artscapeレビュー

2018年09月15日号のレビュー/プレビュー

原田裕規「心霊写真/マツド」

会期:2018/07/01~2018/08/05

山下ビル[愛知県]

今年4月に東京のKanzan Galleryで開催された「心霊写真/ニュージャージー」展、そして続編の「心霊写真/マツド」展へと展開する原田裕規の関心は、おそらく、「ファウンドフォト」という手法ないしは問題機制をめぐり、匿名的な市井の撮影者/アーティスト/キュレーターという「複数の主体の座」の侵犯や撹乱にある。

先行する「心霊写真/ニュージャージー」展と同様、本展は以下4つの構成要素からなる。1)清掃やリサイクル業者から原田が引き取った、「捨てられるはずだった写真」の膨大な山。「心霊写真」というタイトルが呼び起こす期待とは裏腹に、それらは家族や友人のスナップ、行事や旅行先での記念撮影、風景写真など、ごく普通のアマチュア写真であり、モノクロとカラーが混在する。一部は輪ゴムで束ねられ、「飛行機」「宴会」といったグルーピングが読み取れる。「謎の静物」「花、オールオーバー」などの分類メモを原田が記した付箋が付けられたものもある。2)一部のみが大きく引き伸ばされ、ネガポジ反転した画像。スマートフォンのネガポジ反転機能を用いると、「元の正しい色調の画像」が液晶画面内に浮かび上がる。3)上述1)の写真から選ばれ、額装された写真。4)「百年プリント」と書かれたDPE袋と、郊外の平凡な風景を写した写真。その表面は時間を経たように黄ばんでいるが、この「黄ばみ」は原田によりPhotoshopで補正された人工的な着色である。



《百年プリント:マツド》


ここで、ファウンドフォトを用いた例として、例えばフィオナ・タンの《Vox Populi(人々の声)》や木村友紀のインスタレーション作品が想起される。《Vox Populi(人々の声)》は、展覧会開催地に住む人々からタンが収集したアマチュア写真を、構図や被写体の人数、ポーズ、撮影シーンなどでグルーピングし、ある地域や文化圏の住民が無意識的に共有する「写真のコード」のマッピングを浮かび上がらせようとする試みだ。また、木村友紀は、「発見された写真」を元の文脈からズラし、ある形態や色彩といった細部をトリガーに、別の写真やオブジェと接続させて読み替えるインスタレーションを制作する。こうしたタンや木村と異なり、1)での原田は収集した写真を一方では方向づけてコントロールしようとしつつも、半ば放棄している。観客は、「整理途中の写真の山」を実際に手に取って一枚ずつ眺めることができ、組み換えて別のグルーピングの束をつくることも許可されている。つまり観客が目にするのは、アルバムから引き剥がされて元のコンテクストを失い、アーティストによって選別された「ファウンドフォトの作品」としての新たな登録先もまだ得ていない、浮遊状態の写真なのである。原田はここで、「埋もれた匿名的な写真」を独自の視点で「発見」し、「新たな(美的、文化史的、記録的……)価値」を付与する特権的な「作者」として振る舞うことを自ら放棄している。それは、「ファウンドフォト」という手法に潜む「一方的な簒奪」 「私物化」といった暴力性に対する、批評的な態度の表明と言える。

その一方で、3)の額装された写真は、「任意の写真を選別し、フレームという装置によって他と聖別化する」行為を前景化させ、キュレーションの権力を発動させることで、アーティスト/キュレーターの職能的な弁別を撹乱する。また、4)において原田は、技術的卓抜やアーティストとしての視点の独自さを示すわけでもない。人工的な褪色を付けられた匿名的な風景の写真は、「平凡なアマチュア写真」の撮影者に自らを擬し、さらに「時間的経過」の味付けをフィクションとして加味することで、1)の収集された写真群の匿名的な撮影者の立場に自らの身を置こうとする身振りである。「撮影者の気持ちを想像して書いた文章を添える」というもうひとつのフィクショナルな仕掛けが、この偽装をより強調/暴露する。

「ファウンドフォト」の作者としてのアーティスト/キュレーター/アマチュア写真の撮影者。原田はその役割を演じ分け、曖昧化・多重化させることで、境界を侵犯的に撹乱させる。一枚の「ファウンドフォト」には、被写体となった人物だけでなく、撮影した者、現像した業者、現像された写真にかつて眼差しを注いだ者、その写真に新たな光を当てる「アーティスト」、その「ファウンドフォト」を展示作品として選別するキュレーターなど、複数の主体の関与や眼差しが透明ながら密接に折り重なっている。写真それ自体には写らない亡霊のような「彼ら」の存在をこの場に召喚し、写真の背後に透かし見ようとすること。それこそが、原田の試みにおける「心霊写真」の謂いである。



会場風景




原田が収集した、約1万枚の写真


2018/07/29(日)(高嶋慈)

大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2018

会期:2018/07/29~2018/09/17

越後妻有里山現代美術館[キナーレ]ほか[新潟県]

