。彼はモダン・デザインの定番であるアルネ・ヤコブセンの椅子を解体してモビールを制作し、モダニズムの現状を皮肉った。しかし、本展の作品は彼のように読み解きやすいものばかりではない。英国の文化や社会的背景を前提にした表現が少なからずあり、ハードルの高さを感じたのも事実である。それでも自国の現代文化を積極的に海外に広めていく姿勢には共感を覚える。日本政府も同様の試みを戦略的に行なってほしい。
2014/05/18(日)(小吹隆文)