artscapeレビュー

2018年04月01日号のレビュー/プレビュー

横湯久美展 時間 家の中で 家の外で

会期:2018/03/10~2018/04/21

原爆の図丸木美術館[埼玉県]

ここに来るのは10年ぶりくらいかな。初めて訪れたのは70年代なかばでもう4、5回来ているから、だいたい10年にいちどの割合だ。今日訪れたのはもちろん原爆の図と、横湯久美展を見るため。横湯は20年来、祖母を題材にした写真とテキストによる作品を発表してきた。祖母は第一次世界大戦の開戦年に生まれ、第二次世界大戦中は夫(祖父)とともに戦争に反対して弾圧を受け(夫は治安維持法により逮捕され、仮釈放中に死亡)、戦後半世紀以上を生き伸び、2000年に死去。同展は、祖母のヌードを含むポートレートと、彼女の生涯に世界史を重ねたテキストからなる《時間 家の中で 家の外で》、祖母の死去に際して起こした作者の奇行を記録した《その時のしるし》など、5つのシリーズを再構成したもの。原爆の図のように激烈ではないけれど、さりげなく語りかけてくるのにズンとくる。まるでおばあちゃんみたい。

祖母いわく、「芸術家はワガママであることを最も大切にしている仕事なんだよ」「誰よりも、自由に敏感なんだ。だから、国が戦争を始めようとした時、ほかのどんな職業の人よりも先に、この人たちはその気配に気付いて、みんなにもわかるように大騒ぎをすることができる」「孫のおまえが美術をやっているのだって、絶対に私に似たんだと思う」。横湯が祖母から美術家として、人間として多大な影響を受けたことは間違いない。それは祖母の死後も大きくこそなれ、小さくなることはないだろう。

2018/03/15(村田真)

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名取事務所『渇愛』

会期:2018/03/09~2018/03/18

下北沢B1[東京都]

美術教師のジェソプ(渡辺聡)は妻・ソヨン(森尾舞)と息子・ヒョンス(窪田良)と暮らしている。ある日、家を訪れた息子の友人・ジンギ(西山聖了)を見たソヨンは、「彼はかつて堕した子供の生まれ変わりだ」と言い出し、両親のいない彼を養子に迎える。ジンギに異常な愛情を注ぐソヨン。その愛情は一線を越える。母と交わるジンギの姿を目撃したヒョンスは彼を刺してしまう。母とジンギは出ていき、絶望したヒョンスは自ら命を絶つ。ところがその後、ソヨンは詐欺罪で投獄されてしまう。彼女もまた、ジンギに騙されていたのだった──。

韓国の劇作家・金旼貞(キム・ミンジョン)が実際の事件をもとに書いたという本作。一連の事件は、ジンギを殺そうと彼の部屋で待ち受けるジェソプによる断片的な回想のかたちで語られる。ジンギという「怪物」を中心に置いたサイコスリラーと思われた物語はしかし、徐々に現代版ギリシャ悲劇とでもいうべき様相を露わにしていく。短い場面を巧みにつなぐ寺十吾の演出が見事だ。

この物語がより悲劇的なのは、それがすでに起きてしまった出来事だからだ。シャーマンの一種「ムーダン」の家系に生まれたソヨンはかつて、ムーダンになるのが自分の運命であり、逆らえば家族に不幸が訪れるとジェソプに訴えていた。だが彼は世間から忌み嫌われるムーダンになる必要はないと彼女を説き伏せてしまう。結果から見れば、彼女の予言は正しかったと言うほかない。彼は起きることがわかっている悲劇を反芻する。そこに彼の意志が介入する余地はない。

それでもなお、悲劇は彼の選択を映したもので、だからこそこれは悲劇なのだ。ジェソプはさまざまな面でソヨンを抑圧していた。子供を堕したのも、ジェソプに十分な稼ぎがなかったからだ。ジンギは家族を狂わせたが、状況を準備したのはジェソプ自身だ。ジェソプは最終的に、ジンギを殺人犯に仕立てあげようと自ら喉を搔き切る。彼の命を奪うのは砕け散った鏡だ。

[撮影:坂内太]

公式サイト:http://www.nato.jp/index.html

2018/03/15(山﨑健太)

インダハウス・プロジェクツno.1『三月の5日間』

会期:2018/03/15~2018/03/24

ベルリン・セミナーハウス[神奈川県]

岡田利規の戯曲『三月の5日間』のラスト近く、女が道端で野糞をしているホームレスを犬と見間違え、そのことに衝撃を受けて嘔吐するという場面がある。山縣太一演出の『三月の5日間』を観ながら、この場面のことを思い出していた。あるいはこの場面を演じる「男優」が、直後に「女性用のリップクリームを出して、唇に塗」るというト書きのことを。身体と意味との間に生じる裂け目が強烈に気持ち悪い。

山縣が演出する作品では、俳優の発話と身体の動きとの間に大きなギャップがあるように見える。より正確に言えば、それぞれが別のラインによって、しかし強烈にコントロールされているように。しかしそもそも、発話と動作が一対一で対応している人間などいない。すべてを意識的に制御することなどできないほど無数のラインによって身体は動かされている。太一メソッドと呼ばれる技法が試みるのは、可能な限り細分化された多くのライン(そこには目や耳といった受容器官も含まれる)を俳優の意識の支配下におき、それぞれに別系統の命令を走らせることだ。

そのように私には見える。と言わなければならないのは、観客たる私は俳優の内部で起きていることを知る術を持たないからだ。言葉の向こうに立ち上がる異形の身体。言ってしまえばそれは単なる体の動きにすぎない。だが、得体が知れないがゆえに、言語化され得ない何かがそこに漏れ出ているようにも見える。イラク戦争の開戦を尻目にラブホに連泊する男女の言葉は軽薄だ。だがその身体が湛える何かは軽薄なだけでなく凶暴で張り詰めている。あるいはそれは、2018年から彼らをまなざす俳優/観客の、2003年という劇中の現在には存在しない感情にさえ見える。見えないはずのものが見えてしまう。

私は山縣の演出する作品がいつも薄っすら怖い。舞台上の俳優たちを見るうちに、私もベロリと剥かれているような気がしてくるからだ。恐怖に魅入られた私は俳優たちから目を逸らせない。

[撮影:三野新]


公式サイト:https://bellringsseminarhouse.tumblr.com/

2018/03/16(山﨑健太)

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