    第7回となる越後妻有アートトリエンナーレのオープニングに出席する。今回の式典会場は屋外ではなく、原広司が設計した《キナーレ》の回廊を用いたおかげで、朝とはいえ、夏の暑さを回避することができた。21世紀の日本の芸術祭における建築と美術の境界を下げることに大きく貢献したのは、間違いなく、越後妻有の功績だが、2018年も建築的な見所が用意されている。まず、キナーレは、レアンドロ・エルリッヒによる錯視を利用した《Palimpsest: 空の池》を囲むように、企画展「方丈記私記」の四畳半パヴィリオンが並ぶ。例えば、建築系では、箸を束ねた《そば処 割過亭》(小川次郎)、人力で家型が上下する《伸び家》(dot architects)、《十日町 ひと夏の設計事務所》(伊東豊雄)、デジタル加工したダンボールによるコーヒースタンド(藤村龍至)、メッシュによる方丈(ドミニク・ペロー)、公衆サウナ(カサグランデ・ラボラトリー)である。極小空間としての庵そのものは、もうめずらしくないテーマだが、今後これらが町に移植され、活性化をはかるという。

清津峡渓谷トンネルに設置された中国のマ・ヤンソン/MADアーキテクツの《ペリスコープ》と《ライトケーブ》は傑作だった。前者は上部の鏡から外部の自然環境を映し込む足湯、後者は見晴らし所にアクセスするトンネルを潜水艦に見立てたリノベーションである。全長750mの巨大な土木空間ゆえに、照明、什器、トイレ、水盤鏡など、わずかに手を加えただけだが、まるでこの作品のためにトンネルがつくられたかのように思えるのが興味深い。そして何よりも涼しいことがありがたい。そしてトリエンナーレの作品ではないが、十日町では青木淳による新作が登場した。地元と交流しながら、設計を進めたプロセスでも注目された《十日町市市民交流センター「分じろう」》と《十日町市市民活動センター「十じろう」》である。リノベーションとはいえ、外観はあえて明快な顔をつくらない感じが彼らしい。その代わりに「十じろう」では、マーケット広場という半公共的な空間をもうける。ゆるさをもつデザイン、自動ドアでない引き戸、青木が寄贈した本などが印象に残った。

越後妻有里山現代美術館[キナーレ]の内部


小川次郎《そば処 割過亭》


マ・ヤンソン/MADアーキテクツ《ライトケーブ》


青木淳《十日町市市民交流センター「分じろう」》

2018/07/29(日)(五十嵐太郎)

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宇田川直寛「パイプちゃん、人々ちゃん」

会期:2018/07/18~2018/08/10

ガーディアン・ガーデン[東京都]

とても刺激的で面白い展示だった。宇田川直寛は2013年の第8回写真「1_WALL」展のファイナリストで、今回は同展のグランプリ受賞者以外の作家による「The Second Stage at GG」の枠での展覧会である。にもかかわらず、本展は「写真展」ではない。宇田川は、「写真家と名乗る俺」がよく撮影する「パイプちゃん」(鉄パイプ)という被写体の意味、またそれを作品化するというのはどういうことなのかを問い詰め、あえて写真作品を展示しないやり方を取ることにしたのだ。

会場に並んでいるのは、「観測者」である「人々ちゃん」たちに、パイプを取り扱う「ルール」を考えてもらい、その「ルール」に従って制作している過程を彼が撮影した映像を流す10台のモニター、実際に制作作業に使用した平台(彼のアトリエに常備してある)、「人々ちゃん」たちがつくったルールを別の第三者に伝え、それに従って石膏やパイプで再制作してもらった作品などである。「ベニヤ板と単管パイプ」という基本的な組み合わせが、「木の枝と石、ラップとクランプ」、「長い草と短い草」という具合に読み替えられ、最後はルールづくりのコミュニケーションのあり方を問題にして、電話による指示を聞きながら作業するという段階にまで至る。作品制作のプロセスそのものがテーマなのだから、できあがった「作品」は見せる必要がないし、写真による記録も視点の固定化を促すという理由で潔癖に排除されている。宇田川の思考と実践の往復運動が、会場構成にもよくあらわれていて、とても見応えのある展示が実現していた。

だが、今回の試みの最大の弱点は、作品の重要なファクターである「人々ちゃん」が、宇田川の周囲の、コミュニケーションしやすい仲間たちに限定されていることだろう。そうなると、次に何が出てくるかわからないスリリングな展開はあまり期待できなくなる。もっと異質な「人々ちゃん」──例えば子ども、外国人、障がい者などにも作品制作のプロセスを開いていくことで、「パイプちゃん」の変容はより加速するのではないだろうか。

2018/08/01(水)(飯沢耕太郎)

杉浦邦恵「うつくしい実験 ニューヨークとの50年」

会期:2018/07/24~2018/09/24

東京都写真美術館2階展示室[東京都]

1942年、名古屋生まれの杉浦邦恵は、1963年にお茶の水女子大学物理学科を中退して渡米し、シカゴ美術館付属のシカゴ・アート・インスティテュートに入学する。杉浦が師事したケネス・ジョセフソンはインスティテュート・オブ・デザイン(ニュー・バウハウスの後身)でハリー・キャラハンやアーロン・シスキンに学んだ実験的なスタイルの写真家であった。杉浦は彼の影響を受けて室内のヌードモデルを魚眼レンズで撮影し、フォトモンタージュなどの技法を駆使して画面に構成した写真作品「孤(Cko)」を制作する。1967年には、シカゴからニューヨークに移転し、カンヴァスに感光乳剤を塗って写真を焼き付け、アクリル絵具による抽象的なドローイングと合体した、「フォトカンヴァス」のシリーズを制作・発表するようになった。

杉浦の代表作といえば、1980年代以降に制作し始めた「フォトグラム」作品を思い浮かべる。だが、日本での最初の本格的な回顧展となる今回の「うつくしい実験」展を見て、シカゴ時代、あるいはニューヨーク時代の初期に制作された「孤」や「フォトカンヴァス」のシリーズが、じつにみずみずしく、魅力的な作品であることに気づいた。たしかに、コンセプトを重視する「シカゴ派」の写真作品や、当時流行していたポップ・アートの影響は感じられる。だが、若い日本人女性アーティストが、身の回りの事象に好奇心のアンテナを伸ばし、作品化していくプロセスがしっかりと組み込まれていることで、共感を呼ぶ作品として成立していた。

そのような、のびやかで流動的な作品づくりの流儀は「フォトグラム」作品にもそのまま活かされている。そこから、飼い猫が暗室内の印画紙の上で戯れる様子をそのまま定着した《子猫の書類》(1992)のようなユニークな発想の作品も生まれてきた。1999年以降に制作された「アーティスト、科学者」のシリーズでも、モデルとの親密な関係をベースにしながら、即興的に画面を組み上げていくやり方をいきいきと実践していった。

50年以上にわたるシカゴ、ニューヨークでの生活に根ざした杉浦の作品世界は、ほかの追随を許さない領域に達している。だが、それらは孤高の高みというよりは、親しみやすく、とてもオープンな印象を与える。2009年から日本各地で撮影されているという「DGフォトカンバス」のシリーズを含めて、その柔らかな感受性は、これから先も写真という表現メディアの特性を活かして、さまざまな方向に伸び広がっていきそうだ。

2018/08/02(木)(飯沢耕太郎)

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ダレル・ジョーンズ『CLUTCH』

会期:2018/08/03~2018/08/04

ArtTheater dB KOBE[兵庫県]

昨年のKYOTO EXPERIMENT 2017での上演が中止となり、約1年後に実現した神戸上演でやっと見ることができたダンス作品。なぜ神戸で上演されたかというと、昨年5月に神戸のDANCE BOXにて滞在制作を経た作品だからだ。ダレル・ジョーンズは、アメリカの黒人やラテン系のゲイカルチャーの中で発展した「ヴォーギング」というダンスのスタイルを取り入れ、身体表現を通して自身のセクシャル・アイデンティティや抑圧のメカニズムについて問うてきたダンサー、振付家である。「ヴォーギング」の名称は、ファッション雑誌『ヴォーグ』のモデルのようにポージングを決めながら踊ることに由来する。本作『CLUTCH』でも、DJが刻むビートの高揚に合わせ、ジョーンズは同じく黒人の出演者2名とともに、蠱惑的なポーズを取り、あるいはランウェイを歩くモデルのように腰をくねらせながら高速でターンを決めてみせる。中盤では弁髪のように垂れ下がったカツラを装着し、トランスの集団的な高揚とも威嚇し合う獣ともつかない、ヘッドバンキングを繰り出す。

ただ表面的にクラブカルチャーを取り入れたというのではなく、ある種の両義性、メタフォリカルな戦略性、そして「儚さの美学」があることが特徴だ。蠱惑的なポーズや肢体を見せつけるようでいて、その身体は同時に硬い防御の殻を纏っている。見る者の視線を吸い寄せながら、欲望の眼差しをはね返す鎧のような緊張感が常に漂う。闘争的であり、解放感にも満ちている。その両義性は、例えば、途中で彼らが身に着ける「何重ものメタリックなバングル」に象徴的だ。暗転した暗闇の中でバングルがカチャカチャと硬質な金属音を響かせる時、それは鎖や手枷のような拘束具を想起させる。一転して明るい照明が付くと、彼らの激しい動きに合わせてキラキラと光を放ち、魅了する装身具となる。とりわけ終盤にかけては、ゲイのアーティストの多くに共通してみられる「儚さの美学」が感じられ、繊細にして強い印象を残した。高いヒールのサンダルを履いた相手の足を愛撫するようにゆっくりと持ち上げると、ヒールに付けられたクリスタルパーツが足の動きに合わせて光を放ち、ミラーボールに包まれた空間へと変貌する。ペットボトルを股間にあてがい、ぶちまけた水を相手に飲ませるラストシーンは、露骨なメタファーの中に、水しぶきに反射した光が見せる幻想的な美しさが同居する。彼らはその粒立ちの光をひと時浴びて祝福的な空間に浸された後、再び暗闇の中へと姿を消していった。



[Photo: junpei iwamoto]

2018/08/03(金)(高嶋慈)

2018年09月15日号の
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